ずっとそばに

-転-

 夢の中、俺は確かに一人ではなかった。
 顔すら知らない父と、見たことすらない母の笑顔と、誰か。現実には決して
出会えなかった人。出会うことはなかったのに、記憶に残る別れのせつなさ。
俺は小さな手につながれていて、ただ幸せだった。
 いるはずのないその人が俺に語る。悲しい、この土地に縛られ続ける少女の
姿をした幽霊の話を。そして言う。
 大丈夫、知佐のことは私が守ります。
 そしてその小さな手が俺の背をそっと、押す。

「知佐さん。起きてください」
 必殺布団返しだ。これは幼馴染という名の怪獣の仕業であり、常套手段とし
ては無意味な抵抗を試みることになっている。
「いや、俺が寝ている夢を見ているだけだろ。じゃあな、幼馴染」
 妖怪世話焼き女め、さらば。
「わかりました。やりたくはありませんが、必殺技を使わせてもらいます」
 まぶたが摘まれ、力技で目をこじ開けられ、
 ぽと。
「うわぁあ、目が、目がぁ」
 男なら一生に一度はやってみたいネタだった。
「何驚いているんです。目薬、ですよ。知佐さん」
 寝ながらにして飛び上がるという高等技をこなす。脳を落ち着け、記憶を必
死にたどる。
 そうだ、実家に戻ったのだ。で、天井が見えた、ならまだいい。視界にはど
アップの女の顔が一つ。朝っぱらから心臓に悪い。
「もう六時半です。朝は早いと言っていましたよね。起きてください」
 ちさだ。底抜けの笑顔が目にしみる。昨日墓場で出会い、実家で食事をして
、ああ、俺は確かに言った。六時には起きている、と。痛む頭で激しく後悔す
る。身体を起こしてちさを眺める。
 髪が少し濡れている。風呂にでも入ったのだろうか。着ているものは昨日と
は違う。黒のソックス、そして白のブラウスに白のスカート。スカートなんて
昨日おろしたかのように折り目が立っている。着ているものが変わるだけで落
ち着いた清楚な人間に見えるのは不思議だ。服が変化したということはとりあ
えず家には一応帰ったのだろう。帰ったのだろうが。
「ちさ、朝から元気だな、俺が頭痛いってのに」
 酒は残っていないが、ほんの少し二日酔いの気配がする。
「はい、そんなときのためのとっておきです」
 スカートのポケットから黒い紐のようなものを取り出す。危ない波動が漂う。
「これ、秘伝のお薬です。スッポンを食べたマムシが脱皮した場所からしか生
えてこないキノコを鯉の生血で煮込んで煎じたものです。男の人はこれでイチ
コロだそうです」
 そりゃイチコロだろう。
「これ飲ませたら男の人は一発だ、ってお母さんが言っていたんです」
 一発どころか何発でもできそうだった。
「とりあえず信じないほうがいいぞ、それ」
 朝から咲いた満面の笑みが言葉を返す。
「でも男の子へのプレゼントはこれがいい、ってお母さんが言っていました」
 別の意味で頭痛が襲い掛かってくる。
「ちさ、絶対だまされて」
「そんなことより知佐さん、朝ごはんです」
 言葉を遮り、食欲に訴えて話題を転換するとはさすが最強の母親の娘だ。

「で、今日は墓を探す手伝いをする、とか言っていたが」
 食事を片付け、尋ねてみる。
「はい、そう約束しました。お墓の案内は無料なんです。ほんとうです」
 これで金を取ったら犯罪だ。そして俺はこの笑顔に何を言おうとも無駄であ
るということを悟っている。
「よし、車に乗っていってくけ。そのほうが早い」
 合理的かつ気楽だ、そう思った。
「あの大きな車では道が狭すぎて入らないです。谷底に落ちて墓参りに来たは
ずが以下略になります」
 そのネタは昨日聞いた。だが、現実的には田舎の道なんて軽自動車いっぱい
の道もある。ここはちさに従っておくのが得策だろう。とんでもないバックな
どさせられた日にはたまったものではない。
「で、車が使えないとなると徒歩か」
 小さな集落といってもさすがに勘弁して欲しい。
「そこで、こんなときのための自転車です。貸します。無料です」
 ポケットから鍵が出てくる。謎のポケットだ。
「実は四次元ポケ」
「でも一台だけなので乗せてくれますよね」
 まあ、そうなるだろうとは思っていたが都合のいい奴である。だが、それは
何か懐かしく、幸せな感じがした。こんな温かさが、ずっとそばにいたような
気がした。

 いい年こいて自転車の二人乗り。しかも田舎のありえない坂道である。
「これ、左の坂を登りきると中学校があるんですよね」
 背後から楽しげな声がかかる。壁と見まがうような坂が立ちふさがる。
「よし、まかせろ。登りきるぜ」
 立ち上がってペダルを踏み込む。腰にしがみつくちさの細い腕がくすぐった
い。
「見晴らしがいいんですよね。遠くのほうで雪かぶった山、なんて名前でしたっ
け。優しくて雄大で。知佐さん、さっきから私ばっかり話しています。不公平
です」
 俺も不公平だと思う。両足のペダルで計0.1tに近い物体を引き上げているの
だ。心臓がストライキを起こしそうな運動だ。だがここは意地でも登りきる。
 激闘十分、目の前に青空が広がる。
「っはあ、ついたぞ。地獄の見山坂駆け上がりコースだ」
 背中にしがみついていたちさをおろし、自転車を止める。冬支度に入った近
くの山に遠くの白い峰。噴出した汗が冷たい風に気持ちいい。
「わあ、ほんとにきれいです。ほら」
 ちさが手を広げて目を閉じて風に立つ。深呼吸でもしているのだろうか。俺
もまねをする。懐かしいような、ずっとこのままいたいような気がした。
「で、墓の場所なんだが」
 空に向けていた目を俺に向ける。
「お墓は坂を下ったところの七つ谷への分岐を右に折れた先の三叉路の一番細
い道を走った場所です」
 ああ、風が、こんなにも、気持ち、いい。
「って一番下じゃねえか。なんでここまで登らされているんだ」
 高みから見る景色はいつも気持ちいい。ちさの姿がふと、目に入る。それだ
けのことで人にも翼があったかもしれないずっと大昔を夢想すらしてしまう。
絶対にたどり着けないはるかな高みへのあこがれかもしれない。
「だって登りきると中学校があるって言ったら知佐さんがよし登りきるぜって」
 だから、そんな景色を二人で眺めていたかった。一枚の風が二人分の隙間を
通り抜け、すぐ後ろで一つになって、ずっと向こうを通るはずの鉄道の振動を
置き土産に消える。
 風のたどる先は命に良く似ている。
 どこかで生まれ、他の誰かと一緒になり、強めあい、弱めあい、涼しさを残
してどこかに消えていく。そんな命であればどれほどにいいだろう。
「戻るか。ちさ」
 顔も見ずにそう聞いていた。うなずいたその先の大気の揺らぎが、ただ心地
よかった。

 森の中の小さな池。九十九折の林道。轍の残る細いあぜ道。彼岸花の咲く集
落の切通し。刈り入れの終わった静かな棚田。ひこばえの生える切り株の合間。
昼食を川沿いの道すがらで摂り、ため池の縁を歩く。
「ここだ、幽霊の話のため池」
 ちさの顔が曇る。一瞬、話題を間違ったかと反省。あまり頭に入れていなかっ
たが、ちさだって一応は女の子だ。秘密基地作ってイノシシと格闘する経験も
なければ怪しげな廃車に忍び込んで腹の立つ先輩を待ち伏せしてボコるなんて
こともしないだろう。ましてや幽霊話なんてちょっとしたショックかもしれな
い。隣のちさをてっぺんからつま先まで眺め直す。
 素直な好意の持てる姿。決して上品でも、育ちがいいわけでもない。清楚、
や端正とも少し違う。言葉に当てはまらないが、なぜかそこに感じる懐かしさ
と温かさ。そこにいるだけで感じる清々しさ。隣を歩いているだけで感じる楽
しい雰囲気。ずっと昔、あるはずだった何か。                    ずっと昔の記憶がよみがえる。
「はい。ここに来た子供を引き込んでしまうって話ですよね」
 言葉が風に乗り、つぶやきが遠くまで流される。
「そうそう、昨日言ったやつ。水神様と結婚した娘が次のいけにえを求めてっ
て話だ。実際俺もここでおぼれかけたな」
 何かに惹かれるようにこの場所に来ていた。そして突如ため池の縁が崩れた。
水が一気に鼻から入り、そこから先の記憶はないが、発見されたときには池の
縁に倒れていたらしい。
「ここでおぼれると絶対に助かりませんでした。引き込まれて」
 その過去形に違和感を覚える。
「でも俺、引き込まれたってよりは助けられたんだろうな」
 思い出す。崩れた茶色の土も、はがれ落ちた雑草の緑も、冷たい濃紺の水の
味も、意識を失う瞬間に見た、なにか白くて温かい
 記憶に残る、白く、細く、強い手。濃紺の冷たい水に沈む身体をそっと掬い
上げてくれた、温かさ。叶わなかった出会いと、知るはずもなかったやさしさ。
ずっとそばにいて、出会うこともなかったのに別れた記憶だけの残る、昔の一
章。
 白い服を着たちさが折れそうなほどに細く、強く見えた。
「お墓はあちらの祠の裏です。ここでおぼれちゃったらお墓参りに行くは」
「以下略でいい。行くぞ」
 笑ってその頭を撫でてみる。なぜか、そうしてみたい気分だった。この時間
が、ちさのそばにいる時間がずっと続けばいい、そう思った。ずっと昔からの
俺が切望したもののような、そんな気がした。
 俺の中の「ありがとう」という言葉を伝える相手はずっとそばにいたはずな
のに、届くことはなかった。母にも、妻にも、そして、俺を助けてくれた誰か
にも。

 夕日に伸びた影が稲の刈り終わった田圃に重なる。暮れかけた日が背中に心
地よく疲れを癒す。
「なかった、な」
 一日走った。久しぶりに汗をかいた。子供のように動いた。とても楽しかっ
た。結局は自動車でも回れただろうが、無駄に充実しきっていた。
「ありませんでしたね」
 無意味に明るいちさの声。下手に沈んだ顔で残念がられるよりは何倍もいい。
「親の墓の位置はまた親戚にでも聞いておくよ。ま、一日感謝するぜ」
 嘘偽りのない俺の気持ちだった。母の墓参りはできなかったけれど、これで
いいと思った。
「私も知佐さんと回れてよかったです、ほんとうに」
 目を伏せてそう言う。頭の上に手を置いてやる。そうしてやりたかった。
「ああ、最後だ。車までつきあってくれるか」
 俺の握っていたハンドルにちさが手を重ねる。頬が赤くなってしまう。
「自転車は私が押していきます。ほんとうは車でもよかったんですけど、一緒
に自転車で回りたいなって思いました。だからこれは私のわがままです」
 この日一番の笑顔が咲く。
「って確信犯か」
 戯れに髪の毛をなでてやる。でも。自転車で回った時間はほんとうに素敵だ
った。長い影が遠くまで伸びる。
「知佐さん、また、この村に帰ってきてくれますか」
 ちさの言葉が強く響く。
言葉に詰まる。俺はこの、母もいない集落に戻ることがあるのだろうか。
「帰ってきますよね。だってお母さんのお墓、探しに来ないと、それに」
待つ。だが、ちさはもう、何も言わない。寺の駐車場に到着し、車の前まで来
て気づいた。
「ちさ。まだ寺の敷地の墓を調べてないよな、確か」
灯台下暗しとは言うが、まさにこれだ。
「でも、ここは探さなくていいです。だって」
 強い口調だった。ふと思い当たる。ちさはこの場所を意図的に避けているの
ではないのか、と。
「少しだけ頼む。俺はこちらを調べる。ちさは向こう頼む」
 ちさの真意を知りたかったが、それは後でもできる。一つ一つ、しゃがみこ
んで名前を確認する。村西静香の墓を。
 そして
 きれいに掃除された、昨日手向けられた花のある場所。夕日に石の反射する、
がけの近く。
 一発だった。
 昨日適当に指差した墓。その側面に確かに書かれていた。村西静香、六十七
歳。間違いない。
「ちさ、見つけたぞ。ここだ。来てくれ」
 姿は見えないがそんなに広くないのだから聞こえているだろう。
 それにしても誰が俺の母親の墓に花を添えるのだろう。俺以外の親族が来て
いるのだろうか。墓石をもう一度見直すと奇妙なものに目が捕らえられる。
「ん、親戚も入ってたか、ここ」
 普通の墓石よりはるかに小さな石。書かれた文字を読む。

 村西知佐 十七歳

 そう書かれていた。


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