スタートライン

第一話


 走る。
 飛ぶ景色。羽でも生えたかのような高揚感。火照った身体をつつみこんでく
れる大気。
 ああ、あの子が感じていたものって、こういうのだったんだ。そう思った。
 それは六年かけて立てたスタートライン。
 目指してきたわけでも、念願叶ったわけでもなんでもない場所。
 失った物だってあるし、未練だってないわけじゃない。
 でも手に巻きつけた赤い糸と、その先に繋がっているはずの笑顔は失わない。
 それだけは、絶対に。

「よーい、どん」
 掛け声と共に走り出す体操服。二十人ばかりの集団が一斉に時計回りにトラッ
クを周回。
 固まりはすぐに散開。まあ、長距離走なんだから当然といえば当然だ。
 でも「周回抜かし」なんてラスト近辺で起こるのが普通であって、断じて二
周目で起こるべき話じゃない。
 現実には目の前で起こっているのだけど。
 二周目で周回抜かしにした、ということは普通の人の二倍の速度で走ってい
ることになる。こうやって改めて眺めると、ちょっと異常な速度だ。
 その子の勢いは止まらない。更に速度を上げてトラックを疾走し、ごぼう抜
きという言葉を現実のものにする。跳ねるような勢いで地面を蹴飛ばし、身体
を前に。きっとあの場所だけは重力ですら半減しているに違いない。
 はるか先を捉えるつま先、衝撃を次のステップに換える膝。それは鍛え上げ
られた足と完璧なフォーム。四百メートルのトラックは平均して五十秒。スポー
ツのできる高校生の全力疾走みたいな勢いで二十五周くらいなら走る。
 その顔はどこまでも優雅な笑顔。春先の太陽ですらかすむような輝きが揺れ
る短髪から見え隠れ。私はその笑顔が
「葵っ!後一周!」
 手を振って声で合図。私に気づいて一瞬手を振り、笑顔。再びトラックの白
線を見つめる横顔。短い髪の先を止めた白いリボンが映える。
 そして笑顔が消えて、真剣な目線が姿を現した。
 残り四百メートル。この日初めて見せる全力。
 ストップウォッチを覗いた。
 うん、タイムは悪くない。いや、履いているのが普通の運動靴だからむしろ
十分すぎる。まさに私の予想通りのタイムだ。
 あの子がこのトラックを数え切れないほど走ったのなら、私は同じ数だけそ
の姿を見てきた。だから分かる。今日の気温、湿度、日差し、風向き、そして
時刻。そんな環境変数があの子の速度に与える影響はあの子より詳しい。目を
閉じたって一秒単位で予想できる。
 残り二十、十、次のステップ……ゼロ。
「ゴール! お疲れ様」
 葵が目の前を突っ走って抜け、トラックから逸れて大回りで戻ってきて両手
を広げて一回転。快走できたときの癖だ。
「どうだった、桜?」
 呼吸を乱すことすらなく、言葉を発する。天性の持久力と回復力だ。
「別にたいしたことないわ。どうせ体力測定だからって手抜いたでしょ」
 褒めてあげたい気持ちを抑えてきつく言う。この子は少し褒めただけですぐ
調子に乗るから、これくらいがいい。
「えへ、そっかな」
 用意していた水筒にお茶を注ぎ、手渡す。
「えへ、じゃないわよ。ほら」
「ありがと。ばれてた?」
 曖昧に笑い返す葵。
「四週目から六週目。身体が空に向かって跳ねてた。あれじゃエネルギーの無
駄遣いよ。すぐに手を抜くんだから」
「うん、わかっているんだけどさ。いつもどおり怒鳴ってくれないとつい」
 失礼な。
「私は怒鳴ったことなんてないわよ。声援を送ってるの」
「すると私は桜の声援が怒鳴り声に聞こえる軽いM」
「……そんなこと公言しないでよ。ますます変に思われる」
 ただでさえ葵の言動はエキセントリックなんだ。わざわざ注目を集めるよう
なことを言ってどうする。
「あはは、そうやって頭を抱える桜もかわいいかも」
 ……もしかしなくても私は喧嘩を売られているのか。
「なんかもう、お腹まで痛くなってきた……」
「そういうときは痛いのを我慢して腹筋するとたいていの痛みは取れる。これ
経験則ね」
 きっと頭痛はヘディングの練習で完治するんだろう。
「……ああ、そういえばあんた気合いで病気が治ると信じてたわね」
「当然。気合いがあればなんだってできる」
「なら気合いで中間テストの追試をゼロにしてみなさいよ」
「ほら、怒鳴った」
 なんという揚げ足取りだ。
「だいたいね、私が怒鳴るって言うけれど、それは全部葵が悪いんでしょう。
私だって好きで大声上げてんじゃないわよ。葵があんまりにも見てられなくて
口が出るの」
 走っているときはあんなに格好いいのに、立ち止まるといつもこんな感じな
んだから。
「まあいいわ。どうせ放課後も付き合うんだし、そのときはもうちょっと本気
で走りなさいよ」
「うん、期待してて。今日の体調は最高だから存分に桜を満足させられると思う」
 笑顔で親指を立てる。こっちは親指を下げてやりたい気分。
「調子いいんだから……せめて今日くらいは失望させないでよ」
「オッケーマイスター桜。今日もご指導ご鞭撻よろしくお願いします」
 葵が意味のわからない称号を私につけるときは何か深夜アニメを見たときだ。
突っ込むと語り始めるので無視することにする。
「あのねえ、私はあんた専属じゃなくて陸上部のマネージャーなの。やらない
といけないことが山ほどあるんだから」
「いいね、そのツンデレっぽい台詞。萌えた」
「そういう言葉を公衆の面前で言わないの」
「いやいや、リアルのツンデレ分は貴重だから誇っていいよ」
 リアルとかツンデレとか。別に他人の趣味に口出しはしないけれど。
「そもそも私がいつ葵にデレたのよ」
「まあ、そういう日が来るかなって」
 ここまで来るとポジティブというよりはご都合主義だ。
「生涯来ないわよ」
 半歩だけ離れて背中を向ける。
「ああ、ちょっと。桜こそ待って。まだ授業終わってないよ。私と桜はペア」
「あーなんか腹立ってきたわ。クラブも一緒なのになんで授業でもあんたとペ
アなのよ。葵と組みたい子だってたくさんいるんでしょ?」
「え、そうなの?」
「そうなの。あんた結構人気あるでしょ。靴箱がラブレターで溢れるような子、
初めて見たわ」
「それを言うなら桜だってこの前陸上部のマネの後輩に」
「……あれは単に休日に出たから一緒に食事に行っただけよ」
「他にもローゼと出かけたとか留学生のラックさんから聞いたけど」
 なんでそんなとこだけアンテナが高いんだ。
「そりゃ、彼女たちも弱い立場だしいろいろと相談もされやすい立場にあるし
……何よ」
 葵が変な顔を向ける。
「で、本命は誰?」
「いるわけないから」
「まあ、ここは女子高だしね。いても困る」
「なら最初から聞かないでよ」
だいたい本命ってなんだ。
「ちなみに私は桜が本命」
「もっと聞いてないわよ。というかそういうのは学外の人にしなさい」
 まあ、葵が格好いいのは認める。無駄に同性に好かれるのは分からないでは
ない。
 でも、私の場合は陸上部のマネージャーであり、クラスの委員をしているだ
け。つまり後輩や馴染めない子と交流を持つべき立場にある。付き合ってあげ
るのはいわば義務だ。
「それで桜。今は体育の授業だよ」
「それくらい知ってるわよ、葵じゃあるまいし」
「うわ、さりげなくひどいね……やっていることは体力測定。次は桜の長距離
走。で、私と桜はペア」
「……それで何よ」
「わかんないかなあ。次の長距離走は桜の番。計測するから位置について」
「わかってるわよ」
「なら早く早く」
 私の手からストップウォッチを取り、葵が満面の笑みを返す。
 視線を逸らすと、その先には無情にも伸びるトラックの白線。
 はぁ。
「今の言葉から察するに、葵は私をどうしても走らせたい、と」
「どうしても」
「しかもかなり?」
「しかもかなり」
「実は義務感からそう言っているだけとか」
「難しい言葉を使わない。せめて体育の時間くらいは走ろう。私だって桜の走っ
ている姿を見たいんだ」
 葵の笑顔に再度ため息。
 正直に言おう。私は長距離走とか、身体を使うことが苦手だ。体力測定なん
てやる前から最下位に決まっている。さっき計った左手の握力は一桁で、懸垂
はカウントゼロ。ハンドボール投げの飛距離が一桁なら幅跳びも一桁だ。運動
神経とか持久力とか、そんなものに縁のあったことは一度もない。平均台に乗
れば三歩で落下し、鉄棒にはつかまるのですらやっとで、小学校のドッジボー
ルなんて最初から万年外野だ。どうしても長距離を走らされるときだって大抵
は途中で試合放棄。
「あのさ、葵。ものは相談だけど、走ったことにしておいてくれない? タイ
ムは葵の四倍で十分」
「ごめん。私掛け算とか苦手でさ。そもそも足し算ですら精一杯」
「……そうだったわね。あんた指使わないと繰り下がりの引き算できなかった
わよね」
「大丈夫、九九は言えるよ」
 当然だ。
「言えるけど使えないんでしょ」
「大丈夫。私が計算に費やす時間があれば桜が走り終えるほうが早い」
「それはさすがにないでしょうけど」
「なら私が保証する。桜は強いから大丈夫だよ。お陰で私も走れるようになっ
たんだし、感謝してる」
 私の右手を取る葵。
「……なによ突然。気持ち悪い」
 左手も取られる。
「あ、もしかして照れた?」
「んなわけないでしょっ」
「あー照れた照れた。女に手をつながれて照れた。桜、めっちゃかわいいね」
「うっさい。二度と触るな」
 手を引っ込める。
「うん。その勢いで位置について……いくよ」
 肩を押す柔らかな掌。
「よーい」
 仕方ない。前を見据え、
「どん!」



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