スタートライン

第八話



―旅行の夏―

 朝から怒りまくりである。
 まったく、だ。
 そもそもこの旅行は葵が提案したんじゃなかったのか。そんでもって楓が乗
ったから、私がゴーサインを出したんだ。
 それでも私一人が計画したのはいい。私が最終決定したんだから。加えて葵
には三回くらいは説明して、昨日には電話までかけた。楓は、私が予定を組ん
だり泊まるところを予約している姿を見ているから大丈夫だと思っていた。前
日には一緒に荷造りまでした。
 ここまですれば普通、私は全部義務を果たしたと言っていいはず。
 けど今朝。
 旅行それ何おいしいのみたいな寝言をつぶやいた楓を布団ごとひっくり返し、
荷物を掴んで家を出た。まあ、楓は少し寝坊なところがあるからまだ許す。
 トドメは葵の家に向かったときだ。あれほど前日に言い含めたにもかかわら
ず葵は不在。いつもどおり朝のロードワークに出たなどと言われる。
 何かが切れた、そう感じた。ここまで来ればニワトリの方が物覚えもいいと
思う。
 で、「軽い」ジョギングから帰ってきた葵に拳骨一発をお見舞いし、葵と楓
に荷物を持たせて駅に急ぐ。荷造りを葵の分もやっておいて正解だった。
 おかげさまで怒る以前に走らされ息も続かない。
「桜、走って」
 三人分の荷物を持った葵が先行。
「これで……限界なんだからっ……話しかけないでよ」
 息が上がる。足が、もう動かない。
「仕方ないな……楓。荷物全部持って」
「あ、はい、先輩」
 楓が三人分の荷物を持つ。
「私は桜を背負っていくから」
 え。
 ひょい。
 いとも容易く身体が浮く。
「って待ちなさい……よ」
 恥ずかしくて手足をばたばた。葵の髪が顔にあたって、それで抵抗するのを
やめた。
 ああ、今日はしっかりと朝から髪を洗っていたんだ、そうわかったから。
「桜、どこ行くの?」
 なんだ、最初から旅行に行くって分かっていたんじゃないか。
「……駅よ。切符は買ってるから誰かに見つからないように走って」
「了解」
 葵が殺気までと同じ速度で地面を蹴飛ばす。
 胸に感じる葵の背中が大きくて、体感したこともない速度で世界が流れていっ
て。
 って、今はそんな叙情的な状況じゃない。
「あと二分よ、葵」
「余裕だよ、それくらい」
 まあ、この子が余裕だというなら余裕なんだろう。私が今しなければいけな
いことは、葵の背中にしがみつくこと。
 それから出発前に乗り物酔いにならないことを祈るくらいか。


 電車を二時間にフェリーを三時間。やってきたのは離れ小島。
 と言いたいところだけど一周が三十キロあるから小島とは言いがたいかも。
「うわ。ほんとに海と山がある。さすが桜」
 どうせここは日本だ。小さな島に行けば山の風景と海が一緒に見えて当然。
「私がすごいんじゃなくて風景が素晴らしいのよ。ちょっとは感動した?」
「お姉ちゃん、コンビニは?」
 感動ぶち壊し。情緒もへったくれもない楓の言葉。
「……あるわけないでしょ。必要なものはだいたい積めてあげたんだから全部
揃ってるわよ」
「プロテインも?」
「……あんたが常食しているのは知ってるわよ。ちゃんと二缶詰めてきたわ」
 あんなものを常食するなと言いたいけど。
「うん、ありがとお姉ちゃん」
 そう感謝されると何も言えない。
「楓。足りないものがあったらお店のあるところまで走って行こうよ」
「なるほど先輩、賢いですね」
 やっぱ文句の一つでも言ってやろう。
「……多分島一周してもないわよ、二人とも。はい、地図……どうせ読めない
でしょうけど、ここが島の一番中心なの。ここにないってことはどこにもないわ」
 こんな田舎に来るとせいぜいAコープが午後七時までしかやっていないものだ。
海があって山があって自炊できながら郷土料理でも食べることが出来て肝試し
に朝市。そこまで叶えてやったのにまだ文句を言うか。
 ま、感謝してくれとは望まない。
 こうやって二人の世話を焼くのは嫌いではないし、言ってみれば義務みたい
なもんだ。
「とりあえず民宿に荷物置いたらのんびりしましょ。今日は移動だけで疲れたわ」
「私は走りたいな……楓、夕日に向かって猛ダッシュとかしようよ」
 むしろ水平線の果てまで泳いでいけ。
「はい先輩。でも太陽ってどっちに沈むんですか?」
「さあ? 桜に聞いてみよう。桜、太陽ってどの方角に沈むの?」
 こいつらはほんとうに高校生と中学生なのか。
「……右に沈むのよ。というか今海の見えている方向よ」
 もう面倒くさいので適当に答えておく。この二人に「西」とか方角を言って
も通じないだろうし。
「ふうん。右に沈むんだ、初耳」
「そういや昔テストで『下に沈む』って書いて間違いだったけど、右だったん
だ」
「……いろいろと言いたいんだけど、やめとくわ。ほら、ここに泊まるから、
走るなら荷物を置いてからにしなさい」
 扉を開けて挨拶。
 ちなみに、荷物を置いた馬鹿二人が民宿を出た瞬間、見事「右に向かった」
のは言うまでもない。おいおい、逆だ。来た道を引き返してどうするつもりな
んだろう。

 旅行二日目。
 朝から山に登らされた。死ぬかと思った。二人が走って登っていくのを見る
と、別世界の生き物みたいな感じだ。まあ、風景はきれいだし、葵と楓の笑顔
で疲れは帳消しにしておく。
 昼からは海。
 朝で完璧に消耗した私は磯で釣り糸を垂れる。釣りはちょっとした趣味なの
だ。
 一方チートでも使ったかのような体力の二人は水着に着替えて泳いでいる。
ちなみに葵は昼食を食べる暇すら惜しんでフナムシを延々と追いかけっこをし
ていた。あんなものと瞬発力を競う人間がいるというのはある意味驚きだ。
「……まあ、いいかもね」
 釣り糸を垂れると、いろんなことを思ってしまう。
 こんな生活も、嫌いじゃない。
 確かに勉強は嫌いじゃないし、やりたい仕事もある。クラスの仕事とクラブ
の仕事、そして勉強に終われる毎日だけど、それでも私は学校を嫌いじゃない。
 でも。
 もし私がこんな島に生まれていたら。
「葵とは、会えなかったかもね」
 じゃあ、もし葵もこの島に生まれていたら。
 想像の中では葵と私は小学校の頃からの同級生。私はやっぱり葵の走る姿を
見ていて、その隣に楓が座っていて、気がついたらお互い高校生くらいになっ
てて、一緒に都会に出て、一緒に暮らして。
 今と一緒だ、多分。私たちはずっと一緒で、私は困り顔をしながら二人の世
話をする。
 錘が海面に波紋を作る。一定の速度で釣り糸を巻き上げ。
「……タコ?」
 なぜかタコがかかった。釣り糸が外れないので途中で切ってクーラーボック
スに突っ込む。後でなんとかしてもらおう。
 目を水平線に向ける。
 目に見える景色は夕焼け。最近勉強漬けだったから、少し目に痛い。
「桜、釣れる?」
 葵が走ってきた。どこで調達したのか、プロの着ていそうな競泳水着にウィ
ンドブレーカーみたいなのをひっかけている。その姿に少し息を飲んだ。
 葵の身体はきれいだ。鍛えられたふくらはぎに太もも、身体のライン。長い
足に小さな顔。肌だって焼けているけれど、透き通るような色をしてる。ほん
と、私なんかじゃ勝負にならない。
「普通よ。普通に連れたわ」
 クーラーボックスを開けてやる。
「うわ、大漁じゃない」
 そんなの、普通だ。
「お姉ちゃん、切り身釣れた?」
 と、楓。楓は学校の水着に運動靴。その手の人が見たら連れて行くかもしれ
ない。
「切り身が泳いでるわけないでしょ。ちなみに三枚開きも刺身も泳いでないか
らね」
「桜、それじゃ煮付けは?」
「一 回 煮 付 け て や ろ う か?」
 わかって言ってるだろ、この二人。
「あはは、お姉ちゃん、怒っちゃだめだよ。先輩、海で連れる魚は塩漬けで、
川で連れる魚は三枚開きになるんですよ。これ、常識ですよ?」
 非常識だ。
 見上げる。
 楓の胸が邪魔で表情が見えない。
「ほら楓。お姉ちゃんが胸に嫉妬してるよ」
 なぜそんなところだけ分かるんだ、青い。
「お姉ちゃん、触ってもいいよ。お姉ちゃんになら、その」
「そういうのはとっておきなさい。私じゃもったいないわ」
「はぁい」
 まったく。
「さて、そろそろ疲れたわ。帰りましょ。どうせ今日の夜は肝試しでもするん
でしょ」
「やだ、ーお姉ちゃん」
「心配しなくても神社のお賽銭箱の裏に楓の携帯電話、隠してきたわ。取って
くること」
「えー」
 いつも胸が小さいとかからかう仕返しだ。
「桜、結構ひどいね」
「ほら、クーラーボックスは葵が持ってちょうだい。私には重いの」
「はいはい」
 私が肩にかけた荷物を葵が取って歩く。
 まあ、なんだかんだで気を遣ってくれているのだろう、多分。そう思うこと
にする。

 いろいろがあって帰途。
 船の中。牛乳を買ってしまった。
「ねえ、桜」
「何よ」
「牛乳ってさ、牛のおっぱいじゃないよね」
「は?」
「だから巨乳とか貧乳とか無乳とかって胸の大きさだよね。でも牛乳ってのは
牛くらいのおっぱいって意味じゃないし」
……また変な思いつきを。
「それで何? 牛乳飲んでも大きくならないっていいたいわけ?」
「いや、別に……それより楽しかった、桜」
 葵が顔を寄せる。
「……まあ、それなりにね」
 葵と楓がいたから。
「ねえ、桜」
「何よ、さっきから」
 正直、昨日の肝試しのせいで眠い。葵が私に身を寄せる。面倒くさいから退
かない。肩と髪が当たって、少しどきどきする。
「うん、少し感謝させてくれる?」
「……勝手にしてなさいよ。感謝なんてされる覚えはないけど」
「じゃ、勝手にする」
 葵が私の後ろに回って、そっと抱きついてくる。そのしなやかな身体が心地
いい。
 目の前には海。
 ずっと遠くまで続く、海。ところどころに島の浮かぶ景色。
「いい景色よね、葵」
「うん、あっ、今何か飛んだ」
 葵が後ろから手を海面に指す。
「ほんと。あれ、多分トビウオよ……あっ」
 強い風で目に潮水が入り、思わず目を閉じる。
 その瞬間。
「桜」
 唇に温かいものを感じた。
「……く、ふんっ」
 葵の唇だ。
 唇が、私の唇に重なっている。
 やめて、そう言おうとして、両手で身体を離そうとして、葵の抱きしめる力
が強すぎて。
「桜、ありがとね」
 ものすごく近い距離で葵が言う。
「……初めて、だったんだけど」
「うん、私も」
 そっか。なら、まあいいか。
「責任とりなさいよ」
 旅の恥はかき捨て。
 そんな言葉がある。それなら、こんな恥ずかしさも、普通じゃできないこと
も、まあ多めに見ておこう。
「じゃあ、もう一回」
「お断りよ。こんなの一回きりなんだから」
 そう、こんなのは一回きり。
 別に同性同士がおかしいとか、そういうことを言うつもりはない。でも、私
は今女子校にいる。外の世界のことを何も知らない。
 ずっと先の未来。私がもっといろんなことを知り、それでもどうしてもこの
場所が、葵の唇のある場所が私の居場所だと思ったとき。
 そのときこそ、私は葵のことを求める。




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