ずっとそばに

 村西知佐 十七歳

 そう書かれていた。
 言葉が飲み込まれてしまう。
 村西知佐。俺の名前だ。
 こんな変わった名前の奴、なかなかいない。
 寒気が走る。石に刻まれた文字の続きを読む。村西知佐、享年十七歳。
 十七歳、村西知佐、村西ちさ。
 ありえるはずもないパズルのピースがぴったりはまり込む。
 立ち上がる。強い風に一瞬目を閉じて、そして
「ごめんなさい、知佐」
 柔らかな手が肩にかかっていた。背中を通じて温かいものが俺によりかかる。
首筋には優しい匂いの髪の毛。
「それ、私のお墓です」
 さっきまでそばにいた村西ちさの声が背中に響く。
「知佐、そのままで聞いてくれますか」
 背中の温かみが不思議な安堵感に変わる。
「私、弟が生まれるって知ってとっても嬉しかったんです」
 背中の温かさは本物だった。
「驚きましたか、知佐。でも笑っちゃってくれていいんですよ。ばかだなって」
 心から楽しそうに笑う。心の中に大きなものがぽっかりと口を開く。
「って、言ってくれるのが私の願い、でした」
 温かい言葉に耳に吹き付けられる。
「叶わなかったんですけどね。私、ため池に落ちちゃったから」
 言葉が頭の中を反芻する。俺の姉であったはずの人、ちさ。混乱のきわみに
あるはずなのに、心の中は穏やかに過ぎる。ゆったりと過去が頭の中を駆ける。
「私、池に落ちて囚われている女の人と会いました。その悲しさを慰められる
ならって思ってしまいました。だから、池に残っておくことにしたんです」
 俺の頭にも甦る。
 記憶に残るのは白く、細く、強い手。濃紺の冷たい水に沈む身体をそっと掬
い上げてくれた、温かさ。叶わなかった出会いと、知るはずもなかったやさし
さ。出会う前から分かれてしまった、そう思った。
 きっと俺は引き込まれかけ、そして
「ちさの手、か」
 温かい手に引き上げられた。その温かさが今度は肩を抱く。
「わかっちゃいますよね。はい、もうあそこに落ちるのは私で終わりにしよう
と思うんです。だから助けてしまいました」
 あの懐かしさがすっと心の中に入る。俺はそうやって助けられたのに人を不
幸にするだけで。
「知佐、あなたはとても悪いことをしました。自分の責任でないとはいえ、罪
を犯してしまうなんてとても悪い弟です」
 ちさの言葉に自分を振り駆る。家を飛び出し、帰らなかった。母を看取って
やることすらできなかった。生まれて三十年何一つ母に孝行してやれなかった。
そして妻すらも傷つけ
「俺、最悪だな」
 傷つけるためにだけ生まれてきたような人間だった。
「何言っているんですか。親孝行なんて知佐が赤ん坊の頃、お母さんに笑いか
けたものが全てなんですよ。それだけで母親はどんな苦しみもなかったことに
できるんです」
 その言葉はただ、諭すように告げられる。
「ですが知佐は最悪です。お母さんのこと、看取ってあげませんでした。そし
て大切な人に自分から別れを告げました。これはそんな痛みだと思って受けて
ください」
 頬に思いっきり手を張られた。絶対明日まで残りそうな小さなかえでが頬に
咲く。
 だから、俺を叩いたその手をそっと握り返した。
「許してもらえる相手すらいない俺に、せめても罰か」
 ちさが笑い、身体の力を抜く。
「いえ、知佐の悪いところはさっきので全部許します。お母さんの代わりに」
 きっと俺の知らないいろんなものの織り成す、複雑で繊細な綾の中。そんな
綾の、揺らぎの中で姿を保った村西ちさ。俺の姉。
 母は俺に笑ってくれたのだろうか。もう見ることの叶わない母の笑顔を切望
する。母を笑わせることも出来なかった俺を悔やむ。
 毎日、当たり前のように、この田舎の空気と同じように変わらず俺を育てて
くれて。何かいいことがあると
「みつばのお味噌汁、おいしかったですね」
 作ってくれた。
 ほんの少し苦い、さわやかな香り。それ以上は言葉にならなかった。
 母が死んだ。
 もう、味わうことが出来ない。もう、笑顔を見ることができない。こうやっ
て強く叩かれることもない。謝る言葉も届かない、ありがとうの五文字が伝わ
らない。
「ちさも負けてないぜ」
 こらえたものを何とか形にして吐き出した。
 目を閉じて最後の残光を遮る。
「ありがとう、こんなだめな姉でしたが」
 素直に言葉を返す。
「自分でだめとか言うな。だめな姉を持った俺はもっとだめっぽいだろ」
 手に届くはずもなかったその人の頬に触れる。
「いいこといってくれます。では私は立派な姉です」
「平凡以上なら文句を言わないつもりだぜ。だってちさは頼りないし」
 つい口答え。
「私、いい弟持ってよかったです。だから二つだけいいつけ、しておきます」
 今度こそは約束を守ろう、そう思う。
「一つめはお母さんのことです。これからもこの場所に来てください。もうや
り直せませんが、お母さんにしっかりと謝って、甘えてあげてください」
 今更だけど。
「約束する。一年に一回くらいにはなるだろうけどな。それで、もう一つは」
 ちさが笑う。
「はい、一番大切な人、千里さんと交わした約束、果たしてください。それは
私には許すことの出来ないことです。できますね」
 三年前を思い返す。
 もう明日にも逮捕されると分かっていた。
 理不尽ではあるが、自業自得だと思いあきらめた。だが、都会に出てきた頃
からこの上なく経済力のない俺を支え、ついてきてくれた妻にだけは迷惑をか
けたくなかった。身内が逮捕されるよりは、他人であったほうがいいと思った。
だから最後に離婚届を差し出した。妻が言おうとした言葉を遮って、後で聞く
という約束をして、離婚届に笑顔で判を押してもらった。
「もう、妻とは他人だ。俺は迷惑をかけた。今更守れる約束じゃない」
 あの日、妻が何を言おうとしていたかなんて今更過ぎる。俺は妻だった大切
な人の笑顔に値しない。
「知佐はやっぱり女の子のこと、わかっていません。それなら見せてあげます。
これが女の子の特権で、勇気です」
 ちさの頬が俺の手を振り切って、顔を寄せる。
 右頬に温かいものを感じ
「勝ち逃げします。知佐」
 右頬に温かさだけを残して、そんな言葉が耳の奥にだけ響いた。
「私はこの村に留まります。もう知佐が溺れないように、この場所でずっと見
守っていきます。だから、ここからはじめてください。大丈夫、知佐は私が守
ります」
 その言葉に全ての環が閉じた。
 大きな夕日が最後の光芒を山の際に投げかけて、ちさの姿はどこにも見えな
かった。
「ありがとう、ちさ」
 俺のありがとうは、姉に届いただろうか。
 永遠にこの村をさまよい続け、どうしようもない孤独を深く救い続け、自分
ひとりだけは冷たい水の中に留まり続ける、それが俺の姉だという不思議な人
との別れだった。

 夕焼けの最後が遠くの空を赤く焦がす。
 車へと向かった。薄暗さの中、だからそれには気づかなかった。
「お久しぶりです、知佐さん」
 聞き間違えることもないその声。妻だった人、千里の声だ。
「ああ、初めまして、ではないな」
 縁をきったはずのその人がいた。
「からかわないでください。これが私の精一杯の怒り方なんです。弱い知佐さ
んに責任を取ってもらおう、ってそう思って必死で怒っているんです」
 千里はこの世で一番怒るのが苦手な人だった。少し滑稽なその言葉に過去が
甦る。
 取るべき責任は大量にある。社会的な責任を果たそうとも、妻であった人に
かけた迷惑は計り知れない。
「俺に出来ることなら何でもしてやるぜ」
 そうは言っても出来ることなんて何もない。金もなければ力もない。身から
出た錆で自分ひとりが生きるのも精一杯だ。人に償うことなんてできない。
「ではあのときの約束、果たしてください。私の話を、聞いてください」
 妻であった人が歩み寄る。その手の下に小さな手が見えた。
 その小さな人影が妻であった人の影に見え隠れ。
「子供ができました。ついでに言うと、産まれました。知佐さんとの子供です。
育てていきましょう、一緒に」
 三年前の言葉が、形になっていた。
 ああ、これだったんだ。
 うれしくて俺に言いたかったこと。
 それを俺は自分勝手に壊して、出て行って。
 膝をついた。
「俺は、やり直していいのか」
 たった一人都会の隅、出合ったその人の事を好きになった。狭い部屋で、体
温すら感じるその部屋で必死に生きて、必死に幸せになろうとして、そして自
分から壊した幸せを願い、許しを請う。
「やり直し、なんてききません。人生にもう一度はないって知佐さんが言って
くれました。だから約束ではなく、これは私の命令なんです。知佐さんは一生
をかけて私に償わないといけません。その償いを、ここから始めてください」
 千里が続ける。
「三年間、ずっと一人で過ごしました。とても大変で、寂しかったです。だか
らこれから先はずっと一緒にいてください。知佐さんが一生分のわがままを通
したんですから、私も一生わがままを言います。そんなわがままな私ですが、
ずっとそばに、いてください」
 全然贅沢でもなんでもないわがままだった。
 想像以上につらい未来だろうけれど。社会は全く甘くないだろうけれど。そ
れでも。
「なあ、千里」
 立ち上がり、三年ぶりのその名前を口にする。もう二度と呼ばないと誓った
その名前だった。
「はい」
 そんな三年間がなかったかのような返事が戻る。
「ここからはじめていいか。ずっとそばで」
 笑われる。
「もちろんです。これから知佐さんは埋め合わせが大変なんです。とりあえず
次の休みには一日中どこかに連れて行ってもらいます。場所はどこでもいいで
す、何をしてもいいです、私でよければそばにいます」
 飛びっきりの笑顔だった。
「ありがとう、千里」
 明日の計画を考える。とりあえずチャイルドシートでも買いに行こう。それ
から
 ずっとそばにいよう、そう思った。

完


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