春、都会の隅-Spring-

最終話

「小桜さん、少し来てくださる」
 爽萌が笑顔で小桜に声をかける。その小桜と言えば教室の中心で友人に囲ま
れ、優雅に笑っている。正門を破壊し、学校から逃避行したとあってはますま
す敬遠されるかと思いきや、むしろ小桜に対する見方はいい方向に傾いたと言
える。もう「とちばん」なんて必要ない。それは小桜自身の変化もさることな
がら、小桜の周囲が変化を始めた証拠だ。もう、爽萌だけが小桜を心配する必
要はないのかもしれない。
「はい、爽萌さん……少し出ましょうか」
 小桜は先ほどと変わらぬ柔和な笑みだが、その笑顔の中に鋭いものを混じっ
ている。だが、表面上はあくまでも笑顔を崩さず、爽萌の隣に立ち、廊下を進
む。
 階段を上り、誰もいない屋上に出た。
「単刀直入に聞くけれど」
 フェンスに寄りかかった爽萌が言う。
「はい、なんでしょう」
 小桜がいつもどおりの笑みを返す。
「千秋さんの子供を産んでちょうだい、今すぐ」
 その言葉の意味を瞬間で判断する。
 千秋は現在拘留中。兵役拒否は重罪だから、懲役の五年は覚悟せねばなるま
い。つまり、爽萌は人工授精で千秋の子供を宿せ、そう言っているのだ。
「それは北東技工の要請ですか、それとも橘の家の意志ですか」
 栃内の一人娘が身元不詳の子供を身ごもる。その意味を正す。
「どっちもよ。植物園も千秋さんの処遇もこちらの匙加減一つ。どうかしら」
 爽萌はあくまでも冷静に小桜を攻め立てる。
「それで、私が受けなければ、どうしますか」
 その瞬間、攻守が逆転した。小桜は爽萌に切り札をさらけ出させる。
「……力づくよ。小桜さんは意志が消し飛ぶまで辱められるわ」
 その悪魔のような言葉に爽萌は唇を噛み、小桜は笑顔すら見せた。
「わかりました。北東技工が私を封じ、橘の家が栃内の家を封じる、それが代
償。私が結婚を回避し、千秋さんを助け、そして植物園を提供される、それが
報酬。そういうことですね」
 整理をつけて爽萌を冷静に追い詰める。
「……そうよ、小桜さん」
「悪い取引ではありませんが、私に歩がありすぎます。何を隠しているのです」
 小桜が一歩、詰め寄った。
「……小桜さんが産む子供は」
 口を強く結ぶ爽萌を見た瞬間、小桜の表情が一気に氷点下を下回り、
「北東技工の、脳機能操作を受けるのですね」
 完璧に爽萌を封じ込めた。
「お見通し、ね」
「わかりました。それほどまでにこの私が欲しいなら、力ずくで来てください。
この意志、力で曲げられるものなら曲げてみなさい」
 爽萌に背を向け、屋上を後にした。
 おそらく、この階段を下りてしまえば自分の純潔を保っていられないだろう。
爽萌は容赦なく自分を辱め、栃内家を消し、兵器となるだけの子供を宿させる
だろう。それでも、
「桔梗だけは守りますから」
 唇を噛んだ。
 一人残された屋上で唇を噛むのは爽萌も同じだった。
 この結果は予想していた。だから電話を取る。
「今、屋上を出たところ。後はあなた方が好きにしていいから……通用門に車
が来ているはずよ」
 そう告げて、泣いた。小桜が自らの道に全てを殉じる覚悟でいるのなら、自
分は家のために全てを殉じよう。だからこそ
 私も千秋さんの子供を産もう。
 そう決めた。
 千秋との子供であれば、どんな困難も乗り越えてくれそうな気がした。もし
かすれば小桜の子供を助けることが出来るかもしれないから。名前は、どうし
よう。
 橘。そう、子供にだけは幸せになってほしい。だから「幸」という漢字だけ
は入れておきたかった。
 男なら幸一。そう決めた。

 懲役二年。徴兵拒否の実刑であるが予想より短い判決だった。
 二年と聞けば長く感じるものだが、元来身体を使うのが得意な千秋は刑務所
内でも人が集まれば楽しく過ごしていた。不思議な人徳である。
 だから一年と半分が過ぎ、春。
 仮出所のその日も特別な感慨にはふけらなかった。刑務所の仲間一人ずつに
背中を強く叩かれ、笑顔で最後の扉を出る。
 さて、どうするか。
 行くあてはない。今度こそ本気で孤独に生きていかなければならない。さし
あたっては野宿かドヤか。そんな覚悟も桜の中ではただ、気持ちいい。
 まっすぐに伸びる、道の向こうを目指す。
 それは桜が続き、道の終わる旅の始まりの場所。そこに、一つの影が伸びて
いる。
「千秋さん、ええと、お勤めご苦労様、でしょうか」
 正直、千秋はその声を忘れていた。
「ずっと待っていました。港ではぐれたままでしたから」
 目を上げる。そこには
 二年前と同じ白い服を着た、小桜が立っていた。もともと細い身体つきだが、
ずいぶんと痩せたような気がする。あの頃小桜を包んでいた優雅さは消え、激
しい疲労すら見て取れるが、それでも気品溢れる笑顔で坂の下に立っている。
「小桜、お前」
「いいんです。私はもう、千秋さんとデートする資格はありません。でも、一
つだけかなえて欲しいことがあります」
 小桜が歩み寄る。
 小さな、小さな手を引いて。
「小桜、それは」
「私の子供です」
 強い意志だけで言い切った。
「小桜の子供、か」
「はい。迷惑でしょうが一度だけ抱いてあげてください。お願いします」
 ここで泣いては反則だと分かっている。だから、必死で
「ああ、抱かせてもらうぜ」
 涙を
「……いい子だな、桔梗は」
 こらえることなんてできなかった。
 泣いた。絶望に沈んだ日にも、激しい責め苦の日にも、どんなときも絶対に
流さなかった涙だった。声を上げて、膝をついて、千秋にしがみついて泣いた。
「……ごめんなさい、ごめんなさい、千秋さん、こんな」
 言った。過酷な日々のこと。責苦のこと。子供のこと。そんな全て。
 何もかもを言って、それでも謝らなければならない小桜がいた。
 自分は無力だ。千秋はそう思う。本気で思う。これが覚悟も何もなく生きて
きた自分の代償だと思う。
 ならばこそ、言うべき言葉はたった一つだ。
 言え。
「連れてってやるよ。島に」
 泣いている小桜を抱いて、キスした。

 タバコを取り出す。
「あー、最高だ。あれだな、シャバの空気ってやつか小桜」
 離島へ向かう連絡船の待合室。左手でライターを探し、財布に行き当たる。
ちなみにその財布は小桜のものであり、昨日婚姻届を提出したばかりなのであ
るが、生活費は全てその中から出ている。栃内家を離れたとはいえ、小桜には
十分量の資産があるらしい。
 ポケットの中の千秋の手を、小桜が握る。
「ダメです千秋さん。タバコ、やめてください」
 背中で寝ている二人の娘、桔梗がずり落ちかけた。
「なんだよ、禁煙じゃねえよここ」
 凄む。彼女を二年間待たせた上に、新婚一日目にしてけんかを売った男は世
界広しといえども千秋くらいだろう。小桜も負けてはいない。はるかに低い身
長でその視線を返す。
 ものすごいにらみ合いだった。
「桔梗がいます。タバコ、やめてください」
 わずか一日で、「千秋は娘に訴えると何でも聞いてくれる」と学習した小桜
が切り札を披露。
「じゃあ外で吸って来ればいいんだな」
 だが小桜はその手を離さない。
「ダメです。一緒に行くって言いました。言ったことは必ず守ってくれるのが
千秋さんです。違いましたか」
 それは最強だった。勝てるはずがなかった。結婚一日で尻に敷かれているな
んて言ってはいけない。男なんてそんな生き物である。ため息と共に、タバコ
をゴミ箱に投げた。
「これでいいだろ。もう吸わねえよ、あ」
「どうかしましたか、千秋さん」
「……桔梗、今多分俺の背中で漏らしたぞ。背中があったかい」
 その言葉に小桜が笑顔でノートを出す。
「って出すものが違うだろ」
「あ、これは梗ちゃんの記録をつけているんです。この、花壇の記録をつけて
いたノートの続きに」
「いいから替えの服とおしめくらいださんかアホ」
 自分では全く動くことの出来ないアホな父親が慌てまくる初夏の港。二人が
目指す花の島はそこからわずかの位置にある。

 ノートは祖母から母へ、母から父へ、父から私へと引き継がれ、今私の手元
にある。
 これがそのノート綴られていた栃内小桜という少女の軌跡。つまり私の祖母
の歩んだ過酷で美しい日々である。


春、都会の隅  了


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