小桜の休日は忙しい。自らが役員を務める会議への出席から来客の応対、栃 内家の顔の代理として親族の前に立つこともある。驚くべきことは小桜がそれ らの椅子にただ「座っている」わけではない、ということだろう。特に小桜が 得意とするのは人事賞罰関係の議案の時だ。自分の花壇の話さえ絡まなければ 小桜ほど冷静かつ的確な判断を下し、人を諭すのに向いている人間はいない。 まさに栃内家の後取り娘として相応しい風格で人を威圧し、導き、振るい立た せる。と言うと小桜は社会経験の豊富な人間に見えるが、実際のところは年相 応の少女か、平均より世間知らずである。というのも旅行するにしても大掛か りとなってしまうため、家の外に出ることすら稀なのだ。小桜の世界は広いよ うで狭い。 さて、そんな小桜であるが、珍しいことに休日の今日、車のハンドルを握っ ている。向かう先は爽萌の家、つまり橘家だ。爽萌に呼ばれたからである。本 来ならどんな場合でも爽萌が栃内家に伺うべきなのだが、小桜は買い物のつい でという理由で橘家に車を進める。 「白石さん、ここまででいいです。ありがとう」 車両重量二トンと少し、車長六メートルに迫る乗用車が橘家の門の前に止ま る。これほどの大型車となると仕様は当然運転手に運転を任せるようになって いるのだが、運転席から降り立つのは小桜だ。傍目にはせっかくの専従運転手 を連れまわしているだけ、にしか見えない。 「では車のほうはどちらへ、小桜さん」 「はい、迷惑のかからない場所に回送しておいてください」 適当な命令に眉一つ動かさず従うのは栃内家の使用人、白石である。小桜を 唯一「小桜」と名前で呼び、また呼ぶように命令されている人間だ。栃内家の 勝手気ままな跡取り娘の世話役であり、お姫様の専従運転手であり、未だに寝 相の悪い小桜の上布団を掛けなおす役であり、小桜の予定を把握する優秀な秘 書であり、財産管理の補佐役である。彼は単なる飾りではない。どれほど理不 尽な要求があろうともお姫様のご意向に従い、この前のお弁当イベントの際に は買い物から仕込みまで手伝わされた。ちなみに雇い主は小桜で、給料の全額 を小桜の財力で支払っている。 「では後ほどご連絡を。小桜さん」 そう告げる白石の顔は若干明るい。最近輪をかけて意味不明の様相を呈して いたお姫様がようやく、まともな「友人」との交流に向き直ったから、である。 橘の家ならば我が仕えるお姫様の身も心配あるまい、そう思うだけで寿命が延 びる。 「はい、それでは行ってまいります」 どこまでも無邪気にそう告げ、小桜の後姿が爽萌の家に消える。 栃内家と比べて見劣りするのは当然だが、橘家だって豪邸だ。栃内家の池一 つ分と少し程度の敷地がある。手入れの行き届いた植え込みの間を縫い、玄関 先に立つ橘家の使用人に挨拶し、コートその他を預け、 「いらっしゃい、栃内さん」 「本日はお招きいただきありがとうございます、橘さん」 という会話をするまでに経過した時間は玄関をくぐってから五分と少し。傍 から見ると面倒くさいこの上ない儀礼の尽くしようであるが、小桜には当然の 礼節だ。 時は昼下がり。足の踏み場すら怪しいほどに散らかったその部屋は爽萌の自 室だ。 女の子の部屋、というものをご存知だろうか。簡単に説明すると二つに分類 することができる。こぎれいに片付いているか、果てしなく散らかるか。この 場合、前者は小桜、後者は爽萌に該当する。そう、爽萌の部屋は恐ろしいほど に混沌を極めているのだ。正直学校一の尊敬を集める人間の部屋だとはとても 思えない。決して狭くはない部屋だが、文字通り足の踏み場すら存在しないほ どに散らかっている。洗濯された服は上着から下着まで全部出しっぱなし、化 学実験室を思わせる怪しげなガラス器具が転がり、ガラスケースには土偶から 美少女フィギュアまでが詰め込まれ、銃剣から山刀まで多岐に渡る刃物コレク ションが開きっぱなしの引き出しからこぼれている。それだけでも大概だが、 床が見えないのと同じように壁紙だって地層の奥だ。年代物のビールのポスター から水彩画、果ては最新作のアニメのポスターまでが乱雑に留められている。 爽萌には基本的に物を捨てるという概念がない。加えて多趣味かつ広く浅くが モットーである。常人には理解不能な奇怪なとりあわせだが爽萌の中では整理 されているのだ。とかく女の子に幻想を抱きがちな男が見れば卒倒しそうだが、 心配することなかれ。爽萌が自室に通ることを許す人物は小桜だけだ。家族だっ て入室を許可しない。それが養子である爽萌の線引きだ。 小桜はヒトの細胞膜についての知見を紹介する英字の論文と巷で大流行のゲー ムを扇情的に紹介する情報誌に占領されていた椅子を発掘する。爽萌の淹れた お茶を囲むのにかかった時間は三十分。話は小桜と爽萌が共に席を持つ学生連 盟の打ち合わせに始まり、青年農業者団体の懲罰議案に移り、ようやく学校祭 の話が出る。 「じゃあ栃内さん。この書類で最後」 「はい、ここにサインですね。結構多かったです」 今日は二人で書類作成。爽萌がねじ込んだ学校祭での小桜の発表だ。ようや く一仕事を終え、片手に唐草模様の磁器を持ち、採光の行き届いた部屋の中で 優雅に笑うお姫様とお嬢様。 「よし完了っと」 「ほんとうにご迷惑をおかけしました、橘さん」 話しかけられた爽萌は一呼吸置き、フレンチ窓を介した外を眺める。 相変わらずの冬枯れに支配された外。あと二週間やそこらで桜が咲くことに なっているという予想が嘘みたいだ。 「気にしないでよ栃内さん。こっちだって言うのが遅くなったわけだしさ。ほ んと、急な話でごめんなさい。もっと早く気を利かしていればよかったんだけ ど」 「それは大丈夫です。今は千島さんがいますので」 これだ。なんとなくひっかかっているのは、小桜の全面的なまでの肯定と信 頼だ。これまでの小桜が自分の話に乗ることなんてほとんどなかった。あった としても疑いを隠さなかった。 小桜と爽萌はある意味よく似ている。お互い資産と権力を持つ家に育つ一人 娘。教育水準も生活レベルも、歩みも同じ。性格だって「孤高」という点では よく似ている。簡単に心を開くこともなければ計算なしで人付き合いをするこ ともない。高校を卒業してしまえば形の上だけだが結婚することも、だからこ そ友人程度の間柄すら他人に求めないことも一緒だ。 ならばこそ小桜の全面的な肯定に説明がつかない。小桜だって爽萌だって他 人を全面肯定することはない。そのはずだ。なのに今の小桜は目じりと頬の緩 んだ笑顔。その笑顔を当然のように受け止める千秋。 「どうだか、あの人」 「千島さんはいい人で間違いありません」 ため息。 そうだ。ここ数日で変わったことといえばそれしかない。 千島さん。どうやら全ての元凶はあの男にあるらしい。 千秋の顔を思い浮かべる。確かに千秋は爽萌がこれまで出会った人間の中で も魅力的な部類だ。適度な冗談と仕事に対する自信。内面だけではなく、外見 だってそれなりにいい。なるほど、小桜が信頼を寄せるのもわかる気がする。 ならば、爽萌は自問する。 私は、橘爽萌は千島千秋のことをどう受け止めているのか。 「いい人、ね」 つい、そんな言葉が口をつく。 「はい。私、千島さんは素敵な方だと思います」 爽萌の言葉に小桜が答える。その小桜の顔にもはや普段の理知的なものは存 在しない。代わりに宿るのは柔和な笑顔。思わず見とれてしまった目線を逸ら し、小桜は続ける。 「私は橘さんなら大丈夫だと思います」 「私?」 「はい。仲、いいですから」 「ふぅん……って私が?」 「はい、そうです」 絶対に赤くなった、そう思う。具体的な名詞すら出てこない会話、それだけ で感じたこともなかった昂揚を身体の中に灯してしまう。普段は豪胆を気取っ ている爽萌であるが、つくづく自分が箱入りだと思い知らされるのはこんなと きだ。爽萌から見れば劣情にすら近いそれは、受け入れるには程遠い。 考えてもみろ。自分と千秋と顔を合わせたのはわずか二十分間。これまでの 人生の四十万分の一未満の時間だ。が、よくよく考えてみろ、よく小説でヒロ インが言うではないか。時間の長さや付き合いの深さなんて関係ない、と。 アホらしい。自分が物語のヒロインになり得ないことくらい自分で分かって いる、爽萌はそう結論付けて唇をかむ。 「私はあんまり関係もないし、興味もないわよ」 「……そうなんですか?」 小桜が爽萌を見透かしたようなカウンターを返す。 「な」 「橘さんは千島さんのこと、お嫌いですか」 小桜の表情がどこまでも明るい。 「嫌いではないけれど、栃内さんはどうなのよ」 「千島さんはいい人です。何度も言っています」 「いい人なんて腐るほどいるわよ。どうでもいい人だっていい人に分類される わよ」 小桜は何も言わず、深く頷き、ポケットの中の発信器を押す。 「あの、橘さん、私はもうお暇させていただきます。明日、学校でお会いしま しょう」 小桜は話を切る。今日言いたかったことはここでおしまいだ。 「あ、もう帰るの。せっかくだし、こちらで夕食くらいと思っていたのだけど」 ありきたりな社交辞令を爽萌が口にした途端、お互いの顔つきがいつも通り に変わる。 「お心遣い、感謝します。ですが、所用のためお暇させていただきます」 「そう、残念ね。じゃ、玄関まで送らせてもらうわ」 小桜と爽萌が同時に立つ。空気は上流階級にありがちな穏やかなものに変わ っていた。穏やかな身のこなしで歩き、他愛ない話に花を咲かせ、長すぎる廊 下を玄関に向かう。待機していた橘家の使用人から預けていたコートを受け取 り、外に出た。 車が横付けされていた。 キーを受け取り、運転席に座る。 「白石さん。お迎えありがとうございます」 「いえ、偶然近くにいましたので」 お姫様のだいたいの行動を予想するくらい楽勝だ。 「帰る前に少しだけ買い物に付き合ってください」 「はい。了解しました」 白石は仕えるお姫差の顔を覗く。薄い、消えそうな微笑に満たされている。 上機嫌と見て間違いないだろう。 否。上機嫌を装っていると見て間違いない。 長年お姫様のご機嫌を伺っている身としては、そのいつもに増した笑顔が作 り物であることぐらいは一瞬で看破できる。尋ねられなければ何も答えないの が彼の信条ではあるが、さすがに気になり、隣でハンドルを握る美しい造形を 窺う。 「白石さん、どうかしましたか」 長年の付き合いというのはお互い様である。白石に小桜のことがわかるなら、 小桜にだって使用人のことくらいわかる。 「いえ、何も」 ごまかしたわけではない。質問が許されていないときに主人の体調と機嫌を 伺うような不躾なまねはできないだけだ。 「心配無用ですよ」 使用人の意志を汲み取る小桜。その声がほんの少し重みを帯びて清閑な車内 にしみこむのを聞き逃さない。 「そうですか」 それっきり、車内にはエンジン音が少し響くだけになった。 買い物に行くはずの車は郊外に出るための高速道路に乗り、加速する。白石 は何も言わない。お姫様の心変わりなど毎度のことだ。これくらいのことで何 も驚いていては命が続かない。相変わらず完璧な運転技術に感心しながらも、 高速機動警察ですら追えそうにないスピードで飛ばす小桜を心の底から案じる。 この速度では何かあっても守りきれない。 小桜は車をたっぷり一時間三十分飛ばし、岩だらけの海岸線の見える場所で 停車させる。運転席のドアを開けて海岸に降り立つ小桜の背中に白石がコート をかける。 時折波しぶきが顔にまで飛んでくる荒々しい海。冬そのものの海の姿だ。す ぐ近くに見える山峰もまだまだ雪化粧している。春はまだまだ遠いらしい。 小桜が立つのは岸壁の端、絶壁の上だ。いつ強風が吹いてバランスを崩して もいいように白石は絶妙な位置に陣取る。 「今、私の背中を押してくださいますか」 突然だった。強すぎる風に言葉が流されかけ、かろうじて聞こえた言葉だっ た。 背中を押してくれるか。 文字通りの意味ではないだろう。 ならば、それは小桜が栃内家から出る、という意味か。 「答えないのですか」 多分、ここで何も言わなければ小桜は容赦なく自分を切り捨てるだろう、そ れくらいわかる。 「はい、私の仕事は雇い主の意向に従うことですので」 一介の使用人にはそれ以上の感情など不必要。だからこそこれまで小桜と付 き合えたのだと思う。 「……今週の水曜日、空軍の北方師団長に会えるように調整してください」 強すぎる意志でそう告げた。 「了解しました……そろそろ戻りましょう。お身体にも」 白石が一歩、小桜に近づく。 「理由を聞かないのですか、白石さん」 相変わらず顔を背けたまま小桜が歩き出す。 「では、理由を伺います。なぜ、師団長に」 小桜は軍隊の女性要員支援会に席を持っている。加えて親族の多くが軍の内 部部局にて勤務している。軍隊組織と連絡を取ることは普通にありえることだ。 取り立てて聞くことではない。そう思っていたが。 「軍で士官級のポストを一つ用意できるかどうか打診したいのです」 その言葉で白石の顔色が変わった。 「それは、小桜さんが」 「いいえ。この国に必要な人材を紹介したいのです。橘さんには必要でしょう から」 背景はわからない。が、今の言葉だけで白石は類推する。 どうやらお姫様は誰かを非公式で軍人に推薦したいらしい。そしてその誰か は橘家の誰か、恐らくは爽萌に必要らしい。 「了解しました」 白石が告げる。それ以上は言葉など不要だ。主がそう命じた。もはや白石に 口を挟む余地はない。たとえそれが理不尽な要求であっても、最初から反論の 余地などない。 「なら戻りましょう。次こそ買い物もあります。乗ってください」 どこまでも明るく響くお姫様の声にわずかな笑顔を向けられる限りは。 |
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