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第九話


 二学期が始まった。
 学校では未だに教科書を広げて授業を進めているけれど、受験をしたければ
過去問に手を出さなければいけない時期。というわけで今の私は授業を受けな
がら内職をしている。
 同じように内職に勤しむのは葵。こっちは陸上部の部長と運動部の部会長引
継ぎ書を書くのに忙しいらしい。めったなことで紙に向き合わない葵には苦痛
だろう。
 だから授業が終わってからの葵はまさに水を得た魚。葵は部長の仕事を実質
一年生と二年生に譲ってしまっているから、時間中は延々と走り続けている。
私もそろそろマネージャー業を完全に譲るべき、なのだろう。
 グラウンドを眺める。
「おーい、桜」
 近くから声。
「……ん、葵?」
 あれ、さっきまで全然別の場所にいなかったっけ。
「気づかなかったの? というか変な顔してどうしたの?」
 葵が頬を引っ張る。そりゃ、そんなことされたら変になるに決まっているじゃ
ないか。
「やめなさいよ……ちょっと考え事してたからあんたがこっちに来てるの、見
えてなかっただけで」
「へえ、結構深く考え込んでいたんだ。真正面から来たつもりだったんだけど」
 なるほど、私が立っているのはグラウンドの正面。走り終えた葵ならそこか
ら真っ直ぐ来るはず。ということは、だ。私は相当呆けてたらしい。時間は
「あ、もういい時間ね」
「うん。そろそろだね」
 じゃあ、号令だ。
「みんな、集合」
 声を張り上げる。そして
「あ、そうだ、葵。今日ちょっと私の家に来てくれる?」
 付け加えた。
 

 いつもどおり葵に楓、そして私でバスに乗り、同じバス停で三人降りる。
 家に入れば楓は一階の台所へ、二階、私の部屋には葵と私。
「さて、と。葵」
 楓の持ってきたお茶を挟んで二人。
「ん、どったの?」
 鞄から書類を取り出す。
「ちょっと大事な話をするから真剣に聞いてね」
「はいはい」
 いきなり不安になる。
「ハイは一回でしょ……まあいいわ」
 最初から不真面目なんだから。
「今日来てもらったのは先生から聞いてるかもしれないけど、推薦のこと」
「……はて?」
 心底不思議そうな顔をする。
「あんたね……大学に推薦でいけるって話、先生から聞かなかった?」
「ああ、聞いてる。随分前だから忘れてた。それがどうかしたの」
 どうかしたの、って推薦だ。めったにないチャンスに違いない。そんなこと
を忘れるなんていくら冗談みたいな頭でもありえない。
「推薦よ、わかってるの? 誰でも受けられるものじゃないのよ。勉強で頑張っ
ても行けないのよ、大学って」
 あまり他人に努力のことを言いたくはないけれど、つい言葉がきつくなる。
「うん、先生もそう言ってた。桜の行く大学は難しいんだって」
 葵がお茶を一気飲み。
「そこに葵も行くのよ。はい、推薦の書類がこれ。どうせ簡単な論文だけなん
だから時間だって取らないし、あとは自筆でサインするだけよ」
 葵の前に応募用紙を広げる。
「……ちょっと待ってよ、桜。私、試験なんて」
「心配ないわよ。推薦なんて落ちないわ。あんたがひらがなさえ書けたら大丈
夫なんだから。それに私も」
 畳み掛け……あれ。
 葵の顔が笑っていない。
「あのさ、桜。私もとぼけておくつもりにしとこうかと思ったんだけど、その
推薦、先生に頼んだのって桜だよね」
 葵の声がやたら静か。
「そうだけど」
 そう、先生には随分根回しした。私が国立の大学を受けるという条件で、葵
の内申点を上げてもらった。
「うん、あのさ」
「葵は別にどこに行ってもいいって言ってたでしょ。なら一番いい方向を指し
示してあげたいのは当然じゃないの。この道が一番よ、先生なんて何も考えて
ない。私が言わなきゃ葵のこと絶対忘れてたわ」
 一気にまくし立てる。
「確かに担任と私は仲が最低だし、私は進学もこれからのこともあんまり考え
てないよ」
「でしょ。ならなおさらいいじゃないの、進学して」
「進学してどうするの、桜?」
「は?」
 どうするか、って。
「そりゃ、桜が私の将来を考えてくれているのは分かっているつもりだし、私
はいろいろと教えてもらっているんだと思う。でも、進学したってすることな
いんだけど」
「別に大学は勉強だけをするところじゃないわ」
 そんな高潔な理想を持って大学にいく子なんて普通いない。とりあえず行っ
ておけばいいってだけで、普通の子は大卒の資格を取って就職活動するために
行く、それだけのこと。真面目に考えることじゃない。
「それなら私はさっさと働きたいな。その方が社会のためだよ」
 働く、だって?
「葵は走るのよ。働くよりはるかに社会のためになるのよ。大学に行って走れ
ば、葵の足は私なんかよりたくさんのお金を生み出すの。世界の大会にだって
出られるし、もっともっと速くなれる。それに仮に進学しないと練習だってで
きないのよ。葵の足は趣味で河川敷を走るのとは訳が違うのよ」
 そこで言葉が詰まった。葵が私の口の前に一本指を立てたから。
「陸上は大好きだよ。この五年間、とても楽しかったし、走るのはとても気持
ちいいと思っているし、これからも走っていきたい。でも、私はいい成績を上
げて、頂点を極めたいとは思っていないんだ。新記録とかそんなものにも興味
はないし、私の目指す頂点はとっくに極めた。あとは楽しみでいい。私の楽し
みは、記録じゃないんだ」
 それは私には理解のできない価値観。
「何馬鹿なこと、ダメに決まってるでしょ。葵はどうして自分の才能を伸ばそ
うとしないのよ」
 別に葵に引っ付いてお金が欲しいというのは、今のところない。でも、記録
を目指さないなんて。
「桜、それは勘違いだよ。私はね、桜が教えてくれた一番素敵なことだから走っ
ているんだ。何度も言うけど桜に走っている姿を見て欲しくて、桜と一緒に走
りたくて、私は陸上部にいる。走ることは続けたいけど、立派な施設もコーチ
も要らない。私には荷が重過ぎるよ。私は休日に河川敷を走って、それで近く
に桜がいればそれで十分」
 もう、わけがわからなかった。
「葵は自分の才能が分からないって言うの? 周りを見てみなさいよ」
「見えてないのは桜だよ。桜は私以外のことは見えていないんだ」
「いい加減にわがまま言うのはやめてよね。何拗ねてんのか知らないけど、私
は」
 葵の前に身体を乗り出す。
 それを制する葵。
「分かってくれないなら、はっきり言うよ。私ね、桜のことは好きだけどそう
いうところは嫌いだな」
 頭が白くなって息が止まった。
 葵が、私を嫌いだって。
「私にだって意志はあるし、向かいたい先もある。宿題もたくさん写させても
らったけど、追試の勉強も教えてもらったけど、そういうことには全部感謝し
ているけど、それ以上の勉強も走ることも大きなお世話。私は好きなことを好
きな人の側でしていたいんだ。桜がいれば、それ以上はいらない。聞くけど、
私が大学で陸上部に入ったとして、世界を目指すとして、そのとき桜は私の側
にいるの?」
 そうか、なら仕方ない。
「……葵」
 ようやく出た言葉。涙で視界がぼやける。涙を隠せない女は最低だ。
「ひどいことを言ってごめん、桜。でも」
「もういい。出てって」
 自分でも信じられないくらい低い声だった。
「え、あの、桜、ちょっと落ち着い」
「出て行ってって言ったの。今は葵の顔も見たくないわ。私があんたのために
どれほど時間を使ったと思ってるのよ。あんたのことをどれだけ考えたと思っ
てるの。いいとこ伸ばしてあげようと思って、ずっと時間を使ってきたのに、
それがわからないなら出てって」
 立ち上がって、扉を開ける。
 下から聞こえる楓の暢気な鼻歌。いい匂いがするけど、気分は最悪だ。
「ごめん、桜。そんなつもりじゃ」
「だからもう顔も見たくないの。謝るくらいならここから出てって」
「……うん、わかった。出て行くよ。ごめん」
 葵が荷物を淡々と片付け、いつもどおりの平然とした笑顔を私に向ける。
 私の見たかったその笑顔。思わず身体が外に出そうになる。
「早くしなさいよ」
 違う。ほんとうは謝りたかった。
 ごめんなさい、と。葵のことを考えてなかったって。
 その一言が出なかった。
 今は何もいらない。葵さえ引き止めたら、それだけでよかった。
「じゃあ、また明日学校で、桜」
 葵が手を挙げて笑顔で部屋を出る。
 桜。
 その名前を呼ぶ声がこんなにも遠くて、結局泣くのは私の方だった。



 あーあ。
 それが最初の感情。
 桜を泣かせてしまった。桜は弱い子だってわかっているのに、つい強く言っ
てしまった。そんなはずじゃなかったんだ。
 桜はとても正しいことを言っている。
 桜の言うとおりに進学すればとてもいい方向に行く。私は陸上の選手で活躍
して、桜も私の隣にいてくれて。
 でも、私は進学って柄じゃない。桜と一緒にいたいから走っているけれど、
走り続けて目指したい目標があるわけじゃない。
 そんな奴は今以上に伸びない。自分で分かる。ゴールもない、競う相手もい
ない人はやがて崩れる。
 これまで私はずっと桜と走ることの出来る瞬間だけを目指して走ってきた。
 どれくらい早く走れば桜は私と一緒に走ってくれるのだろうって、そう思っ
て。
 答は知っている。私がどれほど早く走ろうとも、桜は隣を走ってくれること
なんてない。そんなこと、ずっと前から分かっている。それでも私が走ってい
れば桜は近くにいてくれる。それが嬉しくて、私は走っていた。答が分かった
今でも、自分の片思いを信じるなんてピュアな女の子みたいで柄じゃないけど。
 桜の家の外。出て行けと言われたけれど、ほんの少しそこで物思いにふける。
 扉が開いた。
「さく」
「あの」
「……ああ、楓か。どうかしたの?」
 制服の上にエプロンの楓。普段ならからかうところだけれど、今の私にはそ
れだけの余裕はない。
「あの、お姉ちゃんが、その」
「やっぱ泣いてた?」
「……はい」
 今桜が出てきていたら私は言っていたと思う。
 ごめん、やっぱり私受験する、と。
「そっか。まあ、そうだよね。私がひどいことを言ったから」
「いえ、先輩は悪くないと、お姉ちゃんが」
「いいんだ。多分さっきの私が悪かった。明日学校にいって、それで考えるよ」
 考えるったって何を考えるんだろう。
 私は何も考えてこなかった。桜のいない日のことを、それからのことを何も
考えていなかった。ずっと桜と一緒にいられるんだって思っていた。
 桜はずっと私と一緒にいてくれた。
 そしてせめて同じ大学にいくことで一緒に過ごそうとしてくれている。
 じゃあ私は。
 私は桜と過ごす時間の何を考えて、具体的に何をしたんだろう。
 そうだ、一度くらい私が旅行を企画して、それで謝ろう。





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