スタートライン

第十四話


 実に拍子抜けすることがある。
 失明と聞いて何を思うだろうか。
 普通は目を完全に閉じて、完全に光を知らない世界が訪れるものだと、その
ように思うだろう。私もそう思っていた。
 でも。
 今の私は視力の全てを失ったわけではなく、視度だけなら十度ほど確保され
ている。気づくのが早かったおかげで最悪の事態は避けられた、ということら
しい。さすがに車の運転はできないということだけれど、普通に慣れた道を歩
く程度のことはできる。本だって厳しいけれど頑張れば読めるし、字だって書
くことができる。普通の人から見れば気味悪いほど目を近づけて字を読むこと
になるのだけれど、それでも大学にいくことだって、仕事をすることだってで
きる。
 なのに、私はたくさんのものを失った。いっそのこと完全に光を失ってしまっ
たほうがいいと思えるほどに大きなものを失った。
 私は普通に学校生活を送ることができたし、一年遅らせずとも大学に行く事
だってできた。悔やんだってもう遅い。出席日数が足りているなんて理由で高
校を卒業したのが昨日のこと。先生が家にまで卒業証書を持ってきてくれた。
全然嬉しくない卒業だった。
 それでも。
 それは全部私のせい。私の臆病さと、意地っ張りが私を独りぼっちにさせた
というのなら、まだいい。私が後悔だらけの学校生活を送ったのが私の責任な
のは受け入れる。
 でも。
 葵。
 私は葵から何もかも奪ってしまった。
 陸上部での輝いていた生活。高校生としてのありきたりの生活。それどころ
か普通に暮らす時間も全部奪った。私のせいでけんかして、学校を無期限に停
学になって、陸上の記録も全部消されてしまって。
 葵に合わせる顔なんてない。あの子らしい輝きを奪ったのは私。私の弱さが
あの子から全部を奪った。私は葵にひどいことして、葵の進んで行く道を絶っ
た。あの子の過去も、将来も奪った。
 私がマネージャーで、葵を支えてきた、だって?
 それは違う。
 私が支えられてきたんだ。最初からわかっていた。私は、葵に全部支えられ
てきた。葵がいなければ私はここにいなかった。私は隣で応援する振りをして、
葵に依存していた。葵にしてみればいい迷惑だったのだろう。
 今なら分かる。
 私は葵のことが大好き。中学一年生のあの日、葵の走る笑顔を見たあの瞬間
から、他の誰かを選ぶ前から葵のことが好きだった。あの日に見た葵の笑顔に
一目惚れして、ここまでやってきた。葵の笑顔が大好きだった。葵の見る風景
を一緒に見たかった。葵の側にいることに理由をつけていただけ。
 とんとん。
「どうぞ」
 部屋の扉。
「お姉ちゃん。入るね」
 楓か。まあ、歩くときのスリッパの音で誰だか分かっていたんだけど。
「どうかしたの、楓?」
 こんな状態になっても、楓だけは私の隣にいる。たまに勉強の事なんか聞い
てきて、やっぱりとんでもなく間抜けなのが少し笑えるんだけれど。勉強だけ
ならまだ少し、楓に教えてあげられるだろう。
「うん、ちょっと暇だったから」
 そんなことを言って隣に座る。腕の辺りにまとわりつく感じはまさに子犬。
もうちょっと自立して欲しいとは思うけど、楓はこれくらいがちょうどいい。
この子に理不尽だとか、運命だとか、因果なんて言葉は似合わない。何の疑い
もなく続いていく幸せに恵まれますように。
「あ、そっか、楓はもう春休みよね。お茶でも淹れてこようか」
 私も随分甘くなったものだと思う。目が見えなくなる前だったら追い返して
いたかもしれない。
「お茶はいいよ、お姉ちゃん。あの、ちょっと一緒に行って欲しいところがあっ
て」
「行って欲しいところ?」
「うん」
 楓が私を外に誘うなんて随分進歩したんだ。
「いいわよ。どこに行くの?」
「えへへ、秘密」
 やっぱり。
「秘密は構わないけど、お金はある?」
「うん、それなりに」
 まあ、一応財布くらい持っておこうかな。
「ちゃんと時刻表調べた?」
「大丈夫だよ。どうせバスしか乗らないから」
 バス?
「楓、成長したわね」
「うん。お姉ちゃんの妹だから」
 なんか面白い日本語。
「あ、お姉ちゃん、袖持つよ」
「うん、ありがと」
 楓に袖を持ってもらって立ち上がる。別に助けなんていらないけれど、その
腕の感触がただ、ありがたい。
 なんだ、これじゃ逆じゃないか。
 私が楓に連れられているなんて。
 涙が出そうだった。
 私は楓のことを全然分かってやれていなかった。こんなにしっかりしていて、
こんなに強くて頼りになるんだって知らなかった。
「お姉ちゃん、階段だよ」
「……わかってるわよ」
 ごめんね、楓。それからありがとう。


 バスの匂いだけでわかったけれど、それでもついていく。
 私がこの半年程度よりつかなかった場所、学校だ。
「お姉ちゃん、もうちょっと」
「……でも」
 てっきり職員室にでも連れて行くつもりかと思ったのだけれど。
「うん、グラウンド」
 そう、グラウンド。私がずっといた場所だ。目を閉じてもなんだって分かる。
「それで楓、こんな時期に来たって」
 今は三月。卒業式も昨日終わって、今は在校生がいるくらい。
「うん、みんないるよ」
 え?
 そんなはずがない。今日は楓が登校していないくらいだから休みの日。
「や、桜。久しぶり」
 そんなはずは。
「ねえ、桜。私だよ、葵だよ。もしかして忘れた?」
 忘れるわけがない。
「私さ、もう一度三年生やることになったんだ。まあ、桜と違って停学だし、
成績も足りないし、それでももう一回チャンスくれるって」
 葵。
「あ、そうだ。桜は卒業おめでと。私が言うのも変だけど、高校は三年で卒業
するのが一番いいよ」
 ……だめ。
「あのさ、桜。今日は楓に言って葵を連れてきてもらったんだ。どうしても言
いたいことがあって。それで聞いてくれるとうれしい」
「う、ん」
 なんとか返事。
「桜。卒業しても、一緒にいてほしいんだ」
 葵の手が私の肩にかかる。
「葵」
 顔を上げていた。
「私、桜のことが大好きなんだ」
 なんだそれ。
 初めて好きになった人に、キスまでされた人に今頃好きだと言われるなんて。
「私のわがままを聞いてくれた桜が大好き。私だけに冷たく接する桜が大好き。
恥ずかしがりやで臆病な桜が大好き。私の全部を支えてくれた桜が、大好き」
 私もほんとうに。
「馬鹿ね、葵」
「馬鹿でいいよ。賢い桜がいてくれればね」
 ほんとうに仕方ないんだから。
「面倒だけど一緒にいてあげるわ」
 冗談抜きに葵の顔しか見えない、私の精一杯の視界にそう告げる。この不器
用で、面倒くさくて、馬鹿丸出しの子を
「私も嫌いじゃないわ、葵のこと」
「うん。ありがとう、桜」
 近づいてきた葵の肩を抱いてあげた。
 ああ、そういえば。
「葵、今更だけど馬鹿なことを思い出したわ」
「ん、なに?」
「葵が陸上部に所属していたのは私と走りたいって、あれ、ほんとう?」
 もう遅いのは分かっている。
「そうだよ。私、嘘とか言えない性格だから」
 それでも、今なら叶えられる。
「ほら」
 手を差し出した。
「え」
「あんた一人じゃ心配だからこれからは一緒に走ってあげる」
 ずっと言いたかった言葉。
 葵と一緒の風景を見たくて、一緒の風を感じたくて、私は陸上部のマネージャー
なんてやっていた。
「それって」
「私もどうせ浪人生なのよ、来年度は。それでどうせ暇だから一緒に走ってあ
げるって言ったの」
葵の横を走るのは私。
「ありがと、桜」
「感謝なさいよ、どうせ陸上部に復帰できないんでしょ」
「え、そんなことはないよ……ほら、全員集合!」
 全員、集合?
 誰かいるのだろうか……いや、駆け足の音が確かに聞こえる。
 何人だろう、十人……もっと?
「桜、クラブの子たちだよ。葵、卒業式行かなかったみたいだから今日祝って
くれるって。で、ついでに私の入部も認めてくれた」
 応じる声が聞こえる。
 聞きなれた声。顔を一人ずつ確認する。
 ああ、私のずっといた場所だ。
 ここだ、ここが私のいた場所だ。




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