春、都会の隅-Spring-

第21話

 同日、橘家。
 橘家当主、橘爽萌の伯母の書斎にて対峙するのは爽萌と爽萌の伯母だ。
「さて、今回の騒動について何か申し開きは」
 説明の機会を与えられただけでもましだと思う。何もなく腕一本、と来るか
と思っていた。伯母はそういう人だ。爽萌の両親を殺したのも、両親が役立た
ずだったという以上に爽萌という人材が欲しかった。それだけだ。
「むしろこの程度で済んだことに感謝してくださいますか、伯母様」
 大きく出る。
「おっしゃってみなさい」
「確かに損害については双方で負担します。ですが、当初の計画通りこの事案
で栃内家はこちらに伺いを立てる立場になりました」
「あの程度で栃内に貸しを作った、と?」
「ええ、大きな貸しです」
「……理由があるのなら聞きますが」
「はい。現当主である栃内陽介は栃内小桜が高校卒業と同時に引退し、その後
は栃内小桜が家督を継ぎます。ですが今回の事件で栃内小桜は表に立てない状
況になりました。栃内家の宗家に空白を作ることができます。橘の意志も通し
やすくなります」
 沈黙が降りる。伯母が何かを考え込んでいるようだ。
「それで、あなたのご要望は」
「もはや栃内家に圧力をかける必要はないかと。それから、要望と言うほどの
ものでもありませんが、植物園の計画を見直してくださりますか。栃内小桜は
十二分に無害な存在となりました」
 伯母の顔が少し笑う。
「あの栃内の娘があの程度で無害になるはずがないでしょう、爽萌。その読み
は、あなたの頭が悪いせいか、それとも」
「……先読みが不十分でした。申し訳ございません」
 爽萌は唇を噛む。
「まあ、いいでしょう。条件を提示します。それにあなたが同意して実行でき
ればよし、できなければあなたに橘の名を名乗る資格を与えない。それでよろ
しいかしら」
「わかりました、伯母さま」
 小桜の完璧な無力化。爽萌は伯母の言葉を刻み込む。

 あらゆる動物は五感により情報を入手し、脳において情報を分析し、脳より
唯一つの出力系である筋肉へと伝達される。動物とは一つの入出力系だ。それ
は壮大なコンピューターともいえる。
 脳をコンピューターと例えるのなら、コンピューターを脳に例えるのも無理
ではない。百四十億の素子を持ち、外部から五つの入力があり、外部へ一つの
出力をできるコンピューターがあれば、それは「脳」と呼ばれるのではないだ
ろうか。人間はもはや最後の神秘とされる「脳」を人造することすらできる。
 そして、それをやり遂げた企業があった。名前を北東技工という。かくして
人間特有の思考判断、認識識別能力は自動小銃程度にすら組み込まれ、戦局を
塗り替えた。この国は兵士の不足を機械の頭脳で行ってきた。だが、それだけ
では決定打に欠ける。優秀な兵器がいくらあっても、人間一人で百の自動小銃
を操作することはできない。もしそれを可能とする方法があるなら、今度は人
間の方をいじらなければなるまい。
 北東技工が現在開発中の技術はまさにそれだ。人間の身体機能、および脳を
直接強化するという方法での戦争貢献である。
 最も簡単と思われたのが運動神経系の強化だ。小脳による運動制御を開放し、
常に火事場の馬鹿力を出せれば「強化人間」の出来上がり。同じく、視覚神経
の感度を上げれば「暗視装置内蔵人間」が出来上がる。痛覚を和らげれば痛み
を恐れない狂化兵士すら夢ではない。だが、それはあくまでも理屈の上での話
だ。仮にも脳を直接操作するとなれば危険だって付きまとう。当然のことなが
ら倫理的問題もある。何より、脳の機能は完全には解明されていない。ブラッ
クボックスを触ればとんでもない結果が出てくるものだ。そこで目をつけたの
は戦災孤児である。北東技工はまず、福祉施設を作り、子供を集めた。次に栃
内家に働きかけ、自らの研究を正当化させる法律を作らせた。
 産み出された子供の多くは強すぎる力と異常な感覚ゆえに通常の生活を営む
ことすら出来なかった。衝動と反社会的行動、暴力的で短命。自分の首を自分
の手で引きちぎる子供だっていた。食事を取らずに死ぬ人間もいれば、自分の
腕を食べてしまう奴もいた。所詮、人間が頭の一部を触って人間を改造するな
んて無理な話だというのが当初からの主流の考えですらある。最近、ようやく
感覚神経と運動神経を強化することにだけは目処がついたが、どうしても性格
が凶暴にならざるを得ない。それでも数々の失敗を重ねるうちに、脳の機能を
制御する方法がある程度解明されてきた。
 が、最近になって北東技工の研究に対する批判が出てきたのだ。あまりにも
非人道的で閉鎖的であり、情報を公開すべき、という意見である。そんなとき
の頼みの綱であるはずの栃内家だが、現当主である小桜の父は弱腰である上に、
北東技工に反対する立場すら取ることがある。栃内家の次期当主、小桜は基本
的に北東技工を推すが、人体の機能強化に限っては不干渉の立場を取っている。
もはや橘、北東技工にとって栃内家は尽くすべき相手ではない。
 北東技工には栃内と名のつくものが邪魔だった。小桜さえ社会的に抹殺でき
ればどんな代償も惜しくはない。

「小桜さん、少し来てくださる」
 爽萌が笑顔で小桜に声をかける。その小桜と言えば教室の中心で友人に囲ま
れ、優雅に笑っている最中だ。正門を破壊し、学校から逃避行したとあっては
ますます敬遠されるかと思いきや、むしろ小桜に対する見方はいい方向に傾い
たと言える。もう「とちばん」なんて必要ない。それは小桜自身の変化もさる
ことながら、小桜の周囲が変化を始めた証拠だ。もう、爽萌だけが小桜を心配
する必要はない。
「はい、爽萌さん……少し出ましょうか」
 小桜は先ほどと変わらぬ柔和な笑みだが、その笑顔の中に鋭いものを混ぜる。
 爽萌の隣に立ち、廊下を進む。
 階段を上り、誰もいない屋上に出た。
「どうやって鍵を手に入れたんです、爽萌さん」
 明るい顔でそう聞く小桜は笑顔に満たされている。
「生徒会長権限で、ね」
 爽萌も笑い返す。
「そうですか。私もあやかりたいものです」
「そうね。ほんとうなら……」
 言葉が止まった。
「それで、どのようなご用件でしょう」
 小桜は「橘さん」とも「爽萌さん」とも言わない。
「さすがね。では、栃内さん。本日はお時間をお割き下さり、ありがとうござ
います」
 爽萌が小桜を苗字で呼び、礼を尽くす。
「はい、どうかしましたか、橘さん」
 小桜はたおやかに笑い返すも、爽萌とは呼ばない。たった一言だけで全身に
栃内としての血をいきわたらせる。前までのように切れを表面には覗かせては
いないものの、内包された強さは数段上になっている。
「では申し上げます」
 次に続く言葉は爽萌が引き出した最大限の譲歩。これ以上は、ありえない。
「栃内さんに千島千秋の子供を産んでいただきたいと依頼します」
 小桜はそれくらいのことで驚かない。
「私に、子供を産めと?」
「はい、その通りです」
 小桜は考える。千秋は現在拘留中だから結婚しろということを言っているわ
けではない。ならば爽萌は人工授精で千秋の子供を宿せ、そう言っているのだ。
未婚の状態で子供を宿すということは、少なくとも数年間、小桜は表舞台に立
ちにくい。
「それは北東技工の要請ですか、それとも橘の家の意志ですか」
 栃内の一人娘が身元不詳の子供を身ごもる。その意味を正す。
「いえ。私、橘爽萌からのお願いです」
 爽萌はあくまでも冷静に小桜を攻める。
「それで、私が受けなければどうしますか」
 その瞬間、攻守が逆転した。
「逮捕されている千秋さんの処遇を変えるくらいなら」
 小桜が本気になればそんな脅しは成立しないが、虚勢を張る。
「私に子供を産めということは、私を栃内の宗家から外したい、と」
 整理をつけて爽萌を冷静に追い詰める。
「そうよ、小桜さん」
「他に何を隠しているのです。私を次期当主から外したければ他に方法もある
でしょうが」
 小桜が一歩、詰め寄った。
「……小桜さんが産む子供は」
 口を強く結ぶ爽萌を見た瞬間、小桜の表情が氷点下を下回る。
「北東技工の、脳機能操作を受けるのですね」
 完璧に爽萌を封じ込めた。
「お見通しなのね、小桜」
「栃内の血ならば成功するとでも思っているんでしょうね、橘さんの伯母さん
は」
 爽萌は答えない。まさに図星だからである。
「もし条件を飲めないようであれば、北東技工の研究施設を海外に建設するこ
とも考えるそうです」
「……なるほど。それほどまでにこの私を封じたいのなら力ずくで来てくださ
い。私の意志、力で曲げられるものなら曲げてみてはどうでしょう」
 小桜は爽萌の返答を待たずに背を向け、屋上を後にした。
 おそらく、この階段を下りてしまえば全てが終わる。爽萌は、爽萌の手配し
た「誰か」は容赦なく自分にそれなりの処置を施し、栃内家を消し、兵器とな
るだけの子供を宿させる。
 唇を噛んだ。
 一人残された屋上で唇を噛むのは爽萌も同じだった。この結果は予想してい
た。だから電話を取る。
「今、屋上を出たところ。後は予定通り……確保次第、軍中央病院へ向かって
ください」
 そう冷酷に告げようとして、自分の声の震えに気づく。やっぱり爽萌は小桜
のようにはなれない。
 ふと、思いつく。
 小桜が操作を受けた子供を産むというのなら、自分は何の操作も受けていな
い小桜と千秋の子を産もう。簡単だ。母体は自分。卵と精子は簡単に手に入る。
 そう決めた。
 千秋と小桜の子供であれば、どんな困難も乗り越えてくれそうな気がする。
 名前は、どうしよう。
 橘。この忌まわしい苗字は一生ついて回る。でも、子供には幸せになってほ
しい。だから「幸」という漢字だけは入れておきたい。

←第20話へ 最終話へ→

「春、都会の隅もくじ

他の作品を探す