スタートライン

エピローグ


 春のグラウンド。
 いろんなことが思い浮かぶ。
 目は見えていないけれど、風景だけはしっかりと頭の中を駆ける。
 葵のタイムを計りつづけた暑い日のこと。熱中症で倒れていた葵のこと。一
緒に食べたアイスクリームの味、予選落ちした葵の涙と、初めて大会で優勝し
た笑顔の葵と、誰よりも厳しく清らかな顔で飛ばす葵の姿。
 みんな私の大切な宝物。
 これから何年経ってもその風景はセピア色にはならない。
 そして今、私は葵を見続けたいた場所ではなく、葵の横にいる。私が立つこ
とのなかったグラウンドのトラックの上だ。
「ねえ、葵。調子は?」
「今日は絶好の長距離日和だね」
「うん、温度も葵がベストタイムを出すくらいね」
 今でもわかる。一秒単位で葵のゴールの瞬間まで予測できる。
 でも、今日の葵のタイムはいままでの三倍は覚悟してもらおう。
「じゃあ飛ばすよ、桜」
「ちょっと、葵。走るのは葵じゃないんだからね」
 慌てて紐を引っ張る。
「嘘だって、桜。一緒に走ろう」
 葵が紐を引っ張る。
 そう。今、私と葵は一本の紐で繋がれている。
「伴走の紐、かぁ」
 手首に絡んだそれを感じ取る。
 私はコースが殆ど見えていない。加えて近づいてくる人も見えていない。私
が走るなら誰かに誘導してもらう必要がある。
 それが葵だ。
「じゃあ、行くよ」
 一緒に走りたい。
 その望みを、ちょっと変な感じで叶える。私たちの、二人で切る再スタート。
ストップウォッチも何もない、長距離走のはじまり。
「お姉ちゃん、行くね。よーい」
 楓が息をためる。見えていないけれど、近くには陸上部の子たちがいるはず
だ。絶対に走らなかった私と、一年留年した葵をどんな気持ちで眺めているの
だろう。
 今はゴールすることだけを考える。
「どんっ!」
 地面を蹴った。


 ああ、これだ。
 この子の感じていた風を今、ようやく感じることが出来る。
 それは六年かけて立てたスタートライン。
 目指してきたわけでも、念願叶ったわけでもなんでもない場所。
 手に巻きつけた赤い糸と、その先に繋がっているはずの笑顔は失わない。

Fin




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