午後六時。小桜と過ごした落ち着きを引きずったまま、作業を終える。今日 の仕上げは学校の施設課での説明だ。今後の作業工程の打ち合わせもあれば作 業の進捗状況もある。 「期限は予定通りです。それでこれからですが、重機の搬入と資材置き場がこ れから」 千秋は自分を造園屋だというが、実際は違う。植物園とはいえ、普通のビル 三階に相当する建物を造るのだから建設業の方が正しい。 「お疲れ様です。ではこれからの話ですが、私から一つ、よろしいですか」 施設課の壁に背中を預けて立っていた男が口を開く。施設課には頻繁に足を 運ぶ千秋だが、その男を見たのは初めてである。少々すわり癖の目立つ背広に ノーネクタイ、年の頃は四十といくつくらい。体格の良さはそれだけで人を威 圧できる。千秋はそこまで推測し、体勢を整える。 「えっと、どちらさんで」 「この学校の生徒対応をやっております近藤です」 「はあ、初めまして。千島と申します。生徒対応の先生、ですか」 近藤にとってはほぼ毎日観察してきた相手である。 「一般に言うところの生徒指導のような役職ですよ。恨まれ役、ですね」 生徒対応。教師等による生徒内問題への不干渉という大原則のあるこの学校 ならではの名前である。 「それで、その生徒対応の先生が私に何か」 まさか隠れて吸っているタバコのことではあるまい、と思い直す。 「実は私、栃内小桜という生徒の校内不法占拠問題を担当しておりまして」 この場で小桜の名前が出てきたこと、そして不法占拠という言葉。千秋は二 つの驚きを無表情で隠す。 「不法占拠、と申しますと」 千秋は敢えて「栃内小桜」という言葉に対する驚きを後回しにする。近藤も 敢えてそのことには突っ込まない。 「校舎裏に存在する花壇のことです。実はあの花壇、当校の栃内小桜と言う生 徒が勝手に作ったものでして、これまでは黙認してきました。しかし植物園設 営のためには無視できない問題です」 理屈は正しい。千秋は突然の状況の何も対処できない。 「ですが、あの花壇は貴重な」 「資材置き場の件ですが、栃内の不法占拠している花壇を取り壊すことで対応 していただけますか」 「……ですが、現に」 「まあ、確かに難しい話でもあります。かつても栃内は花壇が破壊された際に 傷害事件を引き起こしていましてね、千島さんにはくれぐれもご注意願いたく」 「あの、今の話では栃……女子生徒が」 「ええ、思い切った行動に出る可能性があります。これは昨年のことですが」 小桜の起こした傷害事件を告げる。四人の重傷者と退学者を出した事件だ。 「あの……あの栃内が」 「面識がおありで?」 近藤は意地悪に聞き返す。千秋は何も返さない。 「警備の増援が必要であればいつでもご連絡ください。民間警備員は常駐して います。それではよろしくおねがいします」 近藤は一礼して施設課の扉を出る。 千秋だって社会人だ。雇い主の言葉は法令に反しない限り絶対である。しか もこの場合、近藤の話を鵜呑みにすれば悪いのは小桜だ。頭では分かっている。 ここで断って今の仕事をふいにしてしまうと生活が成り立たないという現実だっ て分かっている。 衝撃を引きずった千秋が帰途につく。その帰り道。 携帯電話が震えた。見知らぬ番号に一呼吸、受話ボタンを押した。 「千島さんですか。どうせ暇でしょうけれど、少しお時間をいただけますか」 声は、そう告げた。 時刻は午後九時。電話に操られた千秋は延々と国道を歩かされ、駅前のラー メン屋の前に立っていた。 「で、何の用事だお前」 隣を見る。長い髪に引き締まった顔に尖った顎。美人と言うよりは麗人だ。 「お前ではありません。私には爽萌という名前があります」 爽萌である。髪を手で梳き、赤いテーブルに肘を下ろし、こっちが泣いて許 しを乞いたくなるほどの笑顔を向けるあたり、さすがはお嬢様である。 「なんだよ。『さやめ』と呼べってか。アホらし」 そういいながらも自分が千秋などと名前で呼ばれていることに気づいて顔を 赤くする。 「別に『さやちゃん』と呼んでくださっても結構です。昔は私もさやちゃんと 呼ばれていましたから。ただし、その場合は『ちーちゃん』と呼ばせていただ きます」 千秋が凍る。いくらなんでもちーちゃんは勘弁して欲しい。 「……精一杯『さやめ』と呼ばせていただきます」 「ありがと、お兄ちゃん」 鼻からお冷を吹いた。 「おま……爽萌は俺を悶え殺す気か」 「もしかして妹が欲しかったんですか?」 爽萌が詰め寄る。被害者は千秋のはずだが、傍目に見ていると爽萌が正義の 味方のように見える。 「確かに妹は欲しかった。けどな」 「私は千秋さんのような兄に恵まれたかったと思っています」 「……そうか」 「それで妹にするなら私と栃内さん、どっちがいいです?」 「そりゃ爽萌……って答えさせるな。俺は」 「なるほど。私を妹にして栃内さんを恋人にする。なかなかいい選択肢だと思 います」 「い い か ら 黙 れ」 いい加減呼吸困難に陥りかけた千秋が目尻を痙攣させながら言い放つ。 「冗談です。少し沈んだ顔をしていたので、元気づけに。千秋さん」 名前で呼び合う部分だけは冗談ではないらしい、そう理解する。 「さて、本題に入りたいと思います」 「待て。どうして俺の電話番号を知っているのか聞かせてくれ。俺は栃内にも 電話番号なんて教えていないはずだが」 「千秋さん程度の個人情報、私にかかれば裸も同然です」 「はいはい俺は庶民未満だ。でもな」 「ちなみに千秋さんの基本的人権、とっくの昔に失効しているみたいですね。 兵役拒否で失踪なさって」 爽萌はさらりと告げるが、実は犯罪の告発でもある。そんな簡単に調べられ ることでも、分かることでもない。 「よく調べたな」 「実はそのことでまず。千秋さんの今の住所、空軍の警務隊が把握したようで す」 千秋が凍る。警務隊が把握したということは逮捕、実刑は免れない。今爽萌 が告げた言葉が事実なら、その内容は聞き捨てならない。 「……なぜだ」 「栃内さんが千秋さんを軍隊に紹介したからです。あの子、千秋さんを軍の将 校として任用させようとしたんです」 警務隊と逃亡と軍の将校、そして小桜。それら全てを知っている爽萌。千秋 の中では何もかもが繋がらない。 「どこから質問していいのか分からないが、まず栃内がなぜ軍隊なんだ。それ に俺を」 「栃内さんはこの国でも筆頭に位置する資産と権力を持つ栃内家の一人娘です。 ご存知ありませんか?この地方の首長の名前、表に出ているだけで空軍と海軍 の将軍クラスに栃内という苗字を見たことはありませんか。今の中央銀行の総 裁の名前、ご存じないですか」 千秋は少ない知識を動員する。そういえば、知っている。 「栃内小桜さんは栃内家の次期当主です。おそらく高校を卒業すればその任に つくものだと予測されています。本来なら栃内さんはあなたが会えるような人 ではありません」 「……栃内、が」 「当然軍にだって知り合いはいくらでもいます。一人や二人将校を口利きで任 用させるくらいは楽勝でしょう」 「でもどうして俺をわざわざ軍隊なんかに」 「栃内さんもですが、私も結婚が決まっています。例えばもし、千秋さんが将 来有望な軍隊の将校であったとします。ならば私は千秋さんと結婚したい、と 意志を示すことも可能でしょうね」 千秋の頭は混乱の極致だ。 「意味がわからん。というかなぜ俺が爽萌の結婚相手になってんだ」 「本気にしないでください。私にもそのつもりはありませんし、あくまでもた とえ話です。私は千秋さんを心憎からず想っていますが結婚の意志はありませ ん」 「結婚云々はともかく、栃内は俺に何らかの地位を与えたい、ということか」 爽萌は千秋の頭の回転に目を見張る。 「理解が早くて助かります。万一千秋さんが捕まるようなことがあっても現状 では心配要りません。栃内さんが千秋さんの味方である以上、安全と自由は保 障されています。栃内さんなら法令ですら捻じ曲げます」 その言葉が冗談でもなんでもないことを千秋はまだ知らない。この期に及ん で近藤の言葉も、爽萌の言葉も信じられないのだ。 「栃内について聞きたいことがある。花壇のことだ」 「私の二つ目の話も花壇のことなのですが、どのようなことで?」 爽萌が軽く受け流す。 「栃内がその、花壇を壊されそうになって暴れたって話だ」 千秋が今日告げられた事実。未だに信じきれない出来事。それが否定される ことを千秋は切望する。 「脳挫傷に大腿骨と肋骨骨折で四人を重傷、退学に追い込んだ。それが栃内さ んの戦績です。あの子、持久力と集中力はずば抜けているんです」 千秋は黙り込む。 「栃内さんは特別な血筋の人です。政治的にも経済的にもこの国を動かす人で す。私と同じ年齢でありながら、私には到底できない冷静かつ冷酷で的確な判 断。それを行使する実力。信じられないかもしれませんが、栃内さんは平気で 他人の命を見捨てるような判断を下すことがあります。花壇の話はその一端で す。ですから、栃内さんには友人がいませんでした。千秋さんは信じられないで しょうが、あの子、これまで笑ったことすらなかったんです」 爽萌が語る。 「栃内さんが笑うようになったのはこの春からです。栃内さんが千秋さんを軍 隊に推薦した真意、分かっていただけますか」 顔を合わせれば冗談ばかりの爽萌だが、その瞬間だけは誰よりも本気だった。 ここ数週間で変貌した小桜のこと、変貌させた千秋のこと、そして自分の思い。 いろんなものが積み重なる。 「俺には分からねえよ」 いや、千秋にもある程度はわかる。当たり前だと思っていた小桜の笑顔。小 桜と言う人間の地位とその血筋。小桜がなぜ千秋を自分に近い地位に引き上げ ようとしたのか。 簡単だ。 そうしないと話し合うことすらできないから。 「……千秋さん、分からないことは罪ではありません。ただ愚かしいだけです から」 「存分に憐れんでくれ」 千秋が返す。 「……あら、誰かと思ったら産廃未満の健康低能青年ですか。まだ生きていた とは母なる地球ですら恥辱を感じるほど痛恨の極みです。ロープと樹海はお恵 み申し上げますからその薄汚い首を洗ってせめても大地を汚さずに地面に帰り なさい」 「いや、憐れみと罵倒は違う」 「冗談ですよ、千秋さん。私は千秋さんのことは嫌いではありません。ところ で勝負をしませんか。勝ったほうが負けたほうに一つだけ命令できるってこと で」 突然の話題転換だ。こういう場合、話に乗ったほうが負けると決まっている のだが、勝負事を千秋が受けないはずもない。 「どんな勝負だ」 「中身を聞くなんて男らしくありませんよ。それに焦らなくてももうすぐ来ま す」 その瞬間、いかつすぎる男の腕が二人を遮った。 「お待ちっ。ラーメン三千メートル二つ」 ラーメンが来た。ラーメン屋であるのだから当然である。 解説しておくとここでいう三千メートルというのは辛さの単位であり、五百 メートル増えるごとに倍数が大きくなるということになっている。三千メート ルとはいわゆる六倍に相当する。簡単に言えば、結構辛い。 「早食いか」 千秋の目が光る。 「そう、早食いです。受けてくれますね」 爽萌の胸が反る。 「わかったが、いいのか」 「自分の心配をなさったほうがいいかと」 早食いである。どう考えても男である千秋の勝利が決まっているようなもの だ。それでも勝負事には全身全霊をかけて望むのは千秋流だ。 「じゃ、行くぞ」 「はい」 箸を割り、濃厚なスープに突っ込み、とりあえず麺を持ち上げ 目を疑った。 真正面に座っている爽萌が猛烈な勢いで麺をすすっているのだ。 「な」 ありえるはずがない。六倍の辛さ、沸騰寸前のスープ。熱すぎて火傷するに 決まっている。だが、爽萌はまぎれもなく丼鉢を傾け惚れ惚れする勢いで麺を 放り込む。 よく見れば熱いはずのそのスープの中に白い物体が浮かんでいた。 「爽萌、お前、何を」 爽萌は答えない。千秋が箸を止めてどんぶりの中をのぞく。 氷だ。 おかしい。湯気を立てる丼の中に浮かぶにはあまりにも異質だ。 まさか、千秋は思い当たる。 今ここで氷を用意する方法はたった一つ。出されたお冷をどんぶりの中にひっ くり返すことだ。当然スープは冷めて水っぽくなる。普通そんなことをする奴 はいない。が、考えろ、これは真剣勝負だ。しかも勝ったほうが負けたほうに 指図できるというおまけつきである。爽萌ならやりかねない。千秋は念のため 爽萌のグラスを覗く。 爽萌の分と、千秋の分。二つのグラスがすっからかんになっていた。 ……やりあがった。 唇を噛む千秋と悠然と微笑みさえ浮かべる爽萌。その微笑に千秋は心地よい ものすら感じる。 温いだけのラーメンなど絶対おいしくないはずなのに、それでも爽萌はただ 勝利のためにお冷をスープに混入する。そのあまりにもあまりな光景に、豪快 すぎる食べっぷりに、情けも容赦もない勝利への執念に呆然とする。そして 「食べ終わりです。私の勝利ですね、千秋さん」 開始一分。爽萌が顔を上げた。 食べ終わったくせに満々とぬるいスープをたたえるどんぶりを目の前に微笑 む爽萌。ため息交じりの千秋は食事を続けながら 「ああ、確かに、お前の勝ちかもな」 現時点での己が負けを認めた。 「では千秋さん。一つ命令させていただきます」 麺を口いっぱいにした千秋がその言葉を仕草だけで受ける。 「栃内さんは千秋さんを好きなんです。だから万一の可能性にかけて千秋さん を軍隊に推薦した。今更不可能な話ではありますが、栃内さんの夢にほんの少 し付き合って欲しいんです。そこで一日、千秋さんの時間をいただきます」 千秋は残ったスープを飲み干しにかかる。 「わかった」 「なら」 千秋がそこで爽萌を制する。 「待て。ラーメンの早食いはスープまで手をつけないと終わったとは言わない。 というわけで俺の勝ちだ」 すっからかんの丼鉢を爽萌の前にかざした。 「はい? そんなの」 「ま、裏技だ。というわけで俺からも命令させてもらう。爽萌」 千秋が立ち、荷物を肩にかける。 「栃内の花壇。俺は爽萌の計画が間違っているとは言わない。確かに不法占拠 しているのは栃内で、それを認めさせるには何らかのデータを示す。いい考え だと思う。でも、遅すぎるんだよ、学校祭が。このままいくと発表が終わる前 に花壇がなくなる。俺が壊すことになる。爽萌、お前最初からそれくらい、わ かっていたんだろ」 「……ええ」 千秋の読みは鋭いが、爽萌はそれでも次の出方を窺う。 「爽萌の計画をしっかりと説明しろ、とは言わない。俺は全力を尽くすと約束 したからな。だからこれは俺からの命令でもなんでもない、お願いだ。栃内の 花壇と、それから栃内のこと、どうかよろしく頼む」 それが千秋にとっての最大限の譲歩だ。 「ええ。命令されるまでもなく」 だから爽萌も誠意を持って答える。最初からそのつもりだ。そもそも、千秋 がいなければこの計画は成り立たなかった。 「爽萌。ありがとな」 言葉はそれだけを残し、きっちり二人分のラーメン代を置いて元来た道を引 き返す。爽萌が千秋の背中を見ていることには気づかない。 |
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