スタートライン

第十二話


 二週間。
 クラスが桜不在という状況に慣れるために必要とした時間だ。最初のうちは
号令ですらかからない状態だった。みんなで副委員長が誰だったかを思い出し
て、教室の鍵がどこにあるのか探して、ゴミ袋を持ち寄って、時間割変更を点
検し忘れたりした。それがこのクラスで桜一人、こなしてきた仕事の一部。掃
除当番の割り振りも席替えのタイミングも更衣室と体育館の予約も移動教室の
伝達も生徒会アンケートの取りまとめも全部桜が一人で背負い込んでいた。
 みんなのことではないけれど、私の周辺も変わった。桜に助けてもらってい
たおちこぼれ仲間。途端にクラスの情報も入ってこなければ、テストの範囲を
教えてくれる人もいなくなった。
 桜じゃないけどため息。
「……あの、御影さん」
「御影さん」
「葵」
 おお、言ってる側から話しかけられたじゃないか。
「えっと山本にローゼ、それから誰だっけ?」
「ラックだって。三年目だから覚えて欲しい」
 ああ、そうだ。彼女たちはおちこぼれ連中の中でも多国籍軍と呼ばれている
面々だ。話しかけた順番に日本人、元ドイツあたりの人、タイの留学生。実は
山本も国籍は違うはずだと聞いたことがある。
「で、私に何か用事?」
「あの、こんなこと聞くの、失礼かもしれないけど」
 山本が小さな声で切り出す。瞬間的に状況を理解。
 桜のことに決まっている。それも「悪い」方向のこと。
「悪い。私には何もわからないんだ。聞かされていないし」
 先回りしておく。
「うん、高橋さんのことなんだけど、嫌な噂が流れて、それで。だって私とか
結構高橋さんに勉強教えてもらってたし」
「それに私らもいろいろと」
 それは私もだ。桜がどうして私たちみたいな普通とは違う子を気にかけてい
るのかは分からないけれど、このクラスに限らず桜のお陰で学校に留まること
が出来た子は多い。
 それで
「……噂?」
 実は私には心当たりがある。クラスに友人の少ない私ですら桜に関する噂を
聞いている。私の勘ではこのままでは少しまずいことが起こる。
 もし噂の出所がわかるならありがたい。知らない振りをして聞くことにした。
「うん、桜、子供ができたって」
「は?」
 ラックさんがストレートな言葉で伝える。少し日本語は不自由な子だけど、
言っている意味は理解できた。
「うん、それで結構学校中に」
 なるほど。学校中に広まっている、と。ありがちな噂といえばそれまでだ。
 女子高校で突然誰かが欠席。噂をするのにこれほど最適な場所と役柄はない。
それに桜はああいう性格だ。弱いものの味方をするといえば聞こえはいいけれ
ど、存外恨みも買っている。付け入る隙はいくらでもある。
「なんかもう、先生の方は違うって言うんだけど。話が大きくて、それで」
 気になる噂であるのは事実。私だって桜の行動の全てを把握しているわけじゃ
ないから正面切って否定はできない。
 でも、その噂は多分間違いだ。
 桜なら出産と子育てをしながら卒業して平気な顔をする。またはその日のう
ちに堕胎する。桜は現実的な解決方法がある話には思い切りがいい。
 その程度で桜が休むというのは桜のプライドを傷つけるのと同じ。
 誰かが桜のプライドを傷つけるというのなら私が絶対に守る。桜は私の大切
な友達だから。
「それでね、私たちは葵に」
「うん。あんたたち三人に二言、いいかな」
 ため息。ここから先が私にとって本題だ。
「まず、そんなうわさがあるって教えてくれてありがと」
「え、ええ」
 それから。
「私は動くよ。でもさ、葵にお世話になったって自覚があるなら、無責任に噂
に加担したり、噂を広めるような真似をしないでほしいな。そういうのは桜が
悲しむ」
 無言。
「まあいいや。どうせこの手の噂に詳しいのは山本だよね。ちょっと噂の出所
とか聞かせて欲しいんだけど」
「え、あんまり」
 立ち上がって山本の方に手をかける。
「わかってるんだよね。教えてくれると助かるんだけど」
 壁際に押し付ける。
「でも」
「ごめんね、私桜じゃないから短気なんだ」
 こういう子は押しに弱い。限界まで追い詰めてやる。
「でも、誰にも言わないでよ」
 これで突破口は見つかった。
 山本は扱いの結構難しい子だ。自分の意志は定まらないし、よく「寝返る」
し、いじけて見せたりする。そんな子でも桜はずっと支えていた。何度も裏切
られながら、それでも桜はこの子の面倒を見てきた。多分桜ならどんな無責任
な噂を流されてもため息一つで許してしまうだろう。
 でも私は桜じゃない。許さないものは、絶対に許さない。

 陸上部顧問の机の上に退部届け、学校事務所に退学願。これで準備は完了。
 これまで溜まりに溜まったいろんなことは桜が助けてくれた。この前の桜と
の騒動がイエローカード。そして、使い古された言い方だけど、イエローカー
ドに二枚目はない。
 それでも。
 私は自分を抑えられない。
 山本に聞いた「噂の出所」を校舎裏に呼び出す。
「御影さん、何の用事?」
「葵のこと、最近噂流れてるよね。何か知っていないかな。大変なことが起こ
りそうな気配があるんだ。協力してもらえると助かるんだけど」
「知らな」
 一気に間合いを詰めて全身の力を込めてお腹に拳を叩きつける。
「最初から拒否権なんてないんだけどね、まあ言いたくなるようにするから」
 もう一発。腰を折って倒し、胸に足を乗せて体重をかける。女同士じゃなかっ
たら、外でやったら逮捕されたって文句は言えない。
「ねえ、こんなところで仲間の安っぽい信頼を守っても誰も褒めてくれないよ?」
 顎にかかとを押し付ける。蹴飛ばせば首の骨くらい折れるだろう。
「誰が言い出したか聞かせてくれるよね」
 こんなときだって私は冷静だ。いつもの軽いノリで人を殺してしまいそうな
気分にだってなれる。
「と、隣のクラスの榊原さんと、美原さんの二人」
「居場所は?」
 足元の力を更に加える。
「せ、生徒会室に二人」
「ありがとう、協力してくれて」
 顎を蹴り上げて失神させる。今動かれると少し面倒だ。ネクタイを取って両
手を結んでおく。
 さて、もうここに用事はない。目指すは生徒会室。
 榊原に美原。桜の口から何度か聞いたことのある名前だ。同じ生徒会役員で、
体育祭の企画なんかを担当をしていた、とか。
 その二人が桜の中傷、か。理由は分からないけれど、赦されることではない。
とどめを差しておきたい気分。
 生徒会室の前。
 開けた。
「邪魔するよ」
 五人の生徒。机の上には一枚の紙。
「御影、さん、どうして」
「……美原さん、隠してっ」
「まったく、動きが遅いんだって」
 取り上げた。
 A4の紙一枚。中身は全部桜のこと。
 まあ、ありがちだけど、こんな嫌がらせを本気でする奴がいるんだ。今は嫌
な予感が的中したことを喜んでいる暇はない。最後の最後。我慢しておこうと
思ったものも、ほんの少し残っていた良心も全部吹っ切れた。正当防衛ではな
いけれど、やりすぎる根拠くらいにはなるだろう。
「悪いけど私、こういうの大嫌いなんだ」
 もはやそれは侮蔑ですらない感情。
「そこの下級生三人、すぐに出て行って先生でも呼んできたほうがいいよ」
 あとはゴミを始末する。それだけ。
 一人目に飛び掛って窓まで吹っ飛ばした。
「……え」
 何が起こったのかわからないか。まあ、かけるべき言葉なんてない。
 二人目の襟首を掴んで引き倒し、頭を窓に叩きつける。ガラスが砕け、顔か
ら血が流れる。構わない。倒れこんだまま動かない一人目を引き起こして顎を
締め上げる。
「……桜を、桜を汚したんだ。絶対に許さない」
 懇願しようが、命乞いをしようが絶対に聞かない。私は馬鹿だからこうやっ
て実力行使に出るしかない。桜ならもっとなんとかできるのだろうけれど。
 自分でも信じられない力がこみ上げる。動かなくなった二人を立たせては殴
りつけ、倒しては蹴り上げる。
 桜。
 ごめん。せっかく桜に助けてもらった学校だけど、もういられそうにもない。
 でも、なんていうかな。ここにいなくたっていいような、そんな気がする。
私がいたかったのはこの学校じゃない。桜の側なんだ。だから、これでいい。
 桜、こんな私でも側に置いてくれるかな。



 部屋に引きこもって二週間。
 それなりに有意義な時間だったと思う。主に将来のことを考える、という点
で。葵とあんなことがあってやけっぱちになっていたけど、現実は現実。将来
のことはそれなりに考えたつもりだし、仮に全盲になっても生きて生けるだけ
の勉強はしていこうと思う。あとはしっかりと葵に謝ってから学校に出て、残
された時間をそれなりに楽しむ。
 さて。
 がたん。
 扉が開いた。楓だ、気配で分かる。
「楓、何か用事?」
 時間は午後六時。普段帰ってくる時間より一時間早い。陸上部には顔を出さ
なかったのだろうか。
「お、お姉ちゃん、あの」
 楓の雰囲気が少し変だ。
「どうしたのよ、早く言いなさい」
「今日先輩……葵さんがね」
 葵か。
「葵がどうかしたの?」
「……」
 返事がない。
「何よ、また葵が先生に怒られるようなことでもしたの?」
 まったく、時と場所を選べって話だ。
「えっと、その、警察の人に連れて行かれて」
「は? 警察?」
 葵が事故を起こしたときには確かに警察が来た。でも。
「よくわからないけど生徒会の人に怪我させたとかそんなので」
 葵が生徒会の役員を怪我させた。言い方はアレだけど、要するにけんかでも
したということか。でも葵が誰に。
「お姉ちゃん、榊原さんと美原さんって知ってる? なんかもう血まみれで」
 榊原と美原。
 あ。
 全部分かった。
 私はあの二人とはあまり仲良くない。
「それで、葵はどうなったの?」
 多分二週間勝手に休んだせいで私のことを悪く言う人が出たんだろう。葵は
それに我慢できなくて一方的な展開のけんか、すなわち傷害を負わせた。
「……警察に逮捕されて、もう学校にも来れなくて」
 退学は確定か。
 あの、馬鹿。
 私がいけないんだ。
 私が拗ねて引きこもっていたから葵がそんなことをしたんだ。
 私が悪いんだ。
 私が。
「もういい。私も学校に行かない。楓、出てって」
「お姉ちゃんっ」
「二度は言わないわ、出て行ってちょうだい」
 背中を向ける。
 なんでこんなことになったんだろう。
 世話のかかる葵の面倒を見た。それはそれなりに楽しい時間だった。でも、
葵の進学先を考えてあげたあたりからおかしくなった。葵は進学なんてする気
がなくて、私の目は見えなくなって、私が学校で騒ぎを起こして、葵が傷害事
件を起こして。
 それもこれも全部私が悪いんだ。
 背中に楓が近づく。
「お姉ちゃん。その、ごめんなさい」
「何に対して謝ってんのよ。あんたはいつもそうじゃない。適当に謝っておい
て、何も反省してない。そんなのなら最初から謝らないでよ。ほんとに鬱陶し
いわ」
「あっ」
「あんたみたいな妹を持ってほんとうに悲しいわよ」
「……ごめんなさいっ」
 楓が言葉を絶つ。もう、楓も来ないと思う。
 私は今、楓を傷つけた。心にもないことを言った。
 楓は大切な妹なのに。楓のことは多分葵よりも大事なのに。
 なのに。
 違う。あんな妹はいらない。そう決めた。たった今決まった。
「ごめんね、お姉ちゃん」
 無視。もう何も言葉を返さない。
 さて。
 机に向き直る。
 葵がいないならもう学校にはいかない。代わりに将来のためにしなければい
けない勉強が山ほどある。私には時間がなさ過ぎる。
 ふと、携帯電話を手に取った。
 着信、その最初の行。
 葵だった。
 時間は今日の午後三時。多分葵が事件を起こす前。
 葵は何を求めて電話してきたんだろう。もし私が出ていたらどんな現在があ
ったんだろう。
 葵は今どんな思いでどこにいるんだろう。



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