スタートライン

第二話


「でね楓、桜は最後の一周なんてほとんど歩いていたんだ」
「えーお姉ちゃんダメだよ」
「でもさ、去年は半分以上歩いてたし、大きな進歩だよね」
 へえ、そんなことだけは覚えているんだ。
「あははお姉ちゃん、よかったね。大きな進歩だってさ」
「あっそ」
 思いっきり馬鹿にされた気分。
「あ、でもほんとに進歩だよ。三年前の桜はほんとうに泣きそうな感じだった
し」
「えー。お姉ちゃんが泣きそうな感じ……想像できないです。いつも泣かせて
いる方なのに」
 まあ、確かに陸上部の練習では泣かせているけれど。
「そうかな。桜が泣きそうになる瞬間って結構多いよ。そうそう、修学旅行の
ときなんか迷子になってね、もう泣きそうな顔で私を追いかけてきてさ」
 迷子になったのは葵で、私が焦ったのは葵を探していたから。悪いのは全部
葵じゃないか。まったく、あんなに心配するんじゃなかった。なんか腹が立つ
し、このあたりで釘でも刺しておこう。
「葵、いろいろ話すのは勝手だけど、この前の記録会での忘れ物」
「あ゛」
 攻撃は最大の防御。葵が固まった。
「あんな恥ずかしい忘れ物するなんてね。もしかして半裸で走るつもりだった
の?」
「いえ、あはは。ちょっとしたサービスですよ?」
「あんまり私のことを言うようならみんなにばらすわよ?」
「ごめん……楓、桜の話はまた今度にしよう」
 あれはこの前の記録回。葵が自信満々に上着を脱いだ瞬間、上半身が裸であ
ることが衆人環視の中で判明。着てきたつもりのユニフォームのはずが、実は
着ていなかったというオチだった。体格の似た後輩からスポーツブラとユニフォ
ームをうまく融通したのは当然私。
「えー先輩。お姉ちゃんの話、してください」
 次は我が妹、楓を黙らせる番だ。
「楓。三日前の寝言、黒板に書いておいてあげるわ」
「え、お、お姉ちゃん。私なんて言ったの?」
「『どせいさんが追いかけてくるのー』とか」
「えー私そんなの言ってないよ」
 口を尖らせる。
「嘘つきなさい。あんまりにも真剣だったから私、びっくりして飛び起きたん
だからね」
 あれは忘れもしない午前四時三十分。どうせ夜遅くまでゲームでもやってい
たに違いない。
「楓。次は『先輩、そんな大きいの入らないですぅ』とか妄想をかきたてられ
そうなところでよろしく」
 うちの妹に何をするつもりだ、葵。
「ま、楓は一生悪夢を見て苦しみなさい」
「え、お姉ちゃん、夢の中でもお姉ちゃんに腕立てさせられるの?」
 あんたはそんな夢を見ているのか。ま、基礎体力練習は私が嫌ほどさせてい
るんだけど。
「ま、あんたたちが私をネタにしようなんて死んでも無理なの。まったく、私
のため息を半分とは言わないわ。二割減らせるように努力してよ」
 私を挟んで右隣の葵が私の左隣にいる楓の肩を叩く。
「楓……二割減らすってどういう意味?」
「ええっと先輩。私はまだ習ってないと思います。まだ中学三年生だし」
「とすると私もまだ習ってないか。高校三年生だし」
 その理屈は明らかにおかしいと思う。
「小学校で習うわよ、二人とも」
「へえ。初耳」
 私こそ初耳だ。
「耳よりも頭を疑ったほうがいいわ、葵」
「あはは、心配しなくていいですよ先輩。お姉ちゃんは記憶力がいいんです」
「だよね」
 共感するな。
「葵、それから楓。そういう基本的な生活に関わる勉強は記憶力の範囲に入ら
ないわ」
「でも小学校なんて通った以上の記憶ないしさ」
「そうですよね。私も小学校にお姉ちゃんがいたくらいの記憶しかないです」
 この二人を見ていると教育というものの無力さを痛感してしまう。学校だっ
て文部科学省の官僚には知られたくないだろう。まさに学校の恥部だ。
「……いろいろと突っ込みたい気分だけどやめとくわ。ともかく二人とも勉強
しなさすぎる。走るのもいいけど、勉強をしてこその学生生活なんだからね」
 葵は全国大会でも一位を争える足を持っているし、我が妹も地区大会では優
勝するくらいの実力を持っている。が、ここまで頭が残念賞だと素直に褒める
気にはなれない。
「……ったく、世界を目指せる足なのに」
「でもさ、私が走ってるのは桜と一緒に走りたいからだよ。別に新記録を目指
してるわけじゃないし」
 葵が即答。
「どう捻ったらどんな変な答が返ってくるのよ。だいたいそんな馬鹿みたいな
理由で走ってたら大会の主催者が泣くわ」
 というかなぜ私みたいな鈍足と走りたいと思うのか。
「ほんとだって。私は桜と走りたいと思ってる。だってめちゃくちゃ楽しそう
だし」
 まあ、確かに葵がその場のノリで言っているわけじゃない、それくらいは顔
を見れば分かる。
「そうだよ、お姉ちゃんも見てるだけじゃつまらないでしょ。私もお姉ちゃん
と一緒に走りたいな」
 そして楓の場合はとりあえず葵の尻馬に乗っておこう、みたいなところだろ
う。
「あのねえ葵。私はあんたみたいな体力馬鹿じゃないし、あんたの面倒見るだ
けで精一杯なの。あんたがもう少ししっかりしてくれたら走るけどさ。それに
楓。最近はあんたの面倒も見なくちゃいけない。私は自分が走っている時間な
んてないの。人間の持つ時間は一律二十四時間なのよ、わかる?」
「ごめん桜、あんまりわかんなかった」
 やっぱりそうか。
「お姉ちゃん、私たちは脳筋だって先生が言ってたから無理だと思う」
「……ノウキン?」
「脳みそまで筋肉の略」
 またどうでもいい略語を。そんなのを覚えるから大切なことを忘れるんだ。
「まあ、脳みそまで筋肉でできているだろうってことは否定しないわ」
「失礼な。私でも小学校の二年生までは算数だって先生に褒めてもらっていた
んだ」
「あっそ」
「お姉ちゃん。私も小学校三年生までは百点を取っていたんだよ。覚えてるよ
ね」
「あんたは漢字ドリルの漢字テストでしょ。あんなの百点が当然よ」
 だいたい今は高校生と中学生だ。その頃の自慢にもならない事実を持ち上げ
てくるほどのことか。
「あのね、走るのだって頭使うでしょ。私がペース配分考えて練習メニュー組
んで、ってやってるけど、ほんとうはおかしいの。葵の身体のことは大体分かっ
てるつもりだけど、私は走る人じゃないんだし、いつかは葵も自分で自分のこ
とを考えなくちゃいけないの」
「うぅ」
 葵が唸る。でも、言葉を緩めてなんてやらない。
「私たちだって次の三月には卒業するんだから、そうなったら違う場所にいる
かもしれないでしょ」
 私と葵は三年生だ。これまで六年間続いてきた関係は終わってしまう可能性
が高い。
「ありがと。でも今は桜がいろいろ考えてくれるから私は突っ走ることが出来
るわけだし、それは感謝してる」
「そうだよお姉ちゃん。先輩の記録の半分はお姉ちゃんの優しさで出来ている
んだよ」
 私は某有名な頭痛薬か。
「残り半分は葵の筋肉?」
「桜への愛と感謝、かな」
「……あっそ」
 そんなことを面と向かって言うな。
 窓の外に目をやる。
 季節は春。昼間の時間は長くなったはずだけど外の景色はとっくに真っ暗。
妹の楓はともかく、葵も家が近いから通学と下校はこうやって話しながらのこ
とが多い。葵とは五年と少し、楓とは三年間作ってきたいつもどおりの風景だ。
バス通学で最後部の座席の五人がけに三人で座るというのも決まっている。愚
にもつかない話もいつもどおり。私だけが制服に制靴に制カバンという普通の
格好で、対する二人はジャージに運動靴にスポーツバッグといういかにも運動
部みたいな格好というのも慣れっこ。もう少し周囲を気にして欲しいのだけど、
いくら言っても聞かないので最近は放置している。まったく、私がいなくなっ
たらどうするのだろう。
 二人に視線を遣る。
 私の右にいるのが葵。本名は御影葵だけれど、私たちはもっぱら下の名前で
呼んでいる。髪はうなじくらいまでで長身だから一見するとモデル雑誌から抜
け出してきた男の子みたいにも見えてしまう。肌の色は元々白かったのだけど、
外を走っているせいで少し茶色い。中学からの同級生で、一応同じクラブ、陸
上部に属している。一言でまとめれば六年来の腐れ縁というやつだ。絵に描い
たような部活運動馬鹿で、底抜けの明るさと長距離走のタイムだけは誰にも負
けない。こういうキャラは同性から好意を抱かれるのが常で、その期待を裏切
らずたまに心のこもった手紙なんかを受け取っている。葵は律儀だからそうい
うのには懇切丁寧に付き合っては断りを繰り返しているらしい。これだけ言う
とものすごくいい子みたいに見えるが、世の中そんなに甘くない。葵には致命
的な欠点がある。葵はちょっと頭に血が上りやすい性格で、これまでも何度か
学校外でトラブルを起こしている。喧嘩っ早い連中を返り討ちにした、という
感じだから別に葵が悪いというわけではないのだけれど、私から見ればけんか
を売られるというよりはわざわざ買い付けにいっているような気もするし、実
際先生からの印象は最悪だ。それから頭の悪さも誰にも負けない。さっきの会
話でも絶望的なまでの頭の悪さを披露していたがあんなの葵の実力の片鱗みた
いなものだ。英語の自己紹介でアイアムアプリティードッグと口走ったときは
教室の空気が凍りついた。ついこの前までしいたけが成長するとタケノコにな
ると信じていたのは私だけの秘密にしている。親が聞いたら泣くだろうし。
 左にいるのは私の妹、楓。髪型は葵と一緒で私より身体は大きい。年齢は三
つ下の中学三年生だけれど、中高一貫教育だから同じ学校の同じクラブに所属
していることになっている。インドアな私とは違って元気な妹で、葵を紹介し
た三日後には一緒に陸上部で走っていた。頭の方は葵と同じくいまいち。後輩
情報によると楓は英語の自己紹介で『マイシスターイズスクール』と口走って
教室を笑いの渦に引き込んだらしい。ついこの前までメダカが成長するとナマ
ズになると信じていたのは両親にも秘密にしている。両親の泣き顔は私だって
見たくない。
 そういう私は高校三年生で陸上部のマネージャー。自分で言うのもアレだが、
私はお母さんのお腹から出てくるとき、楓の分の頭脳を持ってきてしまった代
わりに運動能力を置き忘れてきたらしい。学力の方は学校でも間違いなくトッ
プクラスだと自負しているが、逆に身体を動かすとなると成績は反転。さっき
葵に言われたように長距離走は苦手中の苦手。
 なぜそんな私が陸上部に所属しているのは、いろいろと理由があるのだけれ
ど今は置いておく。にともかく運動部のマネージャーである私は部活動のみな
らず、私生活の面でまでこの二人の面倒を見るのが仕事で、担任や顧問の先生
からも「二人の飼育係」だと思われている。毎度の如く壮大なボケをかます二
人に息をつく暇もなく突っ込みを入れ、路線を修正してやるのが私の仕事であ
る。




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