こんな北の果ての都会の隅にも桜が咲き誇り、ほんの少し夏のにおいすら感 じさせるような陽が降りることもある。 五月も半ば、学校祭だ。 さて、多聞に漏れず伝統と格式ある学校祭だ。生徒による模擬店が禁止され ているため一般的な「学園祭」とは趣を異にしているが、それでも校内は活気 を呈している。 イベントの範囲が多岐に及ぶからだ。運動部共催の競技会と文化部共催の屋 内展示、そして生徒会主催の舞台発表という学校側の催しもあれば、地域住民 による直売テントなんてものもある。招待状なんてケチなものも発行しない。 来るもの拒まず、去るもの追わず、入退出も自由。よく観察すると制服を着崩 した軍人が懸垂競技会でかつてない成績をたたき出し、前掛けそのままの八百 屋の主人が直売で声を張り上げ、満開の桜に顔を赤くする井戸端会議議長まで 寄り集まっている。招待されてもいないのに訪れるのは地域住民だけではない。 顔を繋ぐのに必死の若手将校もいれば、人材を見極めにきた中小企業の社長も いれば、生徒と関連ある地方議会の議員もいる。 その場所だけは普段と同じように閑散としていた。 校舎裏である。日当たりだけは相変わらず良好、音といえば歓声がきまぐれ な風に乗って気まぐれにやってくるくらいか。 『先日警察の取調べ中に自殺した元陸軍曹長ですが、その後の捜査で』 ばつん。 ラジオのボタンが押される。 伸びた指は作業服のボタンにかかり、小さな白いものをつかみ出す。 タバコではない。発表プラグラムだ。もう無理して吸うタバコなんて存在し ない。学校祭当日の日曜日、晴れた空に満開の桜が光る中、神の与えた最高の 舞台の下、千秋は絶賛仕事中だ。爽萌からの指示に従い、通用門近くに穴を掘っ ているのだ。その仕事も一段落、次の大仕事までは少しだけ時間がある。 さて、健全な男子が暇になったら何をするか。 そんなもの有史以前から決まっている。逢引だ。 というわけで暇な千秋は、校内で地域有力者に淡々と挨拶しているはずの小 桜を電話で呼び出し。ワンコール。 「俺だ」 『あ、千秋さんですか』 小桜の声が一瞬上ずり、周囲を気にして落ち着きを取り戻す。そんな姿を想 像するだけで千秋は三日間くらい幸せになれる。待つこと一分三十秒。 「あ、おはようございます、千秋さん」 小桜は走って現れる。どうやって周囲を振り切ったのか謎だ。 「おう、小桜……ん。今日から変えたのか」 「気づいてくださいましたか。はい、もう頑張ることもないと思いまして」 小桜の首にはいつものネクタイはない。小桜がほんとうは好きなリボンだ。 「そうか。これでようやく入学、だな」 「はい。ようやく始まります」 「友達、できるといいな」 「はい、これから友達を作っていきたいと思います」 小桜の顔は満面の笑みだ。もう千秋が手助けしやることなんてどこにもない のかもしれない。 「改めておめでとう。小桜」 千秋はいろんな思いを込めて祝福する。 「ありがとうございます。あの、千秋さん」 「ん、どうした」 小桜が右手を千秋に差し出し、持っていた紙袋を開ける。 「あちらの直売所で売っていました。千秋さんと食べることができればと思い まして」 千秋が小桜の腕の中を覗き込む。 「いちご、か」 「はい、それでこの時期のいちごは大きくなるのに時間がかかっているので甘 いそうです。その……食べますか」 身体がくっつきそうな距離から顔を赤くして上目遣い。それだけで普通の男 なら昇天できそうだ。もういちごなんてどうでもいい。 「いただこう」 袋の中に手を 「待ってください。私の言う通りにしてくれないと食べることはできないこと になっています」 「は?」 「今は分からなくとも、いずれ分かります。今は言うとおりにしてください」 伸ばした手が小桜に遮られ、仕切りなおし。 「あ、まあ、分かった」 「では口を開けてください」 正確に一秒、静寂が降りた。 「は?」 「いいから口を開けるんです。そう言うことになっているんです」 「わかった、ことにしとく」 その猛烈な剣幕の前に、千秋の口は理解を通り越して開きっぱなしである。 小桜はそんな千秋を確認し、袋の中のいちごを右手の指につかみ、千秋の口の 中にいちごを入れた。ついでに細い左手の指で千秋の顎にそっと触れる。 「……あの、どうでしたか」 わずか三秒。千秋が自分の身に起こった怪奇現象を理解するのには時間が少 なすぎる。 「……」 「あの、何か言ってくださると助かります」 勢いの切れた小桜が一気に顔を伏せ、小さくなり、差し出していた右手をか ばうように胸元へと押し込める。 「あのさ、小桜」 「はい」 言ってみたもののなんと続けていいのかわからない千秋。 「今の、いちごだったんだな」 「はい、そうですが」 「俺が小桜に食べ……させてもらったのか」 「そう、ですが」 「すまん。正直緊張しすぎて味なんてわからなかった」 「そう……ですか」 「というわけでもう一度食べさせてくれ、小桜」 「ダメです。そんな恥ずかしいことを頼むなんて信じられません」 「その口が言うか。小桜が最初にやったんだろうが」 「私のことはいいんです。問題は千秋さんではないですか。だいたい私がどれ ほど」 なぜ怒る、と聞きたいところを必死で我慢し、 「わかった。なら俺が小桜に食べさせてやろう」 「え」 「決めた。食べさせてやる。一番でかいのを放り込んでやる」 「あ、やめてください。その、私、そんな恥ずかしい」 「聞いてねえよ。ほら、口ではそんなこといいながら」 「あら、お邪魔でしたか」 二人の間に爽萌が割って入る。 「ってなんでお前がいるんだ」 千秋が猛烈な勢いで振り返る。 「地域を代表する栃内家の娘と橘家の娘が共にあいさつ回りをする。そうする と小桜さんと私が一緒であること自体不自然ではないかと思いますが、何か反 論でも」 この上なく絶妙な爽萌の返答だ。 「そんなこと聞いちゃいねえよ。今の小桜、明らかにおかしかっただろ。何を 仕込んだ」 「あら。私はただ小桜さんにいちごを買うように助言しただけですけど」 「嘘つけ、この女狐」 千秋が睨みつけるも、爽萌は動じない。小桜に根性で負ける爽萌も千秋には 圧勝である。 「あ、あの。爽萌さんは関係ありません。食べさせてあげる、ってのは保健室 の細葉先生からの助言でしたから」 二人の勢いに気おされ、朱に染まっていた小桜が口を挟む。 「保健室の、先生だと?」 知らぬが仏というやつであるが、あれ以来小桜は保健室の細葉に何かと相談 を持ちかけていたのだ。 「ということです、千秋さん。かわいい彼女に食べさせてもらったいちご、高 くつくなんてことになってほしくないですよね」 そんなことを言いながら手元のカメラをさりげなく揺らす。 「あのな、爽萌」 千秋がカメラに手を伸ばし、爽萌はそこから簡単に逃れる。 爽萌の胸は少しだけ痛い。 そう、そのおふざけの時間は少し前まであったはずの幸せの風景とは違う。 もう、千秋の心は爽萌を向いていない。その証拠のように、千秋と小桜は隙の あるたびに視線を合わせて笑う。それは千秋が島を出て以来忘れていた感情で ある、小桜がずっと封印してきた笑顔。わかっている。この風景を何より望ん だのは爽萌本人だ。 それでも痛む爽萌の胸は、やっぱり「そういうこと」だったのだろう。 もし、もう一度千秋と出会うところからやり直せば、もし小桜より先に自分 が千秋に出会っていれば千秋の隣にいたのは誰だっただろう。そう自問しかけ て、愚かしさに気づく。 答は決まっている。爽萌は何度でもこの役を買って出るだろう。それが爽萌 という人間の生き方。ただ、素直に笑うには時間がもう少しだけ必要なだけ。 「千秋さん、小桜さん。そろそろ今日の予定を伝えようと思っているんだけど、 いいかしら」 感情を丁寧に埋葬する。 「ああ、構わん」 「はい、伺います」 「では本日の予定ですが、二時半に小桜さんの発表」 「はい」 「そして三時以降に重機の搬入を通用門より行う、で間違いないですね」 「ああ、そうだ」 「予定通りですね。では最終確認です。損害は全て小桜さんが持ち、社会的責 任は千秋さんが取る。それでよろしいですか?」 「……俺のことは覚悟している。ま、人を傷つけるような話ではないし」 千秋が爽萌の言葉に応ずる。 「私も構いませんが」 「なら大丈夫ですね。トレーラーを転覆させるのですからくれぐれも怪我のな いようにだけお願いします」 爽萌の計画は実に単純だ。今日運ばれる重機を載せたトレーラーを転覆させ、 工事を凍結に追い込む。工事の見直しで時間をとり、その間に小桜の発表で高 山植物園建設の機運を盛り上げる。問題は計画的に「事件」を起こすことにな る千秋の行き先だ。が、千秋の身柄の確保は小桜に託す。 「では千秋さん、私はこれ以上話すには幾分喉に渇きを覚えています」 「……素直に言えよ」 「前祝をしますので学校の外で飲み物を買ってきてくださいますか下郎」 「いちいち罵倒しないと気が済まないのな」 千秋がため息を残し、その場を去った。 「さて、小桜さん。千秋さんの身柄ですが、午後三時半に確保以降、どうされ ますか」 爽萌は小桜に尋ねる。 「はい、行きたいところがあるんです。もう、予定しています」 小桜は自信を持って告げる。 |
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