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第六話


 テスト明けの空気は格別。葵じゃないけど。
 五月の爽やかな空気と日差しの影響もあるのだろうけど、いつもより輝いて
見える校舎。笑い声だっていつもより響くし、廊下を打つ上履きの音も軽やか。
ま、テスト返却になれば一瞬で空気が重くなるのは確かだ。こういう日は私で
すら両手を広げて走ってみたくなる。ちなみに脳みそどころか頭蓋骨まで筋肉
みたいな葵なんかは中間テストが終わった瞬間、教室から出て行った。テスト
を回収し終えたときには校庭を走っている姿が窓越しに見えていた。いつ体操
服に着替えたのか聞きたい。
「あ、お姉ちゃん」
「ん、楓じゃない。テストお疲れ様……どうしたの?」
 一階の廊下。前から歩いてきたのはセーラー姿の中学生。楓だ。
「あのね、この問題なんだけど」
 数学の問題集を持って寄ってくる。
「……確率の問題ね。えっと、サイコロを二つ振って、それぞれの数の積が二
十以上になるときの確率を求めよ、か」
 なるほど、そうすると組み合わせは4と5、5と5、5と6、6と6だから
2/9が正解か。
「それで楓はなんて答えたの?」
「うん、それなんだけど、まず場合分けをしたの」
 こんな問題で場合分けが必要なんだろうか。
「……まあいいわ。続けて」
「まず相手が葵さんの場合と、お姉ちゃんの」
「ちょっと待ちなさい。なんで葵と私で場合分けをするの」
 楓が心底不思議そうな顔をする。
「当然だよお姉ちゃん。勝たなければいけない相手の前だったら気合いを入れ
てでもサイコロの目を動かさないといけないんだよ」
 もしかして葵に影響を受けたのか。そういや気合いがあれば8×4=36に
なる、とか先生に食いついていたな。
「じゃあ楓は気合いを入れれば4+5を10くらいにできるんだ」
「お姉ちゃんはできないの? もしかして気合いが足りないんじゃない?」
 足りないのは楓の頭だ。
「楓……後でみっちり勉強しようか。とにかくテストお疲れ様。今は部活に行っ
てなさい……私は後で行くから」
「はぁい。お姉ちゃんもまたね!」
 嬉しそうに走っていく楓。まあ、頭は絶望的だけど、あの子は幸せな人生を
送ってくれそうな気がする。
 グラウンドにいるはずの葵を少し思い描く。今すぐでもグラウンドに行きた
いところだけれど、ほんのしばらく我慢だ。一階の廊下を奥まで進む。
 普通の生徒はこんなところまで足を運ぶことなんてない。高校三年生の中で
も限られた生徒しか出入りしない場所、「進路指導室」だ。
「失礼します」
「どうぞ」
 中から聞こえる声に扉を開けると担任の先生がいた。普通こういう場所には
大学の過去問なんかが置いているのだろうけれど、この学校に限っては図書室
の中でも読まれない本を収蔵した感じになっている。あんまり進路を指導する
ような場所には見えない。座る椅子だってカウンセリング室みたいな感じでソ
ファがあり、花が添えられ、程よい採光と空調が効いている。これで担任がい
なければ最高なんだけど。
「よろしくお願いします」
「うん、その前に」
 先生が笑顔。
「はい?」
「お茶、飲む?」
 担任の先生も悪い人じゃないと思うんだけど、少し私をひいきにし過ぎる。
いちいち角を立てるのも好きじゃないから何も言わないけど。
 目の前には模試の成績表と進学希望票と高校一年生からの定期テストの結果。
「中間テスト、成績良いわよ。中間・期末テストは二十六回連続で一位ね」
「あ、はい。おかげさまで」
 まあ、順位だけで言えば中学一年生の頃からずっと一位だ。というか試験問
題が簡単すぎて、それ以外を取れる気がしない。私には葵のような点数を取る
ほうが難しい。葵はわざわざ答を外しにかかっているところもあるし。
「それで志望校の判定がB、ね」
「はい、そうです」
 高校二年生まではAだったから傍目には成績が落ちたように見えなくはない。
「心配しなくてもいいわ。どうせ今の段階じゃ浪人生の方が成績いいに決まっ
てるんだし、これから伸びるから」
 そう、三年生になれば同じ模試を浪人が受験する。だから年度初めに判定が
一つ下になったからといって慌てることなんて何もない。
「ありがとうございます」
 現段階で判定がBなら多分合格する。手を抜くつもりは全然ないけれど、現状
維持でも十分すぎるほど。
「うん、先生も期待してるわ」
「ありがとうございます。これからの方針としては、これから大学の過去問に
力を入れます。そんなところでよろしいですか?」
 残念ながら我が学園はあまり生徒の進路に力を注がない。系列の大学に行く
ことができる、というのが主な理由だけれど、それ以上に古きよき女子校とい
う伝統に囚われている、といる部分もある。
「うん、それなんだけど、ちょっと待ってくれる?」
 先生がお茶を置いた。
「何か、ありますか」
 珍しい。こんな形どおりの進路指導で意見をつけられるなんて思わなかった。
「うん。成績は心配していないんだけどね。学年主任の先生とも話し合ったん
だけど、むしろ逆かな」
「逆、ってどういう意味ですか?」
 成績は問題ない、と。ならなぜ口を挟まれるのか。
「うん、高橋さんの成績は学校じゃトップでしょ」
「おかげさまで、ですが」
 当然だ。学校の勉強はそんなに難しいものじゃないし、学校自体がのんびり
している。別に進学率で争うようなことは学校自体が考えていないおかげで、
学生の勉学のレベルだってそれほど高いわけじゃない。というかこの学校でトッ
プクラスの成績であっても難関大学に合格するのは難しい。
「それに全国模試の順位も上がり続けている。現役生は今から伸びるんだし、
もっと上を目指せるんじゃないかなって……そう思うんだけど」
「そうなんですか?」
 純粋な疑問が浮かぶ。成績が伸びるかどうかというよりも、私の成績を気に
かけてくれていたことに。
「うん。担任の私が言うのもなんだけど高橋さんは真面目だし、自慢できる生
徒よ……もうちょっとだけ、頑張ってみないかなって、これは進路指導として
の提案なんだけど」
 もうちょっと頑張る、か。その「頑張る」という意味は別に勉強を頑張れと
いう意味ではないだろう。つまり
「志望校を変えたほうがいいってことですか?」
「うん。例えば国立でこのあたりとか」
 先生の指が向くのは偏差値順に並ぶ学校名の最上位。この学校だったら進学
した人が過去にいるかどうか微妙なところだ。
「えっと、さすがにそれは」
 苦笑いすら漏れる。名の通りで言えば私の志望する大学よりはるかに立派。
レベルで言っても、今の私の実力じゃ判定だって一つは落ちる。要するにC、
だ。それなりに気合を入れて勉強しないと合格するのだって難しい。というか
今の時期からじゃ過去問を解く体制をしっかり作らないとダメだ。
「女の子だし堅実に合格するほうがいいんだけど、やっぱり学歴はついて回る
ものだし、能力に合わせた大学に進学するのがいいってのも事実かな、と思う
し。まあ、主任の先生の言葉だし、私はよかったら、ってくらいで。あ、それ
に国立だから私立とは日程も違うし」
 こんな世の中でもやっぱり学歴というものはついて回るものだし、できるな
ら「いい大学」に行っておく方がいい。そういうことだ。
 確かに少し前までの私だったら、その言葉に心を惑わされていたと思う。少
し頼りない担任だけどやっぱり他人の言葉は自信になる。
 でも。
「ありがとうございます。それほどの能力があるかどうかはわかりませんが、
頑張ってみようと思います」
「え、そうすると志望校を変えるの?」
 薦めておいて驚くのはどうかと思うぞ、先生。
「あ、えっと。第一志望は今のままで行って、受験だけって感じですけど」
 確かに私だって自分の力を試してみたい。学歴はともかく、自分のできる精
一杯の場所に行きたい。今の志望校で妥協するのは安直だ、それもわかる。
 分かった上で、私は志望校を変えない。
「受験だけって?」
 力を試すだけなら受験するだけで十分。その経験が自信になってくれると信
じている。
「はい、万一通っても私は第一志望に行きたいんです」
 それが私の見つけた方法だから。
「うーん、確かに大学は学校名だけじゃないもんね。でも高橋さんがそんなに
今の志望校に行きたい理由って何? いい先生がいるとか、やりたいことでも
あるの?」
 そう、そこだ。私が受けなくてもいい進路指導を受けに来た理由。
「……私の志望校ですけど、推薦制度をいくつか持っていますよね。ほら、有
名な女優さんとか入っていますし」
「もしかして、そんな理由で?」
 いや、別にそういう人と一緒に学びたいというのではないのだけど。
「……他にも有名なスポーツ選手なんかも入学できますよね」
「そう、ね」
「それで、葵……御影さんくらいの陸上の記録を持っていたら推薦を受けられ
ますよね」
 葵が成績を上げなくても私の志望する大学にも入ることができる方法。
 あの日、買い物に三人で行った後調べた結果だ。
 葵の進路を何とかしてあげたい。できればいい環境で陸上に打ち込める場所
があればいい。そう考えて、そして思い浮かんだのが推薦入学、だ。
 私の志望する大学のレベルは正直言って結構高い。並の国公立よりははるか
に難しい。まともに挑めば葵は当然、うちの学年でも三年に一人合格するかど
うか。
 それでも私はその大学に自分の学力で、そして
「え。御影さんが大学?」
 そして葵は足で。
「はい、葵なら推薦で行けます。だから私はこの大学に行きたいんです……技
能推薦のある学校に」
 それが私の大学に行く理由。もちろん語学の勉強をして、その道で生きてい
きたいという気持ちもある。それは前提条件だ。でも、葵を放ってはおけない。
私は葵の面倒を見なきゃいけない。
「えっと、御影さんは確かに進学希望だけど、確か専門学校って書いていたよ
うな」
「ああ、葵は多分適当に書いただけです。ちょっと前は留学しようかな、とか
言ってましたし」
 まだ葵には確認を取っていないけど、悪い話じゃない。家に事情でもなけれ
ば二つ返事で乗ってくるはず。
「御影さんが心配、なのね。高橋さんってほんとうに面倒見がいいわよね。う
ちのクラスでも留学生の子とか……ええっと、名前なんだっけ」
 おいおい。
「ラックさんは日本語もあやふやだし、それに人との距離感がわかってないし
、ローゼなんて私がちょっとスペイン語の勉強もしたいから話しかけているだ
けで」
 ちなみにラックさんはタイの人でローゼはチリで生まれたドイツ人。二人と
も留学生で、二人の正式な名前を最後まで言える生徒は多分私だけ。別に国際
色豊かな高校というわけではないのだが、なぜか我が学年には外国籍の子が多
い。
「うん、それそれ。そういうところが面倒見いいって言うの」
 そんなものだろうか。私は自分の興味と義務感に従っているだけなんだけど。
というか私が話しかけなければ皆の興味本位に晒されるだけじゃないか。
「だから葵のことも、ただの義務です」
 葵のような独立独歩の子を放っておくと学校生活から路線を踏み外してしま
う。だから私がいないといけない。
「まあ、そうでもなけりゃ付き合わないわよね。私が言うことじゃないけど、
あの御影さんをなんとかしてくれて感謝してるわ。高橋さんがそこまで言うな
ら、ちょっと先生の方でも推薦の書類、探しておきます」
「ありがとうございます」
 礼をする。
「でもね」
「……葵の成績は最悪で、素行も悪いから推薦は難しい、ですか?」
 先回りしておく。
「成績は高橋さんがなんとかしてくれるでしょ。それに推薦にするなら内申く
らい書き換えるわよ。生徒の進学は学校の実績だから」
 うわ、えげつない裏話。
「よろしくおねがいします」
 でも、学校が書類を書きなおせるのだって私が「最低限」を維持してあげて
いるから。葵を留年させないのも、葵が部活動を出来るように勉強を教えてい
るのも全部私。葵のことならなんでもわかる。
「まあ、友達関係に水を差すのは悪いと思うんだけど、付き合う友達は選ばな
いとダメよ」
「わかっています。だから御影さんのことは友達じゃなくてただの義務です」
 そう、あんなひどいことを葵にしていた私が葵の友人を名乗る資格はない。
だから、私は自分の義務感だけで葵と付き合っている。
「うん。ま、高橋さんは放っといても勉強するだろうし合格もするだろうし、
御影さんの勉強、見てあげてちょうだい。進学の話は先生の方からしておくか
ら」
「ありがとうございます」
 今度こそその場を離れる。
 行き先は葵のいる場所、陸上部。



 この三年間で一番よくやったことはなんだろう。
 勉強すること、走ること、遊ぶこと、寝ること。いろいろあると思う。
 でも多分、腕立て伏せだ。
 葵さんに憧れて、お姉ちゃんに勧められて入った陸上部。走ることもしたし、
三段跳びの練習もした。だけど私が一番よくやった運動は腕立て伏せ。
 そして今。テスト明けの空の下、都合一時間くらい地面と向き合って腕立て
をしている。片付けと準備運動を考えれば、クラブ活動の殆どが腕立てじゃな
いだろうか。
「楓、姿勢が悪いよ!」
 黒いジャケットに折り目のきれいにつけられたズボンが目に入る。マネージ
ャーの人が着用する制服だ。着ているのはもちろんお姉ちゃん。
 その服を着るとお姉ちゃんは変わる。いつもの優しさなんてどこにもない。
今も私に厳しい言葉を投げつけ、冷静な視線を送る。絶対に助けてくれないし、
手も抜いてくれない。
「はいっ!」
 姿勢を正し、胸を地面にこすりつけるように腕立て伏せ。ここで食いしばら
ないと、私は何にもなれない。私は馬鹿だから勉強はできない。それなら正し
い答を導き出すことよりも、気合いで正しい答を上回るものを見せつけないと
いけない。
「三上、肘の曲がりが悪いね。やり直し」
 私の隣にいた三上さんの肘を葵さんが力強く蹴飛ばす。当然のように地面に
顔を打ち付ける三上さん。その肩に足を乗せる葵さん。
「ほら、食いしばって身体を上げる。退部するならいつでもサインするよ」
 三上さんが咳き込み、葵さんを睨みつける。
 最初の頃は、これがほんとうに怖くて、悔しくて、許せなかった。いくら足
が速いからってそこまでしなくてもいいんじゃないかって思った。今でも絶対
の絶対に葵さんを打ち負かしてやるんだって思う。
「三上さん、身体を上げて……全員、応援」
 お姉ちゃんが声を上げる。
「三上さん、頑張って」
 私は知っている。こうやってみんなで応援すれば葵さんは足の力を弱める。
そうして踏みつけられた子は力を何とか取り戻す。そうやって同年代の結束力
を強めるんだ。絶対に誰かを見捨てない結束力。この腕立て伏せは体力づくり
じゃなくて、精神を作っていく運動。
 文句を言う子も、起こる子も、泣く子もいる。辞める子だってたくさんいる。
 そうやって残っていった私たちは絶対に誰かを見捨てることなんてない仲間
になれる。
 みんなが応援する中で一人の一年生が倒れる。もう、起き上がりそうな気配
もない。
「井上。今日はもう帰っていいよ。明日から来るかどうかは任せるよ」
 ほんとうにダメだと判断したら、こうやって帰らされる。ものすごく厳しい
世界だけれど今ではこの空気が大好き。
「みんな、腕立て終了。身体起こしたら少し休んで腿上げね……水瀬さん、合
図を頼むわ」
「はいっ」
 お姉ちゃんがマネージャーの後輩に仕事を譲り、体育倉庫に消える。
 それから一時間くらい走って、そんなこんなで一日が終わる。部員はほぼ全
員六時に解散、その後お姉ちゃんと葵さんは片付けと日報を提出して、予定を
話し合って、気になる子の情報を交換して、バスに乗る時間は七時半くらい。
みんなには怖い先輩だと思われているかもしれないけれど、私はおねえちゃん
も葵さんもとてもいい人だと思う。
「ん、楓。何笑ってんのよ」
 バスの中。マネージャーの服を脱いで制服になったお姉ちゃんはいつもどお
りに戻る。いつもどおりのお姉ちゃんはこういうとき、いつもほんの少しだけ
不満そうな顔をする。でも、それはお姉ちゃんが上機嫌であることの証。
 お姉ちゃんってとても優しいよね。
 そう言うのはやめておく。
「ほんと、楓は笑うとかわいいね、ほら」
 葵さんが手を伸ばしてくる。
「こら葵。楓に変なことしないでよ」
 お姉ちゃんの不満顔がちょっとだけ本気だ。
「大丈夫、楓の貞操は私が守るから」
「あんたに守られると余計心配だわ」
 あのー。私の意志はどこにあるんでしょ?




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