小桜は授業を受ける。ここからは見えない花壇に思いを寄せ、ただ淡々と教 師の言葉に耳を傾ける。耳を傾けてはいるが、その視線は窓の外を向いている。 これまでのこと、自分の軌跡を思い出しているのだ。 生まれ育った栃内という家。受けてきた教育と期待通りに育った冷酷な自分 。自分の存在意義を一切疑わずに歩んできた日々。何かを犠牲とすることに一 切の呵責を感じなかった心。 後悔していいのなら、百万の罪が自分を苦しめるだろう。 だから後悔はしないと決めていた。絶対に勝って、自分の意義をこの世に知 らしめようと思った。それだけが生きがいだった。 そして今、小桜は戦いに負けた。 花壇は一人では守れなかった。 負けることは死ぬことより恥辱だと信じている。決意はできている。制服の 内ポケットにしまいこんだ短刀が胸に触れる。 これで首を刺せば死ぬ。そのために母から授けられた懐刀だ。 一切のためらいはなかった。それでこそ、栃内の人間だ。 千秋は花壇を元に戻す。いずれ自分で壊すことになるその場所に丁寧に土を 入れ、千切れた花を植え戻す。千秋の目は真剣であるが、その視線の先には何 もない。ずっと昔、故郷の島でのことを思い出しているのだ。 生まれ育った北の孤島。過酷な自然の代償のように生える色とりどりの花の 島。そして巨大な軍事基地と戦争の正義を訴える島。それが嫌で、戦争が嫌で、 徴兵が嫌で逃げてきた自分。 後悔はしない。 そう誓った。 だけど、と千秋はそう思う。 自分の地位と仕事を優先して小桜を一瞬でも見捨てたこと、その結果小桜が 危険に晒されたこと、ほんとうは爽萌ではなく自分が責められるべきだという こと。 総合すると、それは後悔だ。 考えてみろ。 小桜は瞬間だって逃げようとしなかった。たとえ不法占拠といわれようとも、 心無い人間に壊されようとも、ほんとうは無力なはずの小さな身体で必死になっ て守り、育ててきた。小桜だって普通の女子高生だ。一人で花壇を管理し、友 達を作らず、嫌がらせにも耐えるというのは想像以上に過酷だ。小桜がほんと うに高校生活を気楽に過ごしたいのなら、適当に友人と付き合い、適当に笑っ ていればよかったはずだ。だが、小桜が選んだのは過酷な道。きっと、それは 小桜なりの、自分の血筋への反抗。 たったそれだけのことにすら気づけなかった自分の頭を殴る。 目を開けた。 島を逃げ出したときのように西日がコンクリートの上に撒いた水を金色に染 めている。それは北の大地の長い、長い夕暮れの始まり。むせかえるような金 色の中、仕事の片付けを終え、自分の伸びきった影のその先。 黒い、小さな靴を履いた足を見た。 膝の近くまでを覆う白い靴下、皺一つない紺色のスカートは裾に赤いストラ イプが入っていて、ブレザーの合間に見えるものはリボンではなくてネクタイ。 小桜だ。 長い髪が春まっさかりのさわやかな風になびき、顔に時折影を作る。夕焼け の逆光に立つそれは今まで小桜が千秋に見せたこともない強い顔。 出会った場所、別れを告げた場所、春の訪れをどこよりも鋭敏に映し出す春、 都会の隅。 「千秋さん。私、一人では守れませんでした」 小桜が切り出す。 こんなとき、千秋には持ち合わせの言葉なんてない。 「そうか」 小桜が無力なら千秋だって無力だ。 「わかっているんです、自分でも。私のやっていることは間違っています。私 は自分のわがままで多くの人を犠牲としてきました。でも、もうやめます。千 秋さんになら壊してもらっても構いません。迷惑かけてごめんなさい」 小桜が静かな、強い声で語りかけ、胸元に手を入れ、短刀を取り出す。迷い はどこにもない。 「ここでは迷惑でしょうけれど、私の負けですから」 「待て。俺の負けだ、小桜」 千秋は自分でも意識せずに口を動かす。 「引き止める必要はありません。覚悟はずっと昔にできています」 小桜の肩を力強く後ろから掴む。それくらいで小桜は微動だにしない。制服 の皺を気にせずに千秋は力を加え続ける。 「確かに小桜は花壇を守れなかった。けど俺も花壇は壊せない。この勝負はド ローだ」 小桜が右手の短刀に力を込める。 「無駄、です」 その右手を千秋が捕らえる。 「小桜。どうせならお前の命、俺が貰っていいか」 小桜の手の力が一瞬抜けた。千秋はすかさず小桜の手を捻り、短刀を奪う。 「だめです」 「あのな。俺にとって小桜の命はめちゃくちゃに価値がある。ここで使うのは もったいない」 「……そういう問題では」 「俺はお前の誇りなんてどうでもいいものが欲しいんじゃない。俺は」 「誇りは大切なものです」 「ああ、重要だ。でも今は俺の言うことを聞け。俺は誇りなんてとっくの昔に 捨てたけど、生きてるぜ。命より優先、ってことはない」 「……」 「一緒に戦っていかないか。つまらんもんだが、俺は仕事を賭けるくらいはし た。小桜の盾くらいにはなれると思う。だめなら、そのときに死ね。それまで 短刀はお預けだ」 「……です」 小桜がつぶやく。 「ん、なんて」 「嫌です」 小桜が顔を上げた。小さな身体に強いものが宿る。 それはおおよそ誰もが本能的に逆らうことの出来ない威光が宿る。 「私は千秋さんを盾として雇っていません。盾は栃内という苗字だけで十分間 に合っています」 小桜は千秋の右手を強く打つ。その衝撃で短刀が千秋の手を離れた。 全身に力を込める。 「私だって頑張るんです」 千秋に飛び掛る。 「守られるだけなんて嫌です」 瞬発力だけで言えば千秋より圧倒的に優れた小桜だ。 「私だって戦えます」 右手の一撃が千秋の喉に決まる。 「なっ」 「遅いですね。次」 千秋はなんの反応も出来ずまともに攻撃を食らい、よろめく。が、小桜に容 赦なんてない。右手を喉元に押しこみ、右足で千秋の膝を打ち、一気に地面に 倒す。追い討ちをかけるかのように右ひじを千秋の胸の上に振り下ろし、左手 で千秋の肩を押さえつける。まともな人間ならそれだけで気絶しそうな勢いだっ た。 千秋の落とした短刀を左手で拾い上げる。 「私にだって負けるような、そんな人に……千秋さんに前線を任せることなん てできません」 そして小桜は冷静な言葉と共に、千秋の首に短刀を押し付ける。 「私だって盾にも剣にもなれます」 小桜が千秋に身を寄せる。 「小桜が盾と剣なら俺は鎧と鞘だな」 「当然です。私の誇りを台無しにするなら、一生私のものにします」 小桜は強く、強く言い放った。その言葉にお互いが確信する。 一生、離れない、と。 時間は午後六時過ぎ。学校内で女にマウントポジションを取られた男、千秋 は今早足で歩いている。ちなみにその隣を歩く小桜が無駄に笑顔。 「千秋さん、歩くときは私の隣です」 「……はい」 「声が小さいですね」 「肝に銘じます」 二人の関係が固定する瞬間があるのなら、さっきのことを指すのだろう。小 桜と千秋の主従関係はもはや不変のものだ。 「ところで千秋さん。どこに向かっているんですか?」 「小桜のいないとこ」 「千秋さん?」 今のは真剣に殺意がこもっていた、そう思う。 「いや、ちょっとしたボケだ。そうだな、打ち合わせをしないといけないな」 千秋のボケには切れがない。小桜相手に偉そばっていたのも今は昔である。 まったく、ひとたび男の方から妥協などしてしまえば結果は見え見えだ。 「はい。では、打ち合わせをしましょう」 小桜が千秋の袖を引っ張る。 「……その辺の喫茶店でいいか?」 「いえ。私、いいところを知っています。といいますか、車を呼びましたので もうすぐ来るはずです」 言うと同時に重厚な車が横付け。 「……新しいギャグか?」 「はい?」 「いや、俺が悪かったです」 小桜が車の扉を開け、千秋の隣に立つ。 「ようこそ、千島千秋さん。あなたを栃内の家にお連れします」 圧倒されまくりの千秋がほぼ脊髄反射だけで小桜の背中を追い、車を降りて 徒歩五分、ようやく到着したのは和風の玄関口。 「……ここは」 「はい、家の離れです。実家の部屋は少し散らかっていますので、こちらを。 それに、こちらの方が何かと気楽です。手狭ではありますが」 離れであるらしい。そして手狭でもあるらしい。 どう見ても豪邸を通り越している。どこから突っ込んでいいのかすらわから ない千秋が居心地悪く玄関をくぐり、静寂の中に作業靴の乾いた音をこだまさ せる。 よく手入れの行き届いた庭と、塵一つなく掃除された廊下。ここはあまりに も実家の広すぎる小桜が気楽に使えるように用意した「離れ」だ。通常の応接 と執務、個人的な会合などはここで行うことが多い。 断じて手狭などではない。 千秋の目では「高そう」という評価しか出来ない調度品が並び、廊下で出く わした小桜の雇用人と思われる人物が頭を下げる。 ここにきてようやく千秋は悟る。 小桜とは住む環境も感覚も何もかも違う。正真正銘のお嬢様どころか、お姫 様だ、と。それにこういうところで見る小桜は以前学校で見せた拒絶と寂しさ を含んだ危うい姿ではない。堂々として風格がある。 「どこかの王族みたいだな」 なんの捻りもない感想が口を突く。 「……私自身の個人資産はたいしたものではないですが、その話は今度にしま せんか?」 「ああ。すまん。発表の方だな」 「はい」 小桜が発表ポスターを投影する。 「半分完成か。スライドの方は」 「今出します……そういえば今日、学校祭の発表プログラムが配られました。 こちらです」 差し出す。 発表番号12番:ウスユキソウの開花生理について 発表者:栃内小桜 明らかに浮いている。演劇や演奏の中、たったひとつの研究発表でたった一 人の舞台だ。生徒間では早速この謎の発表に対する質問が生徒会あたりに集中 しているらしい。つくづく爽萌には頭が下がる。 「終わったら今度こそ三人で出かけるか」 「はい」 「ん。なら発表の方、一度通しでやってくれるか」 「はい、よろしくおねがいします」 小桜の発表練習が始まった。小桜の優しい声に筋が通り、堂々と、伸びやか に説明を行う。スライドが流れ、大量のサンプルを丁寧に調べたデータが惜し げなく表示され、有意差を論じる。時間配分も完璧、十分きっかり、わずか一 秒の遅れもなく発表が終わる。千秋の意地悪い質問にも小桜は絶妙の引きと押 しで交わす。 「どうですか、千秋さん」 「……完璧だ」 「ありがとうございます。おかげさまです」 小桜が言うと不思議なほどに素直に受け止められる感謝の言葉。 「爽萌と三人で出るのもいいけど、発表終わったらまずは二人でどこか行くか」 「わかりました。予定を空けておきます。今度は私が行き先を決めてもいいで すか?」 きっと物語の終わりは 「ああ、どこでも連れていってやるよ。俺の故郷の島だってな」 「ほんとうですか。やっぱりダメ、というのは聞かないですからね」 「任せとけ」 きっとハッピーエンドになる。千秋は信じる。 |
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