スタートライン

第十三話


 学校が、楽しくない。
 お姉ちゃんも葵さんもいない。授業に出て、クラスのこと話をして、陸上部
の練習に出る。
 みんな真面目に腕立てをして、基礎体をして、走る。みんなが目標にしてい
た葵さんもいなくて、みんなのことをしっかりと見ていたお姉ちゃんもいない
グラウンドで。
 昨日、ソフトボール部の人が来ていた。偶然聞いたけれど、簡単に言えば陸
上部の練習日を一日削って欲しい、という話だった。
わかっている。
 これまでは葵さんという実力があった。お姉ちゃんが生徒会を通じて練習場
所と時間を確保してくれていた。
 でも。
 今はどちらもいない。当然毎日練習することなんてできない。
 練習が終わって、一人バスに乗る。
 疲れた身体がとても重い。
 家に帰るのがつらい。お姉ちゃんの姿を見るのが悲しい。
 ずっとお姉ちゃんに支えられて生きていくんだって思っていた。お姉ちゃん
はずっと私の前を歩いていて、私はお姉ちゃんの遥か後ろを、その背中を見て、
たどっていく足跡を何とか見つけて、必死で追いかけていくんだって思ってい
た。私が歩みを見失うとお姉ちゃんが手を引っ張ってくれて、おんぶしてくれ
て、そうやって生きていくんだって思っていた。お姉ちゃんは神様だった。
 でも。
 お姉ちゃんは今、私の前に居ない。いや、多分前にいるのだろうけれど、全
然別の方向にいるのかもしれない。少なくともお姉ちゃんはもう、私を引っ張っ
て行ってくれるわけじゃない。
 どうすれば。
「あ、そうだ」
 私がここで視力を失えば、お姉ちゃんと同じ場所に行くことができるかもし
れない。そうすれば今までどおり、お姉ちゃんは私の進む道を教えてくれて、
私の手を引っ張ってくれるんじゃないか。
 何も見えない人生と、お姉ちゃんのいない人生。考えるまでもない。
 バスの中。手を合わせる。
 神様。
 ええっと、どの神様でもいいです。私の願いを聞いてくれる神様でいいです。
 私は今までずっとお姉ちゃんに手を引かれてきました。とてもとても弱い子
です。これからもずっと弱くて、どうしようもなくて、ずっと誰かに迷惑をか
けて生きていくんだと思います。
 どうか私の目を見えなくしてください。それがダメならお姉ちゃんの目を見
えるようにしてください。
 代償が要るならなんだって出します。
 お姉ちゃんの代わりになれるのなら、一つじゃない、目を二つ差し出します。
それで足りないなら手足も身体も、全部差し出します。
 それでも足りなかったら、
 太ももに何かを感じて目を開けた。
 あ、電話だ。
 ええっと、誰からだろ。
「よ、楓。久しぶり!」
 ……葵さん、だ。
 学校の処分がどうなったのかは知らないけれど、あの日警察の人に連れて行
かれて以来、電話も通じなかった。
「……あの、先輩」
「楓。ごめんねぇ。まあ、さすがにこたえたけど一応元気だから、それだけ報
告したかっただけなんだ」
 いつもどおりだ。
 あれ。
 おかしい。
 どうしてだろう。
 どうしてお姉ちゃんと一番の友達のはずの葵さんはいつもどおりなのに、お
姉ちゃんは苦しんでいるんだろう。
 絶対に間違っている。なんとかしないと。
「あの、先輩。今どこですか?」
「ん、今は自宅。お風呂から出てきたとこ」
 葵さんは自宅か。なら
「今帰りのバスなんですけど、いつもの公園の入り口にきてくれませんか。久
しぶりだし会いたいなあって」
「あ、うん。構わないけど……今からだね。何か持っていこうか?」
「えっと、会いたいだけです。だから何もいらないと思います」
 呼び出した。
 もしかすると、私の祈りが通じたのかもしれない。


 不起訴。
 こっぴどく叱られたけど、それがこの事件の結末だ。あのときは頭に血が上っ
ていたけれど、今となっては結構反省している。さすがに前科がつくといろい
ろと人生も困るし。
 学校の方は名簿上卒業だけさせてくれるらしい。でも無期停学処分で、卒業
写真にも掲載されなくて、陸上部での記録も全部抹消。要するに私はあの学校
にいなかったことになる。
 両親に泣かれたときにはさすがに感じるものがあった。こんな娘でごめんな
さいとしか言えない。
 警察から戻って、久々にシャワーを浴びて、楓に電話。
 ワンコールで出た。
「よ、楓。久しぶり!」
 ……エンジンの音が聞こえる。少し早い時間だけどバスの中か。私がいなく
なって陸上部の練習時間も減ったのかもしれない。
 楓は驚いていたみたいだけど、すぐに明るい声になって、私に出てきて欲し
い、とのこと。
 とすると、桜はもう大丈夫なんだろうか。
 下着だけの姿はさすがにまずいので適当に服を掴み、公園に急いだ。
 昔桜に練習を見てもらった公園。今はあんまり使わないその場所。
 楓が一人。桜はいないのか。
 おかしい。桜がいないのに楓があれほど元気で笑顔を作るだろうか。私にす
ら少し人見知りするときがあるというのに。
「あ、先輩。おつとめご苦労様です」
 楓が擦り寄る。
「あ、うん、まあそれなりに堪えたな」
「そう、ですよね。ドラマとかでも大変そうです」
 やっぱりおかしい。はっきりと言葉に出来ないけれど、これは普段の楓じゃ
ない。楓の顔をした別人だ。
「楓、何かいいことあったの?」
「う、ううん、何もありませんけど」
 そうだろうか。
「あの、先輩」
「ん、どうした。喉かわいたなら何か買ってあげるよ」
 言ってから気づく。そういや今月はお金がピンチだ。
「あの、先輩。お姉ちゃんのことで少し」
「……桜の、こと?」
 桜。やっぱりそれが本題か。
「はい、お姉ちゃん、目が見えないんです」
「えっ?」
 目が、見えなくなるって。
「だんだん目が見えなくなって、もうすぐ何も見えなくなるって」
「そう……なんだ」
 楓がそんな冗談を言うとは思えない。多分ほんとうなんだろう。
 なるほど。
 あの日以来、桜が不安定だった意味もわかる。
「目が見えなくなっているんです。今も、ずっと」
 ああ、だから私が旅行の話をしたとき、怒ったんだ。
「楓。その目が見えないって話はわかったけど、もしかして何かいい方法があ
るの?」
「先輩。私、昨日神様にお祈りしたんです」
 私の疑問を無視して楓が言葉を続ける。
 ……楓の表情がどこかおかしい。これは、多分危険だ。普通に話を聞く振り
だけして、全身を強張らせる。
「でも、おかしいですよね。どうしてお姉ちゃんはあれだけ苦しんでいるのに、
あれだけ仲良かった先輩は普通なんですか」
 楓がつぶやきながら、私に近寄る。
「先輩もお姉ちゃんのために苦しんでほしいと思います」
 楓が制服のスカーフを取る。その両手は私の首に。
 柔らかい、小さな圧力を喉元に感じた。
 ああ、そういうことか。うん、私も一瞬考えたからよくわかる。
 もし、私の命で桜が今までどおりの生活に戻るなら。
 そう願った。
「ごめんなさい、私、先輩よりお姉ちゃんのことの方が大切なんです。だから、
お姉ちゃんのために」
 でも、楓の力は弱いまま。私の首にそっと巻きつけられただけのスカーフは
それ以上きつく締まろうとしない。
「楓。そんな力じゃ、首は絞まらないよ」
「……うっ、でも、締めるんです。う、動かないで」
 分かってる。楓はとても優しい子。だから人を傷つけることなんてできない。
私をどれほど恨もうとも、どれほど桜のことを思っていても、誰かを傷つける
ことなんてできやしない。もし桜が私に死んで欲しいと願うなら、私には死ぬ
準備が出来ている。
「うん。楓、私も桜の代わりになりたいってずっと思ってた。桜の苦しみを肩
代わりできるなら代わってあげたい。桜の目がよくなるなら、私も目を差し出
したっていい。別に命を差し出したって、構わない」
 本気で思う。それで万事解決なら、私は今すぐ死んでもいい。桜なら私の分
も生きてくれる。
「でも楓。神様なんて、どこにもいないんだ。そんな都合のいい願いを叶えて
くれる場所にいるはずがない」
 私が苦しいとき、目の前にいたのは神様じゃない。大会で苦しいとき、そこ
にいたのは神様じゃない。練習で死にそうだったとき、やっぱり神様はいなかっ
た。あの中学生の頃、友達なんていなかったとき、多分私は神様にすら見放さ
れていた。
 いつもいつも、桜が助けてくれた。苦しいときは桜がいて、桜に支えられて
いて、桜が私の全部だった。もしこの世に神様がいるとするならば、桜こそが
私の神様。
「でも、ならどうしてお姉ちゃんは」
 どうして、なんて言葉は人間には大きすぎる言葉。現実に疑問を持ったとこ
ろで、突破天は見当たらない。
「仕方ないよ。現在って時間はさ、いつも生きていくには厳しすぎる環境なん
だ」
 現実はいつも難しい。自分の思い通りになんてならなくて、人という生き物
が生きていくにはあまりにも厳しい。
「でも、でも」
 楓が胸の中で崩れる。
「楓。神様なんてどこにもいないけどさ、奇跡なんて絶対に起こらないものだ
けど、やっぱりこの世は現実のもので、私たちが生きている場所なんだ。だっ
たら、この世で起こることはこの世で解決できるんだって思わない?」
 私はこの世にいる。だからこの世のことはこの世で解決する。間違っても死
ぬなんて選択肢は選ばない。
 目の前にある楓の顔がなんだか桜そっくりで笑えた。
「楓、ごめんだけど私はまだ死にたくないんだ。桜が悲しい思いをする世界に
生きているのはつらいけれど、桜のいる世界に私がいないのもつらい。きっと
桜もつらいと思う。私は桜と生きている世界が好きなんだ。だから私は桜と走
るって願いを叶えるまで、近くで支えてあげたい。それまで、死ぬのは待って
くれるかな」
「あっ」
 まあ、せっかくだし、いいよね。多分後悔はしないはず。
 楓の唇にキス。
 前、桜としてしまったからこれで人生二度目か。
「……先輩、ごめんなさい、ごめんなさい」
 首に巻きつけられたスカーフを解き、楓の襟首に戻す。
 胸元は鼻水と涙だらけ。まあ、楓のだから我慢する。
「さて、そうと決まれば桜と話し合うことを考えないとね。やっぱ私も楓も桜
がいないとダメだし。多分桜も私たちがいないとダメになるよ?」
「……はい」
 抱いた楓が甘えるような声。
 ……まあ、一般的には気味の悪い光景かもしれないけど。




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