千秋の知らない場所で計画が着々と進んでいた。 植物園の計画ではない。爽萌の計画だ。 その朝、小桜はいつも以上に早起きをし、いつも以上に気合いを入れ、いつ も以上に正確に車を運転し、いつもに反して教室の机に延々と陣取る。一歩た りとも動かないその背中は鬼人の如し。いつもに増して触らぬ神に祟りなしで ある。 触らぬ神が動いたのは昼休みのチャイムと同時である。授業そっちのけで足 元に置いた包みを担ぎ、飛ぶように走り、一階の廊下まで階段を二段飛ばしで 降りていく。掃除用具入れの物陰で待ち伏せだ。手には巨大な包み。爆弾を抱 えたテロリストのように標的までの距離を測り、呼吸を落ち着け、何度も繰り 返したシミュレーションを今一度思い浮かべる。 大丈夫。できることは全てやった。あとは本番のみだ。頑張れ、私なら大丈 夫。そう暗示をかけ、足首に力を溜め、 渾身の力で地面を蹴った。 「千島さんっ」 「ぐっ」 えげつない音と悲鳴が廊下に響き、一人の男が宙を舞う。 何が起こったのか。 千秋の顎に頭突きを食らわしたのだ。小桜の身体がそれなりに小さかろうと も、最大限のエネルギーがこもればそれなりの破壊力を示す。かくして千秋は 廊下の壁に吹き飛ばされ、床に叩きつけられる。状況がわかっていないのは小 桜と千秋、当事者の二人だけだ。 だからノーダメージの小桜が閉じていた目を開けたとき、飛び込んできた光 景は信じられないものだった。 「だ、大丈夫ですか、千島さん。いったい誰がこんな」 廊下に倒れた千秋の肩を掴んで揺らす。周囲に散らばる生徒は自爆テロの現 場なぞ誰も見たくないとばかりに視線を逸らす。 「ん……お、栃内か」 「はい、私です。栃内です」 小桜が千秋を助け起こす。傍から見れば抱き合っているようにしか見えない。 「すまん。なんか意識が飛んだが」 自分に身体を寄せる小桜に少し及び腰になりながらも声をかける。 「あ、私が通りかかると、その、千島さんが廊下に倒れていたんです。まるで 通り魔にやられたような感じで。お怪我はないですか」 ちなみに加害者は小桜だ。 「そうか、突然プロボクサーのパンチを食らったような気がしたんだが、栃内 は何もされていないか?」 「はい、大丈夫です……それでは、昼休みなのですが」 いい加減身体を離せというのは周囲の誰もが思っていることだが、敢えて口 に出すような勇者はいない。 「ああ、昼だな。栃内はどうせ弁当だろ。俺は今からパンでも買ってくるし、 いつものところで待っておけ」 付き合いの浅いくせに「どうせ」と「いつもの」で通じる二人の会話。 「え、あの、まってください」 立ち上がろうとした千秋を小桜が引き止める。 文字通り。 小桜が千秋の足を掴み、その場に引き止めたのだ。少なくとも小桜は「引き 止めた」程度のつもりであった。 結果、千秋は後々思うことになる。あのときの小桜の言葉「まってください」 は実のところ「待ってください」と「舞ってください」の二つの意味をこめた 高等なボケだったのではないか。 そう、その言葉のコンマ五秒後、千秋の身体は再び勢いよく宙を舞い、廊下 に叩きつけられた。勢いよく立ち上がった千秋にも、足を掴んでしまった小桜 にも原因のある見事な自爆と誤爆のコンボだ。華麗とすらいえるほど大胆に顔 面からこけ、見事な衝突音をひびかせる千秋。もはや好奇心旺盛な人間ですら 目を覆いたくなってくる。 「ごめんなさい千島さん。その、大丈夫ですか」 小桜は地面に突っ伏したままの千秋に顔を近づける。 「心配するな。俺は頑丈だ……多分」 「でも擦り傷が」 「擦り傷で死んだ奴はいない。舐めれば治る」 「では直ちに」 「いや、別に舐めなくていいからな、栃内」 「……はっ。どうして私の行動が先読みされて?」 「一応友達だから、だろう」 ここまで来るとむしろ夫婦である。 「あ、ところで私、千島さんに用事があります」 小桜が拳を固くし、千秋がその顔を覗き込む。 そう、そもそも小桜が朝から気合を入れまくっていたのはこの瞬間のためで ある。断じて千秋に体当たりするためでも、足を引っかけるためでもない。拳 を固くし、立ち上がった千秋を意識的に上目遣いで見る。意識はしていないが、 どう見ても腹黒い。 「あの、今日はお弁当、作ってきました」 ちなみに、小桜はたまに自分で弁当を作ってくる。 「ああ、栃内はいつもそうだろ。俺はパンだから買ってく……なんだよ」 千秋が身体を向けた方向に立ちふさがる小桜。さすがに学習したのか下手に 身体を掴んだりはしないが、しゃがみこむ千秋の目の前に立つと、いろいろと 見えてしまいそうなので千秋は視線を逸らす。 「千島さん、こっちを向いてください」 そっちを向いてしまうと小桜の太股から更に上の方まで見えてしまいそうで ある。慌てて立ち上がることにする。 「栃内、案外強引だな」 小桜はその言葉を鼻先で無視する。 「今日はお弁当を作ってきました、千島さん」 ……突然そんなことを言われても理解できる千秋ではなく。 「そうか。大変だったな。俺はパン……って、お弁当?」 「はい、お弁当です」 緊張の抜けた小桜が真顔で迫る。ある意味怖い。 「ほう、栃内が弁当を作ったのか」 「はい、私が作りました」 ちなみに発案は言うまでもなく爽萌だ。 「……まさかとは思うが、それは俺に作ってきたのか」 「はい、そうです。今日は一緒に食べてください」 小桜が一歩を詰める。千秋の後ろにはもはや壁しかない。 「とりあえずパンを買ってから考えていいか」 千秋がなおもボケた瞬間だった。 「いつまでボケているんですかっ」 「ぬぁっ」 千秋が実に見事に真横へと吹き飛んだ。本日三度、人生三度目の空中浮揚で ある。ギネスに申請すれば即日却下されるに違いない。 「千島さん、大丈夫ですかっ……橘さん、どういうことです」 小桜は千秋に駆け寄り、その手を取る。そして蹴りを見舞った爽萌を睨みつ ける。 「あのねえ、いい加減になさいよ。せっかく影から見ているつもりだったのに 思わず突っ込みを入れちゃったじゃないの」 小桜の睨みつけに膝が震える爽萌だが、小桜の視線は既に千秋に移されてい る。 「千島さん。お怪我はありませんか」 小桜が千秋の肩に手を回し、抱き起こす。その一瞬、爽萌に向けた視線は明 らかな敵意を含んでいた。 「いや、あの、私が悪かったとは思っているんだけど、栃内さん。ごめん…… でも、あまりにもボケが過ぎるから許せな」 「申し開きは、それだけですか」 小桜は爽萌の謝罪を切り捨て、絶対零度を下回りそうな視線を爽萌に向ける。 「いや、あの、私は栃内さんも結構ひどいことをしていたように……いえ、な んでもないです」 「……千島さん、大丈夫ですか」 千秋はもはや返事をする気配すらない。 「そ、そうよ、花壇。花壇に行きましょう。それで万事解決」 とりあえず尻馬に乗った爽萌は小桜の冷たい視線に後悔。 「私は千島さんと行くんです。橘さんは勝手に行ってください」 「ぇ、あ」 「冗談ですよ橘さん。そんなに怒っていませんから、一緒に行きましょう」 本気とも嘘ともつかない小桜の優しい声が騒動に終止符を打ったのは昼休み も半分が経過した頃だ。 そんな中、爽萌は呆然と廊下に立つ。あの堅物の小桜が下手糞とはいえ「冗 談」を言った。 |
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