山口弘子はごく普通の生徒、だと自他共に認められる。 学業も普通、人付き合いも普通、運動だって嫌いではない。それでも学校に 登校したくない日だってあるものだ。今日がその日だ。朝っぱらから絶賛憂鬱 中である。 それは三年七組の女子として在籍する以上の絶対的義務であり、休んだらま た次の授業で当てられるのは分かっている。努力で好きになれるものだったら 良いが、それは努力なんかでどうにかなるようなものではないのだ。これまで にも頭が捻じ曲がりそうなほど難解な外国語の訳だって必死で切り抜け、前代 未聞の一冊丸ごと暗記古典単語テストだって連携プレーで押し通し、いやらし い質問を投げかける教師には擬態と威嚇を駆使して生きてきた。 それでもだ。皆勤賞を逃してでも休みたい日がある。 だいたい給料を貰っている奴らだって有給だとかいって休むんだ。なのに虐 げられた無産階級貧乏学生の権利はこれっぽっちも保証されていないではない か。こんなことだから北の大地では薬莢を拾ってくず鉄業者に持っていく子供 が不発弾で死ぬのだ。そうだ、社会構造がおかしいに決まっている。そんなこ んなの怒りに任せ、目の前の机に容赦のない八つ当たり チャイムが鳴った。爽萌の号令で全員が立ち、礼をし、教室から出る。机は 奇跡的に不当な暴力から保護され、山口弘子は奇跡的に恥ずかしいところを見 られずに済んだ。さて、 もう逃げようもない。 中身以上に重い袋を持って教室を後にし、更衣室に入る。体育の授業までは あと八分。 「ひろ、もしかして今日、あれの日? 」 隣で着替えていた同級生が耳元でささやく。いくら女子更衣室であれ下着だ けで身を寄せてくるな、と思いつつも返事。 「そう、あれ。ほんと憂鬱っていうか」 あれ。 女の子が二人で指示語を使うと非常に秘密っぽいのだが、現にこれは第一級 機密のお話である。ため息をつく二人の目線が交差する場所には体操服に着替 える生徒がいて、それだけを見るととんでもない世界に入っていきそうな感じ ではある、が 「ま、あきらめなさいって。黙っていればちょろいもんよ」 目の前を通り過ぎていく長髪の生徒の後ろ姿に二つのため息が当たる。 「とちばん、ねえ」 とちばん。それは三年七組の女子生徒の間だけに伝わる麗しくもなんともな い血と汗の結晶の行事である。「とちばん」は主に体育の授業のように、相手 を必要とする行事で発動される。発動権を持つのは爽萌一人だ。拒否権は誰に もない。「とちばん」に任命された生徒は「なぜか」小桜とペアを組むことに なってしまう。当然であるが創設者は爽萌であり、一見ランダムに見える「と ちばん」予定表は爽萌の胸先三寸でできている。 栃内さんの担当当番。名づけてとちばん。命名者の感性を疑いたくなる適当 なネーミングだが、その適当さからは想像できないハードな仕事である。クラ ス内の問題に教師が一切介入しない現状ではかえってこういう知恵の出し合い と妙なリーダーシップが発揮されるものだ。クラスの中で浮いてしまう小桜を 何とかするための当番であるが、実は別に小桜の相手をするだけならばさして 大変な仕事というわけでもない。なんだかんだ言っても小桜は基本的には礼儀 正しく、柔和であるからだ。 ではなぜこれほどまでに「とちばん」がため息を持って受け止められるか。 一つには小桜の身体能力がずば抜けてよい、というところにある。小桜は基 礎体力特級保持者だ。長距離走では十キロを三十七分で走り、ハンドボールは 測定オーバー、バイアスロンの国体では陸軍の冬季戦技教官を抑えて三位。ど こにそれだけのものが詰まっているのかは誰もわからないが、軍人の体力検定 一級に相当する筋力と持久力、そして集中力を兼ね備えている。並みの体力の 持ち主では小桜の相手なんて絶対に務まらない。そして、もう一つの理由は、 と。 山口弘子の数える気にもならないため息の先に小桜が現れる。 長い髪が涼しい風に揺れ、半袖からのぞく白い腕がほどよく細い。半パンか ら出た足なんて古代の彫刻みたいだ。 あ、こっちを見た。 端麗な素地に少し物憂げで夢を見ているような表情が宿ると女だって一目惚 れする。 でも。 山口弘子はあくまでもノーマルなので絶対に恋に落ちない。腹に力を入れ、 小桜に笑いかける。ぎこちない笑顔に対して柔和な、それだけを見れば枯れた 老人ですら恋に落ちそうな笑顔が小桜から溢れる。最近の小桜はよく笑う。そ の笑顔だけで人生を祝福された気分だ。だが、決して騙されてはいけない。あ れは小桜だ。あの小さな身体に燃えるような思いを秘めた栃内家の小桜だ。 実のところ、「とちばん」が嫌がられる理由は小桜本人の責任ではない。今 でこそ小桜が二年生の時に起こした事件の影響で表立ったものはないが、かつ ては一部の男子生徒のいやがらせにまきこまれることがあったからだ。そして 「とちばん」の生徒は小桜に万一があれば責任を取らされる。 もし万一、小桜に対する暴行があった場合、身を挺して小桜を守れ。爽萌は そう言う。 正直勘弁して欲しい。 小桜が暴力事件を起こしたとき、学校に働きかけて処分を決めたのは誰だっ たか。生徒四名に濡れ衣を着せ、事実上の退学処分に追い込み、小桜を無罪放 免にしたのは爽萌ではないか。何かあれば爽萌は即刻級友の首くらい切る。 そんな重責を自他共に普通だと認められる生徒、山口弘子が背負うのは難し い。正直栃内とか橘とかどうでもいい。どうでもいいが、自分の学籍を賭ける のは勘弁願いたい。 今日は体育館でバスケットボールの練習だ。クラスのまとめ役である爽萌が 「適当」に場所を割り振り、体育教師の代わりに練習を指示する。 というわけで小桜と山口弘子は二人組みで体育館の隅を使うことになった。 山口弘子は小桜に弱くパス。それを受け取ってボールと同じ程度に弱く笑い、 小桜がパスを返す。が、普通の生徒である山口にそのボールを受け止めるだけ のパワーなんてない。当然のごとくボールは山口弘子を外れ、入り口へと転がっ ていく。 「あ、山口さん。ごめんなさい。私、取ってきます」 「そ、そう。じゃ、よろしく」 あいまいな笑顔を山口に向けた瞬間、横をとんでもないスピードで走り抜け ていった小桜。思わず漏れるため息、と。 小桜の背中が体育館の入り口で止まり、 何かに動かされるかのように視界から消えた。ボールを追いかけているので はない。何か別のものに突き動かされているらしい。 山口は考える。今、小桜の走っていった方向に何があるのか。 校舎裏。絶対に触れてはいけない花壇。 結びつくのに時間はかからなかった。 ものすごく嫌なものがこみ上げていた。反射的に小桜の後を追う。やめてお けばいいのに、それでもどこから来るのかも分からない使命感に突き動かされ るがごとく、駆ける。 瞬間。 甲高い悲鳴ともなんともつかない声が聞こえた。 その短い悲鳴に覆いかぶさるように男の声が二、三、四。 間違いない。小桜の声は聞こえないが、その場所で、校舎裏で何かが起こっ ている。頭の中の「逃げろ」という言葉を無視して校舎裏に身体を向ける。 視界に飛び込んできたものに息を呑んだ。 一人の男の横たわった姿と、三名に取り囲まれ、身体を壁に押し付けられた 小桜がいた。口を一人にふさがれ、両手を計二人で押さえつけられ、それでも 遠目にすら分かる小桜の鋭すぎる視線が男を捕らえている。それは、あの柔和 でボールを逸らしてしまっただけで泣きそうになる小桜からは想像もできない ほどの気丈さと、残酷さに溢れた目だ。こんなとき、小桜が何代も血を重ねて きた名家の出身であることを嫌ほど思い知らされる。そういや噂で聞いたこと がある。栃内家は血の濃さを大事にするあまり、近親婚でさまざまな異常を持 つ人間を生み出してきたと。小桜の学力の高さも、そしてたった一人で男子生 徒四名を重傷に追い込んだあの強さも、全部栃内という血がそうさせるのだ。 山口はそう信じ込む。あの小桜ならどんなピンチだって魔法みたいな力で切り 抜けるに違いない。 山口の知る噂はある程度事実ではあるが、小桜が一人の女子生徒であるとい うのも事実だ。身体を計三人がかりで押さえつけられた状態から力技で勝つの は難しい。 男が小桜の足を数回、強く蹴る。次いで押さえつけられた小桜の腹部が踏み つけられ、身体が二つに折れる。 山口は悲鳴をあげそうになったが、実はそれが小桜流の身のかわしかただ。 そうとは気づかず、更に追い討ちをかけようと男が手を振りかざす。 小桜の身体が再び動き始めたのはこの瞬間。勝利を確信し、油断した男の足 を掴んで引き倒す。反動で小桜が立ちあがり、あっけに取られる男の鳩尾に拳 を決める。一発で沈めた。 戦局は一対二。依然圧倒的な不利ではありが、小桜は腰をかがめ、即座に臨 戦態勢を維持。すかさず残り二人に飛び掛る。 善戦はその三十秒だけだった。 当然の結末が訪れた。小桜は再び地面に組み伏せられる。完全に身動きを封 じられた小桜は目を見開く。男の一人が花壇の一角に足を踏み入れ、植物を踏 みにじる姿を脳裏に刻んでいるのだ。 それも長く続かない。小桜は男に頭を蹴飛ばされ、目を閉じる。それを機に、 小桜はすべての動きを止めた。勝敗は完全に決した。 山口はようやく我に帰る。そう、これは「とちばん」としては最悪の状況だ。 出来ることといえば爽萌を呼ぶくらいか。山口がその思いつきを実行できるま でに更に十秒が経過。ようやく動き出した足がまたしても止められたのは次の 瞬間だ。 悲鳴が聞こえた。断じて小桜のものではない。さっきの男たちのものだ。 体育館に向かいかけた足をもう一度校舎裏に向ける。そこには相変わらず動 きを失った小桜と、小桜の小さな身体を押さえつける男子生徒、 ではなく。 作業服の男がいた。 作業服の男が小桜を襲った男とけんかをしている。 違う。けんかではない。それは一方的な攻撃だ。小桜が機動力に優れた戦闘 機であるなら、その男は固定された重火力砲に似ている。下半身はほぼ動かさ ず、ほんの数秒で二人をなぎ倒す。 ものすごく格好良かった。 理由抜きに、それはただ、素敵だった。恐怖でもなんでもなく、ただ声もで なければ身体も動かない。見とれていた山口の肩を誰かが叩く。 爽萌だ。 「橘さん。あの」 「状況はわかっています。栃内さんを保健室へ。警備員へは私が呼びました」 その言葉に身体を反射的に反応させた山口は小桜の元に駆け寄る。相変わら ず身動きすらしない小桜の肩を抱き起こし、保健室へと向かう。 千秋には爽萌が近づいた。 「お待ちください」 騒動現場から離れようとした千秋に爽萌は強い言葉を投げる。 「どなたか存じませんが、三年七組の代表としてお礼申し上げます。級友を助 けてくださり、ありがとうございます」 爽萌が他人行儀なら、千秋はそれに応じようともしない。 この騒動を起こした張本人、それはどう考えても爽萌で間違いない。 「あら、無視ですか」 「爽萌、あのな」 千秋は爽萌に向き直り、一気に距離をつめる。 踏みつけられたときの小桜の姿、踏みにじられた花壇の様子。いろんなもの が頭を駆ける。それは、どんな理由があろうとも許せるようなものではない。 爽萌の襟首を掴み、壁に押し付けた。 「どういうつもりだ、爽萌」 今、千秋の頭の中には残酷なものが流れている。 「昨日予告した通りです。ヒロインを襲わせるって」 爽萌は小桜ほど力の強い人間ではない。自分よりはるかに身体の大きな千秋 の構える拳は命の恐怖ですらある。それでも強がる。 「爽萌、食いしばっておけ」 言い終わると同時に爽萌の頬を拳で殴りつけた。爽萌が地面を二回転。 「小桜に謝っておけよ」 それだけ言って足元に倒れこんだ爽萌に手を差し出す。 「いえ、あれだけでは済みません」 「あれだけで済ませるんだ。これ以上小桜を傷つけさせない」 「……相変わらず愚かですね。今日のは単なる余興です。このイベントは本来 予定していなかったものです」 「どういう意味だ」 「分からなければ結構。ですが、花壇を守ろうという千秋さんと小桜さんへの 代償はこれから差し上げます。そのとき、千秋さんは私を殺したくなるほどに 憎むでしょう」 そう、今回の騒動千秋と小桜の仲を取り持つ以外の意味はない。ほんとうの 代償はずっと先に用意している。 「……なら未来の分もついでに殴っておくか」 千秋は身体の力を抜く。さっきの乱闘で落とした自分のヘルメットを拾い、 「何を?」 爽萌の頭に乗せる。 「殴るんだ」 上から思いっきり殴りつけた。ヘルメットの上からでも衝撃に耐え切れなかっ た爽萌は再度尻餅。 「さて、これで終わりだ。こっちだって仕事中だし、用事があるなら放課後に してくれ」 千秋は爽萌の頭のヘルメットを取り返し、背中を向ける。 「千秋さん。壊された花壇を直してあげてくださいますか」 その背中に爽萌は問いただす。 「当然だ」 「これで、自分の職を賭けるくらいには乗り気になっていただけましたか」 再度問いただす。 「……ああ、ようやく、な」 「では、今日のイベント達成率は十割ですね」 爽萌も千秋に背を向ける。 「……そうだ、俺からも二つ、言わせろ」 「どうぞ」 爽萌は無言と背中で答える。 「俺は、小桜のことが好きだ。ようやくわかった。仕事の一つや二つ、賭けて もいい」 小桜のことを好きだと告げる千秋の声。爽萌が身体を張ってまで欲していた その言葉。 計画は完璧だ。完璧すぎて涙が出る。その涙だけは世界の誰にも悟られては いけない。 「もう一つ。俺、爽萌には感謝してるぜ。ありがとうな」 このタイミングだけは反則だ。爽萌は心の中で毒づいて 「下賎の人間の感謝など、鬱陶しいだけですから」 強がりですらない拒絶を送った。 「それでも俺は爽萌のことも好きなんだが」 「っ……さっさと仕事に戻ってはどうですか」 「ん。じゃあな」 千秋が歩き去った。 涙が溢れた。そう、この結末を爽萌は望み、願い、そして手に入れた。 |
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