スタートライン

第十話


 今日は久々に一人で登校。お姉ちゃんが怒って先に出てしまったからだ。
 やっぱり、一人は少し心細い。身長も体重もお姉ちゃんの方が小さいのだけ
れど、お姉ちゃんの背中が近くにあると安心できる。
「お、珍しく空いてる。座ろっと」
 バスの中。席を窓の方向に詰める。
「って高橋じゃないか。おはよう」
 肩を叩かれる。顔を上げてびっくり。
「あ、おはようございます、大和さん」
 お辞儀。
 大和さんは陸上部仲間で一つ上の先輩。先輩と呼ばれるのが嫌らしくて、「先
輩」と呼ぶと強制的に十円を徴収していく。
「今日はマネージャーも御影さんもいないんだ。珍しいね」
「あ、はい、そうです。お姉ちゃんに置いていかれました、あはは」
 笑い事じゃないんだけど。
「ふぅん。まあいいや」
 大和さんはそれだけ告げて鞄から本を出す。
「……あのさ高橋」
「へっ」
 あ、話続いてたんだ。
「嫌味で言うわけじゃないんだよ。気を悪くしたらごめん」
 目の前で手を合わせる大和さん。
「えっと、別に構わないですけど。あの、頭まで下げないでください先輩……あ」
しまった。頭を下げられるとつい口走ってしまった。
「よっしゃ、私の勝ち。はい百円」
「えー百円になったんですかぁ」
 いつの間に十倍になったんだ。
「うん、百円」
「どうして値上がりしたんですか?」
「えっと、インフレってやつ。授業で昨日習ったとこだし」
 うわ、葵さんと同じレベルの発想。なんという先輩だ。こりゃ先輩と呼ばれ
たくないのもわかる。
私も今度お姉ちゃんからお小遣い貰うときに言ってみようかな。
インフレだから一桁多くして。
多分殴られる。やめとこう。
「それで何か用事があるんじゃないんですか?」
「うん、マネージャっのことでね」
 うちの部にはマネージャーが三人いるけど、普通マネージャーといえばお姉
ちゃんのことだ。
「お姉ちゃんが、どうかしましたか?」
「うん、最近やたらと冷たいっていうか」
 なんだ、そういうことか。
「あはは、冷たいっていうか、あれはお姉ちゃんの照れ隠しです」
 お姉ちゃんは人に優しくすることに少し臆病なだけ。だから他人に厳しいこ
とを言うけれど、、ほんとうはとても優しい人。
「うん、基礎体は厳しいけど、きつい人じゃないのは知ってる。きっちり片付
けして、掃除して、よく面倒見てくれているのも知ってるよ。心配しなくても
部員のみんな、そのあたりの事情はわかってると思う。でもさ、最近マネージャ
ーってあからさまに部員のことを無視しない?」
 お姉ちゃんが、部員を無視?
「それってどういうことですか?」
「うん、もちろん悪意を持っているとか、そういうのじゃないんだよ。きっち
り私たちのことを見てくれていると思うんだ。でもさ、見えてないっていうか、
近くにいても話しかけないっていうか、ううん、気持ちの問題では見てくれて
いるんだけど、物理的に見えていないっていうか。普通声かけるだろって距離
で何も声かけなかったり」
 ……確かに、心当たりはある。
「でも、お姉ちゃん忙しいから」
「だよねー、受験勉強して生徒会の活動して陸上のマネージャーして御影さん
を旦那にして高橋を妹にしてさぁ、ほんと、いい嫁だよねぇ」
 いやいや、結婚してませんから。
「お、そろそろ学校だ、じゃあ高橋、今日も部活で」
「はい、さようなら」
 大和さんが走って降りていく。その背中をしばらく眺めていた。
 今日、お姉ちゃんと話をしてみよう。なんか嫌な予感がする。




 葵が何かを言いたそうにしているのは知っていた。でも無視。
 私のことを嫌いだといったんだ。絶対視界になんて入れてやらない。しばら
く反省すればいいと思う。
 とはいっても。
 葵と陸上部は別。
 放課後はグラウンドに向かった。
「あ、先輩、こんにちは」
 隣から声がかかる。今年高校一年生で陸上部のマネージャーとして入ってき
た子だ。
「こんにちは、水瀬さん」
「先輩、袖持ちます」
「ありがと」
 この学校にはなぜか運動部マネージャー専用の制服(というほどたいそうなも
のではないのだけれど)があって、それに着替えている最中だ。
 ……だからそう身体をひっつけないで欲しい。よくできる子だし、慕ってく
れるのはうれしいんだけど、私のマネージャーじゃないんだから。
「そうだ水瀬さん。今日からトラックの管理をお願いできる?」
「えっ」
 前々から考えていたことだけど、一番大事な仕事を譲ってしまおう、そう宣
言する。
「水瀬さんなら大丈夫よ。あとしばらくは私も応援するし……引き受けてくれ
る?」
「あ、あの、頑張りますっ」
 ……無駄に気合が入っている。
「じゃ、明日からこの服も水瀬さんのものね」
「え、あ、あの、光栄です、というか身に余るというか」
 そこまで緊張しなくてもいいと思うんだけど。
「じゃあ私は倉庫の整理して、物品購入票を書いてるわ。グラウンド、よろし
くね」
「はいっ」
 体操服の水瀬さんが走る。
 その背中にため息。
 私のいた場所に水瀬さんがいて、それを中心に中学生の部員が集まる。そん
なものなんてどこ吹く風に走る葵。一緒に走る部員たちも一様に葵を追う。グ
ラウンドの隅に固まって葵を応援する制服の集団はなんだろう、最近葵にファ
ンクラブでもできたのだろうか。
 いやきっと、ずっと前からいたんだ。
 葵を追いかける部員の姿も、葵を応援する制服の子たちも、私の視界に入っ
ていなかっただけで。
 葵の言うとおり私には葵以外の何も見えていなかった。
 そう、私はずっと特等席に座っていた。葵が見えていて当たり前だと思って
いた。葵が私の近くにいて当たり前だと思っていた。
「ほんと、馬鹿みたい」
 一人でつぶや
「え、私、あの、何か」
 隣から声が聞こえた。
「今の、水瀬さん……?」
「あ、はい、そうですけど、あの、何か」
 声が横から聞こえたんだ。水瀬さんはすぐ近くにいる。ということは一旦グ
ラウンドに向かいながら私の元に来て、でも私にはそれが見えていなくて。
 今も横にいるはずなのに。
「ごめん、ちょっとした独り言よ。水瀬さんと関係ないわ」
「そう、ですか。すいません。それでコーンが割れちゃって」
 水瀬さんの相談に相槌を打ちながら考える。
 今のは明らかにおかしい。
 私はグラウンドを見ていた。
 水瀬さんが私の方向に向かって歩いてきたなら普通は気づく。仮に気づかな
くても隣に来れば普通は嫌でも見える。
 でも、私には見えていなかった。
「あの、先輩?」
「あ、ああ、ごめん。コーンはストックがあるから心配ないわ。それから今日
の練習は部室の黒板に書いてあるとおりだし、緊張しなくてもいつもどおりで
大丈夫だから、ね」
 言いながら視線を少し逸らす。
 途端に水瀬さんは視界から消える。
 すぐ横にいるのに。
 普通ならそれくらい見えてもいいはずなのに。
「あの先輩、顔色悪いですけど、熱でも」
 水瀬さんが私の手を取る。いつもなら適当にあしらうけれど、今はその温か
さが余計奇妙だ。
 だって、手をつかまれる距離にいる人の姿が見えていないなんて、そんな馬
鹿なことがあるだろうか。
 人間の視野は案外狭いと生物の授業で聞いたけれど、隣にいる人の存在が見
えないほど狭いはずがない。
 一応、水瀬さん以外の人間とか物でも試してみる。
 例えば「水瀬さん」という存在が何らかの理由で見えない存在だ、という荒
唐無稽な話。
 ポール、放置されている自転車、グラウンドに立つ人。
 そのどれも、私が顔を逸らしただけで見えなくなってしまう。当然だ。
「どうしたんだろ」
 事実に理解が追いつかない。
「先輩、私何か間違っていましたか?」
 水瀬さんが私の顔を覗き込む。
「い、いえ。順調よ。頑張ってるわ」
 そういいながら少しずつ水瀬さんの方向からトラックの方向に視線を移す。
 ほんの少し。
 そう、ほんの少し顔を向けただけで水瀬さんの姿は消える。
 おかしい。そんなはずがない。
「……水瀬さん。私、ちょっと体調良くないから病院に行こうかと思うの」
「え、大丈夫ですか。それなら部活を止めて私も」
「いえ、ちょっと疲れているみたいだから、それだけよ。後のことは顧問の先
生に聞いて、それから葵が大体のことは把握しているはずだから」
「はい、わかりました」
 なんとかそう伝える。
 まあ、嘘は言っていない。病院に行こう。
 明らかに異常だ。少し疲れたくらいで視野が狭くなるなんて考えられない。
習った知識を思い出す。
 目の構造、目の見える理由。
 近視遠視くらいなら学校で習うけど、私に起こっている状況については全然
分からない。
 ようやく気づいたことがもう一つある。
 こんなとき、話を聞いてくれる友達がいない。ずっとマネージャーの席に座っ
ていた私には面倒を見る子こそいるけれど、相談をする相手なんていない。私
はみんなが思っているほど出来た人間でも、完璧でもない。
 視野を葵が走り抜ける。
 病院から戻って、明日学校に来れば葵と仲直りしよう。
 進学の話を勝手に進めたのは確かに私が悪かった。葵を自分のもののように
扱っていた。だから、素直に謝って、そして今度こそいい関係でいられるよう
にしよう。



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