細葉妙子自称三十歳保健室勤務養護教師は背中に季節はずれの汗を浮かべる。 暑いからではない。 冷や汗、というやつである。 太古の昔より保健室は生徒の相談窓口である。切った張ったのやばい相談か らほのかな恋心の行方まで、どんな情報も簡単に入ってくる。ベテランの細葉 妙子はたいていの相談なら軽くいなせるし、ツケで何とかしてくれる医者を紹 介してやれるほどのコネもある。 そんな百戦錬磨の養護担当教師がなぜ冷や汗をかくのか。 理由は細葉が単なる養護担当教諭ではなく、この学校の生徒相談対応、すな わちスクールカウンセラーであることにある。 対象は小桜一人。細葉は非公式ながら小桜専属のカウンセリングを任されて いる。 小桜は二年生のときに起こした事件で直接の処分を受けていない。その代わ り月に一度、細葉との面談を義務付けられている。正確に言うと細葉が義務付 けられているわけであり、小桜にはその権利があるだけなのだが。そして本日 は面談日である。細葉が頭を抱えたくなるのも頷けるわけである。いくら小桜 が問題を抱えた生徒といっても栃内家のご令嬢だ。万一のことがあれば細葉の 首くらい一瞬で吹き飛ぶ。 栃内小桜。身長平均以下、体重普通、成績優秀、基礎体力は外見からは想像 もできないが特級保持。普段は温和、そしてここ一番では厳格かつ冷徹。友達 は皆無。細葉は本気で思う。もし、小桜が栃内という家を背負っていなければ 、単なる女子高校生として生きていくことができていればどれほど幸せだった だろう、と。 「先生。こんにちは」 入り口に声が響く。小桜だ。扉を閉めて一礼。その行動一つ一つが嫌味でな いほどに洗練されている。この上っ面だけを見れば誰もが心を許してしまいた くなる。 「栃内さん。三年生に進学、おめでと。じゃ、定期的なものだしさっさと済ま せましょ」 「はい」 細葉が椅子を引き、冷蔵庫から水筒を取り出す。 「駅前にできていた洋菓子のお店で買ってきたんだけど、どう?」 「ありがとうございます。ですが今日はできれば手短にお願いします。その、 面談の後に用事もございますので」 少し慌てた感じに答える小桜。途端に違和感に包まれる細葉。 あの小桜が「少し慌てた感じ」を見せるなんてありえない。小桜はこれまで 他人に対して一切の感情も私情も見せなかった。その表情にはいつも軽い拒否 を含み、全く取り合わないものがあったはずだ。言葉遣いとは裏腹に、小桜は 絶対に他人を寄せ付けない。それは細葉に対しても例外ではなかった。 「栃内さん。何かあったの」 細葉の口から爽萌と同じ質問が出る。だから小桜は今回はその質問に答える だけの余裕を持っている。 「先生、少し話を聞いてくださいますか」 小桜は身を乗り出す。驚くべきことはその小桜の瞳に真剣なものが宿ってい ることか、それとも細葉に話を聞いて欲しいと意思表示をしたことか。細葉は 義務感も倦怠感も放り出す。もう一度顔つきを見る。 「あの、先生」 「あ、ごめん、つい、ちょっと、ね」 細葉妙子自称三十歳、不覚にも生まれて初めて女に見とれてしまった。 それほどにまで小桜の熱っぽい視線は美しかった。 小桜の整った顔立ちは壊れそうなガラス細工が光り輝いているようだ。悔し いほどにきれいで、反則的なまでに脆くて、絶対的なまでに正しい。なぜ神が このような造形を小桜に与えたのか 「先生?」 「ん、ああ。ごめんなさい。続きをどうぞ」 小桜から話を振ってくるなんてめったとない機会だ。細葉は今度こそ全身を 耳にする。 「はい、恋愛について教えてください」 「は?」 「ですから、恋愛です。ご存知ありませんか?」 小桜が更に詰め寄る。 「あの、えっと、単語の意味くらいはわかっているつもりだけど」 「ならば教えてください。具体的には恋愛を成就させる方法について、です」 小桜の指の先は白ばむほどに強い力がこもっている。 「……教えてくれ、って言われてもねえ。そもそも成就って具体的に」 「はい、私の友人のことです。友人は男の人と知り合ってからとてもよく話す ようになって、ため息ばかりつくようになりました。それは、恋愛をしている と考えてもいいのでしょうか。その仮定が事実であるとするなら、成就させる ためには何が必要なのでしょう」 さっきため息をついていたのは小桜ではないか、そう突っ込むのはやめてお いた。せめてもの武士の情けである。細葉は考えをまとめる。 多分小桜は自ら定義するところの「恋愛」をしている。この際栃内家がどう のこうの、は横に置いておこう。無口で無感情で他人との接触を立ってきた一 介の高校生がようやく他人の心に興味を持ち始めたのだ。大いなる一歩じゃな いか。 事実は少し異なるのだが。 「栃内さん、まずはその友人の情況を詳しく」 あまり状況の分からない細葉であるが、とりあえず外堀から埋める作戦に出 る。 「はい。その方は最近元気がなくて心安らいでいないように見えます。私の知 る恋愛というものはもっと幸せなものなのですが。ですので、まずそれが恋愛 といわれるものなのかどうか分からないのですが……」 爽萌も大概恋愛というものに疎いが、小桜はそれに輪をかけて「分かってい ない」部類だ。爽萌は脳内経験を豊富にさせているが、小桜に至っては御伽噺 の世界に留まっている。ユニコーンが存在しないのと同じように小桜の世界に は恋愛なんてものは知識として存在しても事実としては存在しない。今、この 瞬間でさえ、形の上で決まってしまう結婚のことも当然のこととして割り切っ ている。だから、自分がなぜ細葉にそんなことを相談しているのか、それすら わからない。 「よくわからないけれど、多分恋愛なんじゃない、それが」 「根拠はあるのですか、先生」 「いえ、単なる経験則よ。あんまり経験ないけど」 「……そうですか」 小桜の声には覇気がない。細葉は続ける。 「でもね、成就させるって言ってもそんな方法があるなら私だって聞きたいく らいよ。どういう結果が成就かどうかもわかんない話だしね。成就しないから こそいい思い出って話もあるんだし。それより栃内さん。なぜお友達の恋愛を 応援してあげたいと思っているわけ?」 この時点で細葉にはある程度は想像がついてきた。 現在絶賛恋愛中の小桜は自分の感情の複雑さを理解できない。だからこそ、 その気持ちを他人にぶつけることでストレスを解消しようとしている。ならば 解決策は「誰でもできる恋愛術」ではなく、小桜に自身の気持ちに気づかせる ことではないか。 「それは、困っている人がいれば、その、助けて」 嘘だ。小桜は元来困っている人に手を貸すことなどない。貸すとするならそ れは社会貢献という名のもとに行われる栃内家の代表としての援助である。 「栃内さんはほんとうに友達を応援したいの?」 カマをかける。 「え、あ」 「ほんとうは自分のものにしたい、とか」 「いえ、そんな、それは」 細葉は小桜に顔を近づける。 「他人の恋愛がとか言ってるけどさ、栃内さんが好きなんでしょう?ならさ、 自分のものにしてみたくないの」 悪魔のささやき、だ。 「いえ、それは違います。確かに私もその方には興味があります。とても安ら いで落ち着きます。私が目標とするのに相応しい人です。ですが、私は至らな い点も多く、失望させることも多いと思います。ですが、そうすると……あれ、 私は何を言っているんですか?」 細葉は思わず笑う。あの理論家の小桜が混乱している姿なんてめったに見ら れるものではない。 「……いいなあ。若いって」 細葉が感想を一言。 「私にはわかりません」 「ねえ、横取りしちゃいなさいよ」 そして悪魔のささやき、再び。 「恋愛を過程として得るものもあるかもしれません。それは認めます。ですが 私は」 人生も結婚相手も全部決まっています。ならば不必要なことではないでしょ うか。そう続くのは明白だ。だから細葉は遮る。 「それでいいの?なんか味気ない人生ね、栃内さんって」 遮って挑発する。 「私の生き方が有意義かどうかは私の決めることです」 小桜がよりによってこの手の挑発にだけは絶対乗ってくることを見越しての 言葉だ。そしていともたやすく引っかかった小桜が強い意志を放つ。 「ま、寄り道も大切よ栃内さん。考えときなさい。それで、そのお友達……橘 さんよね。好きな相手ってどなた?」 橘爽萌。細葉は頭の中からデータを引き出す。 理事の姪、北東技工を統べる橘家の次期当主。学業、基礎体力共に小桜には 及ばないものの、その統率力は細葉の知る学生の中でもトップクラス。小桜が 腫れ物のような皇女だとするなら、爽萌は正真正銘のお嬢様だ。 「どうして橘さんだと」 「そりゃ、栃内さんと会話するのは私と橘さんくらいでしょ。ね、誰が好きな の?」 学校を代表する二人の好きな相手だ。どんなゲテモノが来ても耐えて見せる。 「それは、とても素敵な男の人です」 とりあえずホモサピエンスの男らしい。範囲が全世界の人口の半分にまで絞 られる。 「で、どこの男の人? まさか同級生なわけがないでしょうし」 もう少し範囲を絞りたい。細葉は期待を込める。 「はい、今植物園の工事をしている人です。名前は千島、千島千秋と」 小桜は即答する。言っている側から意中の人の顔でも思い出したのか頬が緩 んでいる。それは細葉が初めて見る小桜の微笑だ。 「ふうん……って工事をしているって、すぐそこでタバコ吹かしてた人?」 微笑に釣られて気分が和みかけ、それから驚く。細葉だってせいぜい若手の 将校か何かの名前でも出てくるのかと思っていた。それがまさかのブルーワー カー。しかも窓から見える位置にいるとは驚きである。 「はい。そこの窓を開ければ見えると思います」 造園屋とは予想外もいいところだ。別に職業をどうのこうの言うつもりはな いが、小桜くらいの人間になると、さすがに相手としてはどうかと思う。細葉 は操り人形の如く立ち上がり、機械的に扉を開けて外を見る。 千秋が、いた。 「……あ、千島さんっ」 小桜が窓から身体を乗り出し、手を振る。その顔は満面の笑み。千秋は一瞬 こちらに目を遣り、それから作業に戻る。 そんな様子を細葉は見る。 なるほど。小桜が笑顔を作るのもわからないではない。 別に造形的にそこまで優れた男というわけではない。せいぜい優れた体格に 作業服の似合うという印象くらいしかない。だが、真剣なまなざしを手元に注 ぐ姿は小桜が花の苗をもつ姿の良く似ている。確かに似合いそうだ。住む世界 は違えど、お互いに不器用で、新鮮な初恋にはぴったりだ。少なくとも家の事 情なんてもので諦めることを優先するのは馬鹿馬鹿しい。 「いい人ねえ。私もあと十年若かったら狙っているわ」 「だめです。千島さんは」 そこまで言ってから小桜は口を閉じる。当然細葉がそれを見落とすはずもな い。 「ん、『千島さんは』の続きは?」 顔を赤くして沈黙する小桜に意地悪く迫ってみる。なんだかんだいって小桜 は初心で夢見がちな女の子だ。 「いえ、先生には、その、他にも」 猛烈にかわいらしいが、これ以上つつくのは身の危険を感じる。 「栃内さん。悪いことは言わないわ。私は千島さんと栃内さんのこと、応援す るから」 「え、その、別に、私ではなくて橘さん」 「想像してみなさい栃内さん」 耳元で細葉が囁く。まさに悪魔である。 「あなたの好きな人が隣にいる時間。いつだってあなたを最優先にして駆けつ けてくれる人の存在。あなたが何をしても許してくれて、あなたは好きな人に 何をしてもいい……どう?」 細葉の吹き込みが小桜の頭をかき乱す。もはやまともな思考をできない小桜 は相槌だけを打つ。想像は無限大だ。 千秋が自分の隣にいて、困ったことがあったら駆けつけてくれて、わがまま を言っても許してくれて、何を命令しても聞いてくれて。そんな都合のいい話 があるか、と突っ込んではいけない。小桜をたきつけるにはちょっとやそっと の強引な手が必要なのだ。そして小桜はちょっとばかり、ほんのちょっとばか り「他人を好き勝手に振り回したい」という欲求がある。 「……あの、いろいろとはちきれそうな気分なのですが、相手の方はそれでい いと思うのでしょうか」 小桜の言うことはもっともだ。だが、細葉はさらにアクセルを踏む。 「いいかしら。栃内さんは恐ろしいほど魅力的。正直あなたが私の同級生でい たら殺意すら覚えるでしょうね。私が男なら栃内さんの言うことなんて全部聞 いてあげる」 「いや、別に、その、そのような趣味は」 「ないと言い切れる?」 「あ、その、攻められるよりは攻め込むほうが確かに好き」 「ならアプローチね」 別に細葉は小桜をからかっているわけではない。相談に乗ってやっているだ けだ。 「アプローチ、ですか」 小桜が更に身を乗り出す。細葉が思わず腰を引く。その薄い唇と少し薄い瞳 の色に心臓が高鳴ったからだ。思わずキスしてしまうそうだが、さすがに同性 とはいえ教え子の唇を奪うのはまずい。小桜ならその困り顔だけで密林のゴリ ラでも恋に落とすことが出来るだろう。 「とりあえず色仕掛けね」 「色仕掛け、と申しますと」 こうなった細葉を止められる人間は存在しない。 「まずは上目遣いで腕を取って胸に引っ付けるの。簡単でしょ」 そういいながら細葉が小桜の手を取り、自分の胸に引きよせる。 そのとき、保健室にくつろぎに来た女子学生は踵を返した。他言はしまいと 誓う。 「あの、先生」 バランスを崩した小桜が細葉の胸に倒れこむ。遠目に見ていると新世界が開 けてしまいそうな光景だ。千秋がいればそれだけで一年間は呆けることができ ただろう。 「いいかしら栃内さん。身体は何のためにあるの?」 「はい、身体は武器です」 ちなみに小桜の答は格闘技と勘違いしたものだ。が、細葉はそんなことを気 にしたら負けだと思っている。 「そう、よりよい武器を使って敵に勝つ。戦術の基本よね」 この場には突っ込み担当がいないので小桜は真面目に頷く。 「はい、それでさきほどのはどのような効果のある武器だったのでしょう?」 「……とりあえず男ならなんとかなる武器よ」 そのとき、保健室に仮病を訴えようとした男子学生は踵を返した。現実を知 らないでいる権利を行使する。 「あと、ちょっとくらいのわがままも効果的かもね」 細葉が思案顔で答える。 「わがままなんて嫌われます」 小桜の場合、通常の発言がわがままであることも多い。 「まあ大丈夫。栃内さんは十分に魅力的だし……お、だいたい時間だけど」 「え、もうそんな時間ですか。あの、私待ち合わせがあるんです。失礼します」 慌てて立ち上がった小桜はやる気に溢れている。どれほど駆け引きに長けた 小桜であっても細葉の前には単なる年相応かそれ未満の少女である。恋に恋す るお年頃であるのは避けられない。 「うん。結果、また聞かせてちょうだい」 「はい。これからもよろしくお願いします」 予鈴が鳴り、小桜が一礼して出て行く。その顔がほんの少し赤くなっていた ことは既にチャック済みだ。 さて。細葉妙子は扉に向き直る。 「立ち聞きは褒められないわよ、近藤先生。どうせあとで報告書渡すんだから」 後ろの窓が開く。のぞいた顔を一瞥。 「ばれていましたか細葉先生」 「最初からね。栃内さんがらみだし、どうせ来てると思ってたわ」 近藤が小桜の「不法占拠花壇対策」を務めていていることは細葉だって知っ ている。 「はい、栃内小桜の行動、言動は常に把握しておく必要がありますので」 これまで、近藤は小桜の花壇が荒らされないように監視を行ってきた。それ がここにきて小桜に花壇の撤収を求める立場となったわけだ。 「あんたも大変ね。仕事は順調?」 「私も単なるサラリーマンですから、言われた仕事をこなすまでです、が。こ こにきて少々やる気が湧いてきまして」 まどろしい言い方だが細葉には言わんとすることが分かる。近藤は現在、小 桜の花壇を積極的に立ち退かせる意向らしい。まあいい、細葉は思う。他人の 仕事にまで文句を言えるほどの立場ではない。が。 「で、栃内さんの恋の行方はどうなの」 「そこまでは存じません」 「あっそ」 そこで近藤は背中を向ける。 「……話に出てきた橘爽萌が動いています。万一の際には手を貸していただく かもしれません」 それだけを告げて近藤が去る。 「ったく、正直じゃないわね、どいつもこいつも」 つぶやくのは細葉一人である。 |
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