とりあえずは泣いた。晩御飯を普通に食べて、後片付けをして、自分の部屋 に入って、それで泣いた。そこまで涙をこらえるほうが大変だった。 あれから眼科に行った。 隣にいるはずの人が見えない。少し視線をずらしただけで視界から消える。 お医者さんならなんとかしてくれる、そう思った。 例えば目薬を入れて、一週間したら治るとか。悪くても手術をして、一ヶ月 したら治るとか。最近じゃ「治らない」って言われてた病気でも簡単に治った りするもの。 でも。 はっきりといわれた。 それは誰も悪くないということ。 それは確実に訪れるということ。 それは止めようがないということ。 結論。 私はもうすぐ目が見えなくなる。映画館で喩えると『映写機は動いているけ れど、スクリーンのカーテンがしまっているから何も映っていない』そんな感 じだと伝えられた。ただ、あまりにもゆっくりとカーテンが閉まってきたから、 だから気づかなかった。そしてそのカーテンをもう一度開けることも、閉まる のを止めるのもできない。 もう、手遅れ。今は隣の人が見えていないくらいだけれど、いずれ何も見え なくなる。私みたいな人は多いらしい。お医者さんは言ってくれた。 これからの時間を最大限活用して今後の人生に活かせるだけの余裕は保証さ れている、と。言っている意味はわかる。私は文字だって知っているし、突如 視覚を奪われたわけじゃない。まだまだ運がいいというのは頭では理解してい る。 でも、そんな簡単に前向きになれるはずもなく、とりあえず泣くことにした。 お父さんやお母さんになんて言おう。学校には、先生には、それから葵、楓。 治るならなんだってする。 「あの人を殺せば視野が戻ります」と囁かれれば、私は多分その人を殺す。 一生かかって払えないほどの借金でも返せると胸を張るに違いない。あれ、有 名な無免許医のマンガ。あの法外な値段の意味はこうなるとわかる。 「あ、お姉ちゃん、お茶入ったよ。居間に集合だよ」 「……楓、ちょっと気分悪いから後にして。それからお父さんとお母さんに少 し話があるって伝えておいて」 それだけ告げてふとんに顔を埋める。とりあえず学校は一週間くらい休もう。 通いなれた通学路。ここくらいなら目を閉じても歩ける。 あと十メートルくらい行った場所にいつも歩道に飛び出してる看板があって、 それを越えたら左に曲がって、電柱を越えた先にバス停。なんだ、簡単じゃな いか。 一生高校に通うなら、だけど。 「あの、お姉ちゃん」 今、私の隣にいるのは楓。あれから両親と楓に私の目のことを告げた。今の ところ家族以外には告げていないけど、明後日くらいにはお母さんと学校に行っ て目のことを話そうと思っている。 楓が私の手を握る。この子はたまにそうやって甘えて 「何、楓」 違う。楓は今まで私の手を両手で握って甘えてきた。こうやって片手で握る ことなんてなかった。私を導くみたいに握ることなんて。 楓の手が、とても鬱陶しいもののように感じた。 「えへへ、久しぶりだよ」 普通を装うとする楓に心が冷める。そう、私はまだ普通に歩くことだってで きる。一週間前までと何も変わっていない。他人の手を借りなくてもどこにだっ ていける。葵や楓じゃ予定すら立てられない場所にだって、海外にだって行く ことができる。 今なら。あと少しの間、私は大丈夫。 「あの、お姉ちゃん、荷物とか大丈夫?」 なのに、私は楓に心配すらされている。 「私が心配なら話しかけないで」 楓の手を振り切った。 「えっ」 「そうやってしつこいから嫌いなのよ」 それでも擦り寄る楓に背を向ける。 「……ごめんなさい」 「何よ。どうせそのあたりにいたら私には見えないとでも思ったの」 楓が息を呑む。 今私はものすごく汚い意地悪を言った。 「そんなつもりじゃ」 「どんなつもりでも関係ないわ。鬱陶しいから近寄らないで」 「……お姉ちゃん、ごめんなさい」 楓がその場に立ち止まる。 無視して歩く。ずっと前だけを見て歩く。 こうしていれば不用意に楓の姿が飛び込んでこなくていい。 楓の無邪気さが、その元気が、私より広く見える世界が、全部悔しい。 バスの中でも一言も口をきかず、教室。 一週間ぶりの登校に教室じゃみんな集まってきて容態を聞いてくれる。誰に も事実を告げられない。 人気が引いて、見知った顔が現れた。 「桜、久しぶり。風邪って聞いてたけど、もう大丈夫?」 葵、久しぶりだ。いや、一週間ぶりなのだけど。 一週間前、葵に対して言った言葉を思い出す。 顔もみたくないわ。 皮肉といえば皮肉だけれど、どうやら神様は私の願いを覿面に叶えてくれた らしい。 「……」 視界から追い出す。 もう、私は葵とはいられない。進学したければ進学すればいいし、仕事をし たければそれでいい。私には関係ない。目の見えなくなる私が葵の何になるっ て言うんだろう。せめても葵の生きる道に迷惑をかけないくらいしか、方法は ない。 「桜。この前のことだけど、ごめん。やっぱ私が悪かったかなって思う」 返事はしない。葵は一方的に話し続ける。そんなに話も上手いわけじゃない のに。 「それで受験しようかなって思った。あれから考え直して、やっぱり桜の言っ てたことが正しいかなって」 ……今更。 葵が通ったところで、私はその大学に行くことなんてない。 大丈夫、葵なら通る。そしてもっと遠くまで走っていける。ただ、私がそれ を見られないだけで。 「よかったじゃない。さっさと先生に相談しなさいよ。期限は多分明日までだ から急ぎなさいよ」 それは私の最後の優しさ。 「うん、そうする。もう願書は書いたんだ。それで」 じゃあ、もう私に用事なんてないじゃない。 「全部終わったら卒業旅行に行こうよ、二人で。それくらい私が全部段取りす るし、桜に迷惑はかけないから」 頭を殴られたような気がした。 卒業旅行、その言葉に。 卒業、三月くらいのこと。その頃には、人の介助なしに外を歩くことすら難 しい。旅行なんてできるはずもない。 怒りがこみ上げてきた。 葵に向けるべき感情でないのは分かっているけれど、抑えきれない。 「御影さん。あのね」 「え、桜」 苗字で呼んだ。無意識だった。 肩を掴んだ。葵の制服が皺になる。 「え、どうしたの?」 葵が笑う。その顔はほんの少し無理をした笑顔だ。でも、 立ち上がって、思いっきり頬を叩いた。 「え」 クラスから音が消えた。 「前から言おうと思っていたんだけど私、あんたのことが嫌いなの。話しかけ ないで」 「そんな」 「大嫌いだって言ったの」 もう一発。そこから先は手が止まらなかった。 「ちょ、ちょっと、桜。どうしたの、あっ」 「話しかけないでって言ったでしょう。こっちに来ないでよ」 あれだけ強いはずの葵が私の平手だけでバランスを崩して足元に座り込んだ。 驚く葵の顔を直視しても、それでも私には手が止まらなかった。 「一人に……させてよっ」 馬乗りになって叩く。葵は反撃しようとすらしない。 抑えられないいろんなものがどんどんこみ上げてくる。 なんで私が、どうしてその程度先のことですら諦めていなければならない。 その理不尽さを、理不尽にも葵にぶつけた。息が切れても、ずっと葵を叩い た。 先生に呼び出された。 葵は最後まで私に無抵抗で、二人して先生に手を引かれ職員室。 顔の腫れた葵と二人で並ぶ。 「あの、先生」 そう、今回は全部私が悪い。 せっかく謝ろうとしてくれた葵を傷つけてしまった。旅行って言葉が悲しく て自分を失った。一番に葵に話を聞いて欲しかったのに、結局相談すらできな かった。 「まあ、高橋さんの方は怪我なくてよかったわ」 「えっ」 「で、御影さん、何をしたんです?」 それは違う。 「やだなあ先生、いつものノリでついですよ。私が陸上部のことでわがまま言っ て、それで桜が困って、取っ組み合いになって……桜には迷惑かけたと思って いますけど、いつものことじゃないですか」 葵が笑って答える。違うのに。 「あの、葵」 なんでそんな嘘を。 「私が悪いって言ったら私が悪いの」 「でも」 「ちょっと桜は黙っててくれないかなあ」 「それでも」 「黙っててって言うの、わからない? いい加減にしてほしんだけど」 葵の目が本気だ。足が震える。 「ほら、またそうやって食って掛かる。もういいわ、わかりました。とにかく 高橋さんは教室に戻ってちょうだい。御影さんはきっちり話を聞かせてもらい ます」 「ですが、私」 「邪魔だよ、高橋」 「あっ」 ……苦しい。あの葵が、私を。 「はい……失礼、します」 下のカバンを掴んで外に出た。 葵にも見放された。 私の居場所はどこにもない。もう、学校に来る意味なんてない。 |
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