北緯四十二度。この国の北端に位置する大都市は開拓された当初から計画的 に都市計画が進められてきた。市街中心には大型輸送機ですら離着陸できそう な大通りがあり、北側には開拓初期に設立された大学と庁舎が建ち並んでいる。 いわゆる行政区画だ。ちなみに小桜の通う高校があるのも北東の隅だ。市街中 心より南には唯一の歓楽街が広がり、賑わいを呈している。さて、視線を更に 南へと移そう。 北国らしい住宅地が続き、小高い丘が緑を象り、林を区切る道路がところど ころに姿を見せ、広すぎる河川が光を反射する。その向こう、都会の隅、南の 果てには一風変わった区画がある。 高級住宅地だ。この区域に入るには警察による検問と民間警備会社によるチ ェックをくぐらなければならない。中に入るとまず目につくのは巨大な石垣。 石垣が途切れる辺りに白木造りの門構えがあり、大抵の場合は高級自動車が侍 り、剪定の行き届いた植木が外と居住区画を遮断する。戦争で財を成した企業 の役員から退役高級軍人、そして旧家など限られた人間だけが住む場所。 が、その高級住宅地にあってなお、それは異常だ。それが何なのか知ろうと するならば航空写真すら必要かもしれない。 面積二十ヘクタールを誇るその中には池すらも存在し、迷い込んだヒグマす ら住んでいるのではないかとの説すらある。事実猛禽類の棲家となっている森 はその筋で有名であり、かつて行われた調査では絶滅危惧種の昆虫と新種の両 生類が確認された。驚くべきはそこが保安森でもなければ軍隊の演習場でもな ければ植物園でもなければ原野でもない、ということだろう。 家、だ。 ここまで来るともはや家というよりは城である。所有者を知りたければ玄関 に回ってみればいい。運がよければ十分、悪ければ一時間と少しでどこかの玄 関に行き着くことができるはずだ。樹齢千年を超える杉の木で作られた表札に は 『栃内』 と、楷書で記されている。 小桜の住む栃内家の家だ。 千秋は小桜をお嬢様だと認識しているが、実際のところ小桜はお嬢様という 枠にすら当てはまらない。資産規模は大企業を軽く上回り、発言力は一角の政 治家を凌駕し、行政の長に迫る。 栃内家は代々地方行政に深く携わっている家系だ。行政、立法方面に多数の 親族を輩出し、事実上この国を取り仕切っている。資産も膨大で、この大都市 の土地の半分、地方全体ではその面積の七割を栃内家で「所有」している。市 街地を二つに分ける大通りだって本来栃内家の持ち物だったが、都市計画のた めに寄付した。この地の郷土史でも作ろうと思えば栃内という言葉は外すこと のできない要素だ。 これほどまでの名家であれば名誉のほうが後から押し寄せてくるものである 。先日他界した小桜の祖父は地方議会長から財団法人の理事、果ては軍の顧問 まで、自分でも数え切れないほどの肩書きを背負っていた。現当主である小桜 の父も保険会社の役員であり、財団法人の理事であり、経済団体の相談役から 軍の外郭団体の長までを兼務している。小桜本人も青年農業者団体や各種奉仕 団体の青年女性部に椅子を持ち、年齢からは想像しがたい経済力と政治力を保 持している。表立っての活動は控えているものの小桜の影響力はこの国の皇女 を超越している。小国なら栃内家はおろか、小桜にすら勝てないだろう。 さて、お姫様というものはたいていの場合わがまま勝手で周囲に迷惑をかけ る、というパターンが多いのだが、小桜も他聞にもれず自分中心である。 朝、小桜は人一倍早起きし、原野とすら見まがう家の庭の植物の世話をする 。家の外に出て遊ぶことのなかった小桜にとって、広大な庭は世界の全てであ る。かくして庭には小桜自ら買い求めたユンボに運搬車が並ぶ。小桜の財力を もってすれば大抵の買い物は小遣い程度だ。 念のため記しておくと、庭の重機の操縦は小桜が行う。物腰と言葉遣いに関 してはお姫様な小桜ではあるが、自分で脚立に上って剪定もすれば運搬車で物 も運べば大型トラクターだって操作する。小桜は機械と名のつくものの扱いが 無駄にうまいのだ。若干音痴気味の鼻歌を歌い、気難しい植物たちに話しかけ、 誰にも理解を求めない至福のときを過ごす瞬間だけは普通の女の子だ。いや、 やっていることは到底「女の子」ではないのだが。 両親は家に生える謎の植物をどこかの植物園に譲ろうなんて思惑をとっくの 昔にあきらめた。笑うことすらめったにない娘の幸せを奪うほど非情ではない からである。それに今くらいわがままを言って好き放題させてやりたいとも考 えている。栃内家の次期当主となる小桜にここから先、個人の意見なんてもの は存在しない。 それに小桜がわがままを言えるのは今のうちである。 理由は二つある。 小桜は高校を出れば形のうえだけでも結婚する、それが理由の一つ目だ。こ れは小桜に限ったことではないが、この時代高卒で結婚させられる長女は非常 に多い。理由は兵役回避の逃げ道だ。先に示したとおり、この国では性別に関 係なく国民全員に兵役の義務が生じている。が、規則に例外はつきものである。 例えば千秋が狙った「長男であること」というのも一つの例外である。 そしてもう一つの例外は「第一子の女性と結婚すること」だ。小桜の場合、 本人の兵役は一つ目の例外で回避できるが、親族の一人の徴兵回避の道具とし て形式だけでも結婚する必要に迫られている。 小桜がわがままを言えなくなるもう一つの理由は、小桜が「栃内家」の次期 当主であるからだ。この意味はかなり大きい。親族には軍の将校から行政の長 までが顔をそろえ、一族の末節であっても政治力や発言力は大きい。その元締 めは現在小桜の父親であるのだが、残念ながら小桜の父は一族を纏め上げるだ けの力量になく、加えて押しに弱い一面もある。力量だけで勝負するなら娘で ある小桜のほうがはるかに優れている。先日、栃内家当主の座は小桜が高校を 卒業した段階で小桜へと引き継がれることが決まった。一国の長に迫る力を持っ てしまえば小桜に私人としての自由など一秒たりとも許されない。小桜にとっ ては今こそがまさに人生の夏休みである。 というわけで夏休みを謳歌する小桜は今日も朝から肥料の量を計算し、土壌 の性質を調べ、花壇の水分を調節する。泥臭い作業などお姫様に似合わない気 がするが、小桜の基礎体力は底抜けで二十キロ入り肥料を両手に一つずつ、計 四十キロを持って歩くことすら余裕だ。熱くなりそうな日には寒冷紗をかけ、 扇風機を庭に持ち出し、運搬車で氷を撒く。寒い日にはビニールを三層にして 自作のヒーターを入れる。 さて、花壇の世話を一通り済ませると作業服から制服に着替えだ。小桜はま ず着ているものを全部脱いでからブラウスに袖を通し、それからネクタイかリ ボンを結ぶ。コアな趣味の人が見れば鼻血だけで失血死できそうだ。この学校 の女子制服はネクタイとリボンのどちらかを選べるが、小桜は必ずネクタイを 着用する。ほんとうはリボンのほうが好きなのだが、リボンを結ぶとあまりに も子供っぽく見えてしまうことを気にしているためである。ネクタイが上手く 結べるとブレザーを羽織り、上が完成したことを確認してからスカートに足を 通す。ありきたりなプリーツスカートであるが裾に赤いラインが入っているの が特徴的でマニアックなつくりである。大して身体の大きくない小桜が制服を 身につけるとコンパクトに収まって何か必要以上に子供っぽく見えてしまうの だからネクタイの威力もあまりない。 着替えを終えると小桜は車で学校に送ってもらう。送ってもらうとはいえ、 運転するのは小桜だ。学校に生徒用の駐車スペースがないので一応運転手を同 乗させ、そのまま自宅へと回送させている。車で正門をくぐった後は足早に廊 下を歩き教室に一瞬だけ立ち寄る。鞄を置くためだ。その後は走らんばかりの 勢いで校舎の隅の花壇に向かう。授業寸前に教室に戻り、休み時間になると花 壇。これを五回程度繰り返し、再び呼びつけた車に乗って自宅に戻る。当然同 級生と会話する時間は皆無。小桜が言うとおり、教室に友達はいない。 経済力もあれば政治力もある小桜だ。望めば少なくとも上面くらい取り繕っ てくれる「友人」などいくらだってできるだろうが、それでも教室に小桜の友 人などない。 小桜だって最初から友人がいなかったわけではない。失ったのだ。 一年生の夏だった。少しは気安くなってきたクラスの友人たちと校舎裏で昼 食を取っていたときだ。当時の友人たちだって小桜が校舎裏で不思議な花を植 えていることくらいは知っていた。が、不幸にも友人の一人がそのことを忘れ、 花を踏んづけてしまった。 小桜の行動は一瞬だった。友人を片手で引きずり、壁際に追い込んで詰め寄っ たのだ。止めに入った友人たちの制止を振り切り、どれほど謝罪しようとも一 切聞き入れなかった。小桜の冷酷な視線は今も語り継がれている。 本気で目線だけで殺されるかと思った。 当然だ。そもそも小桜は単なる愛玩動物ではない。小桜には栃内家という巨 大な組織を纏め上げるだけの威圧と冷厳さが備わっている。それだけの血を引 き、また教育されてきた。 同性の友人を喪失した代わりに小桜は一部の男子生徒からの好奇の視線を得 た。孤立したお姫様は格好の標的だ。花壇に触られない限り無抵抗であること を悟った彼らは小桜を狙い撃ちにした。捻じ曲がった好意と興味の表れが冗談 では済まないところにまでエスカレートするのに時間はかからなかった。持ち 物を盗られる程度であればまだいい。一年生の後期には小桜が怪我を負うこと もあった。学校は必死で事実を隠した。万一、小桜が両親に「学校で怪我をさ せられた」などと告げればその時点で学校の運営そのものが消し飛びかねない。 学校の敷地だって栃内家の所有地を無償貸与されているのだ。 極めつけの事件は二年の秋に起こった。 事の発端は小桜が花壇の破損を見つけたことらしい。折しも状況は昼休み。 小桜が目撃されたのは十二時五分、二年五組の教室前。次の瞬間、小桜は一人 の男子生徒の机の前立っていた。足元には頭から血を流す男子生徒。小桜が殴 り倒したのだ。その次に現れたのは二年七組の教室。わずか三十秒で三人の男 子生徒が叩き伏せられていた。一方的だった。力では圧倒的に有利なはずの男 子生徒がまともな反撃すらできなかったのだ。男子生徒四名に重傷を負わせ、 悠然と花壇に戻ろうとする途中、駆けつけた民間警備会社の社員に保護された。 この派手な事件の顛末だが、小桜に重傷を負わされた男子生徒四名が学校を自 主退学することで決着がついた。直接の加害者である小桜は処分を受けていな い。以来、小桜に話しかける人間は教師を含め、二名だ。 千秋が小桜と平和的に接したのはほんとうの偶然である。もし、千秋の足が あと数センチずれていれば、現在小桜と千秋が笑って過ごす時間は絶対に訪れ なかっただろう。千秋が偶然タバコを吸いに校舎裏に来るまで、小桜の花壇に 触れる人間は誰一人としていなかった。何も知らない一年生は花壇について厳 重な指示を受け、生徒はおろか教師ですら近づかない。 ついこの四月までは。 黙認状態の花壇がにわかに職員の間で脚光を浴びたのは、学校の理事の一人 から出された多額の条件付寄付が原因だった。 校舎と芸術棟の間に広がる空き地に植物園を作りたい。この寄付を断るのな ら、学校運営に関わる予算案を拒否する。それは事実上の圧力だ。 植物園を作ってしまえば小桜の花壇はつぶされてしまう。さて 誰が小桜にお花畑の撤去を求めるか。 小桜が説得で動かないことなんて誰だってわかる。力技に訴えようものなら 万力ですら空回りするに違いない。それだけならいい。もし小桜が力を使って 反撃に出た場合、誰が小桜に立ち向かうのか。まだ暴力ならなんとかなるだろ うが、小桜が栃内家の権力と経済力を使った場合、学校では立ち向かうことが できない。一方で学校理事の寄付を断るのも難しい。栃内家は学校に土地を提 供しているが、学校理事は学校経営そのものに圧力をかけている。正当な理由 なしに断ることはできない。 世の中、貧乏くじというものは組織の一人に集中するものである。この高校 で言えば生徒対応部の下っ端、近藤だ。誰もが首振り扇風機と化す会議が何度 も開かれ、絶対に貧乏くじを引かされるとわかっていた近藤はただ淡々と会議 に出席し、淡々と花壇撤去の指導計画を作り、淡々と小桜を監視することから 始めることにした。全職員の注目と頭痛の種となっていることなどどこ吹く風、 小桜は今日も自慢の花壇で過ごす。 というわけで小桜の動向に注目していた近藤が小桜の変化を見逃すわけがな かった。 それは春の日もようやく暖かくなった日。もともとクラスの中では無表情を 通している小桜に表情が現れたのだ。最初に気づいたのは冷たい風が入り込む 廊下。小桜が窓から手を伸ばして笑顔を作っていたのだ。小桜が整った顔立ち をしていることは事実であるのだが、笑顔を見たことはなかった。千秋はその 笑顔が花に向いていることを残念だと思ったが、実は小桜が学校で笑顔を作る のは非常に珍しいことである。その奇妙な笑顔の理由を知るべく、近藤は小桜 の後をつける。 そして校舎の隅の花壇でそれを見つけた。 「ウスユキソウはそろそろだな」 作業服の男が小桜に向かってぼやく。千秋だ。近藤が見る限り、小桜は千秋 の言葉にいちいち頷き、いちいちノートに何かを書きとめる。近藤の調査によ ると、小桜のノートには自らの観察記録と毎日の詳細な日記、スケッチその他 が雑多に書き込まれている。 「はい、そろそろですね」 どうやら小桜はあまり頭を働かせずに適当に相槌を打っているらしい。小桜 にしては珍しいが、どうやらスケッチブックを広げているのは確かだ。ただし、 小桜の視線はどう見ても花壇に向かっているようには見えない。 「ここに生えているのは……葉の形が違うな」 近藤には会話の内容まではわからないが、小桜の視線が捉えている先のもの はよくわかる。もはや小桜の視線は花壇にはない。 「はい、そうですね」 近藤はその興味の先をじっと観察する。 「生育悪いな。土壌の状態が悪いのか」 「はい、そうですね」 小桜は相も変わらず気のない返事。視線の先にいる千秋は眉をひそめる。 「……撫でていいか」 「はい、どうぞ」 わさわさ。小桜はされるがままだ。 「隣で裸になって踊ってやろうか」 「はい、ご自由に……いえ、それはだめです。その、いろいろと問題がありま す」 近藤は小桜がそんな冗談に言葉を返したことに驚く。近藤の知る小桜は冗談 に取り合う隙なんてなかったし、慌てることもなかった。 「で、さっきから熱心だな」 「はい、観察していますから」 「……少しノートを見せてくれるか」 千秋の手がスケッチブックに伸びる。 「あっ」 それを回避しようと小桜がスケッチブックを右方向へ。追う千秋が体勢を崩 し、それに驚いた小桜が前向き転びかけ、助けようとした千秋が小桜の肩を掴 む。 折り重なって倒れた。遠くから見ていると押し倒したようにしか見えない。 一応フォローしておくと、千秋が下、小桜が上である。が、この状況で通る言 い訳なんてないだろう。写真でも取って栃内家に送りつければ千秋の命はそこ で終わる。 あまりの緊張に動けぬ小桜と、明らかに混乱の極みに立つ千秋。 「あ、あの。千島さん、その」 ようやく口を開いたのは小桜。地面に手をつき、身体を離す。 「あ、いや、俺が悪かった。少し調子に乗りすぎたな」 近すぎる顔を逸らす千秋は小桜より慌てている。 「いえ、その、私は大丈夫ですか……失礼しました」 小桜が身体を起こし、立ち上がる。制服についたほこりを払い、千秋と距離 を取る。 近藤がその光景を見逃すはずなんてなかった。悪魔のように笑い、決意する。 これからは積極的に小桜の花壇の撤去を求めていこう。 |
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