ずっとそばに

「はい。お待たせしました。なんと冷えたビールまであるんです」
 十五年ぶりに入った実家で思い出に浸っているまもなく、騒々しさの権化が
扉をぶち破る。
 右手にはバケツのような鍋と食材の山、左手にはビール瓶のケースと一升瓶。
ありえない重さを絶妙なバランスで運び、平然と食卓に飛び込み、当然のごと
く台所を荒らしまくる。手伝う余裕すらない。
 その背中をただ、不思議な感覚にとらわれて眺めていた。決して見ることの
なかったはずのその光景がなぜだか懐かしい。
「お前、さも当然かのように上がりこんでいるな」
 相当に手の込んだ豪華なもののように見えるのだが、あの短時間でどうやっ
て用意したのだろう。神業か、料理のプロか、魔法か。
「ここ、居心地いいから勝手に掃除とかさせてもらっているんです」
 他人の家を勝手に掃除するとはたいした度胸だ。こいつの精神は神様か、仏
様か。魔法の一つや二つ、使えても不思議ではない。
「実は目を閉じて祈れば何かを降臨させられるんじゃないか、お前」
 降臨するものがゴキブリの山でないことを祈りたい。
「はい、晩御飯そろいました。据え膳です。しっかり食べないと男の恥だって
お母さんが言っていました」
 ナイス母親。娘が意味を取り違えていることを気づかせてやれ。
「まあ、とりあえず飲むか。グラス持て」
 みつばを浮かせた味噌汁の香り漂う実家は、出て行った日のままだった。十
五年という時間はただ、ずっと遠くにあるようでずっとそばにあるようで。
 空気は何も変わらないのに主を失ったこの家に乾杯する。

 一緒に飲んで三時間半。既につぶれる寸前の俺と更に加速のかかった村西ち
さ。日本酒のビンが二本、畳に倒れこんでいる。二人で二升。致死量を超えて
いるような気がするが、気にしてはいけない。
「で、お前」
「ちさです。言いなおしを命じます。従わなければヘルメットにお酒注ぎます。
一気です」
 目が座っている。本気で殺されそうだ。
「ちさの親ってどんな人だ」
 どう育てばここまでまっすぐになるのか聞きたかった。
「はい、お父さんはとっても強かったです。お母さんはいつも笑顔でした」
 幸せそうで何よりだ。俺にはなかった何もかもがちさにはそろっている。ま
っすぐ育つかどうかというのはそれだけのことらしい。
「知佐さんのお母さんの話も教えてください」
 家族の話なんて、妻だった人にしかしたことはない。それでも、初対面であ
るはずのちさには話してもいい気分だった。
「もう死んだ。いい人だったんだろうけどさ、いつも必死で笑う顔なんて見た
こともない。最後に顔見たのは俺が十五のときだ」
 気がつけば、母の笑顔を知らない俺がいた。
「知佐さん、なぜお母さんが笑わなかったか、わかりますか」
 こんな田舎で、母親一人で子供を育てるなんて楽じゃない。母には笑う余裕
すらなかった。だが、そんなことを説明しても仕方ない。
「俺は母を捨てて都会に出た。迷惑をかけるだけだった。だからだろうな」
 ちさが一瞬だけ顔を伏せる。
「知佐さんはどうして家を出たんですか。迷惑をかけるために都会に行ったん
ですか」
 結果はその通りだ。都会に出たことで、母にも大事な人にも、そして多くの
人にも迷惑をかけた。ここを出なければ、誰も不幸にしなかった。それはわかっ
ている。言い訳だけはしない。だから
「この村にいたくなかった、それだけだ」
 酒の勢いだけで他人事のように語る。
「この村は冷たかった。こんな物語がある」
 思い出す。
「村の水神様の生贄にされた女の物語だ」
 悲しくて冷たい物語はこの村の象徴だった。
「生贄にされた女は水神様に愛されたがこの村からでることができなくなった。
だから村から出ようとする奴に嫉妬して人を水の中に攫う」
 どこにでもありそうな物語だ。たいていは村の結束を高めるために作られた
ものだろう。
「母はこの村を出れば絶対にいい生活が出来たのに、そうしようとしなかった。
物語の中の女のようだった。だから、絶対都会で儲けて母をこの村から出して
やろうと思っていた」
 そのときの気持に間違いはない、と信じている。
 最後まで母に悪態をついて飛び出した。それでも、最後には笑わせてやりた
いと思っていた。母の前で素直になれるほど子供でも、大人でもなかった。
 なのに。
「いつの間にか儲けることが目標になっていた。儲けるためには汚いこともし
た。そして」
 いつだって悪いことは続かない。全く母の言っていた通りだ。
「妻と離婚して塀の中に三年間暮らした。その間に母は死んだ」
 三流ドラマのやられ役のような結末だった。いつもどおり笑顔で迎える妻に
離婚届を出して、その足で出頭。
 あの日。いつにも増して笑顔だった妻の姿が脳裏に残る。笑顔で言った言葉
が耳を離れない。
 知佐さん、とても大切なお話があるんです。幸せなお話です。聞いてくださ
い。
 笑顔で語られる話を聞けるはずなんてなかった。
 これから不幸にさせるのだ。俺に家族の幸せは贅沢すぎた。
 人を幸せに出来るだけの力なんて俺には最初からなかったのだ。だからその
話を遮って離婚届を出した。母の元から逃げたのと同じ、妻の元からも逃げた。
「大丈夫です。知佐さんのお母さんはとても幸せだったと思います。だって、
いつまでも手のかかる子はとても愛おしいものです。私のお母さんはそうお母
さんが言っていました。それに、お母さんを幸せにしてあげようと思った、そ
の知佐さんの心は正しいです」
 ちさが母親のように語る。ちさの何気ない行動全てが母を思い起こさせる。
 そうだ、ちさは俺が夢想する「母親」に似ているのだ。
「ちさ、まだ帰らないのか。親が心配するだろ。送ってやろうか」
 ちさにはきっと、温かい家庭があるのだろう。
「大丈夫です。自分で帰ります。それよりも私、毎日暇なんです。今日の知佐
さんの非礼の罰として明日、お墓探しについていきますね」
 要するに暇だから適当な理由をつけて時間をつぶしたい、と。
「ああ、明日ちさがここまで来てくれれば考えてやろう。ただし俺の夜は激し
く、朝は早い。午前六時にはギンギンに目が覚めている。心して来ないと空気
だけで妊娠できるぜ」
「あ、あんなところにアルバムがありますね。知佐さん、見てもいいですか」
 ああ、田舎の空気は、こんなにも、俺を無視しますか。
「そのアルバム、途中まで欠番だけどな。さっさと見て帰れよ。俺は寝る」
 急激な眠気が身体を襲う。
「夫婦は、ずっと一緒です。だから千里さんもきっと幸せで、一緒のはずです」
 一瞬目が覚める。なぜ、妻の名をちさが知っているのか。俺は妻の名前を口
にしただろうか。
 そんな疑問も眠気には勝てなかった。

 ずっとそばに。そう誓った妻だった人のことを思い出した。


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