時刻は十二時三十分、場所は校舎裏。このときの千秋の心拍数は軽く百を超 えている。理由は自分と小桜二人という状況、それだけである。どことなく秘 密の共有めいた信頼がこそばゆい。一瞬頭をもたげる邪なものは小桜の無表情 から派生した微笑に瞬殺。間違ってもロマンスなんて始まりそうな気配もない。 このときの小桜の心拍数は一秒に一回、すなわち六十だ。ものすごくリラッ クスしているのは普段の緊張が解けた結果である。こちらもやはり、ロマンス なんて始まりそうにもない。 見ているほうが恥ずかしくなってくるような初々しい食事シーンである。千 秋は千秋で気合を入れてあんパンにかじりつき、小桜は小桜でうつむいたまま 細々と弁当に手をつける。傍から見ていると新手の罰ゲームか段取りを間違え たお見合だ。が、ならばぎこちないかというとそうでもない。確かに小桜と千 秋は他人と友達の微妙な間隔を空けて隣り合って座っているのだが、その間を 流れる空気はさながら親子連れだ。長年連れ立った夫婦のように呼吸が揃って いる。 男性の中でも特に身長の高い千秋に、女性の中では中の下ほどの身長の小桜。 塗料で汚れた作業服の背中と、埃一つ付着していない制服。 櫛を使ったことすらない短髪と、丁寧に解かされた繊細な髪の毛。 どこまでもでこぼこなのに、不器用なところだけはよく似ている。観客もい ない二人を冷やかすのは校舎から舞い降りる小鳥くらいだ。 「いいところだな、ここは」 沈黙の重みに負けて適当なことを言う千秋に 「ええ、もともとこちらを訪れる予定でしたが」 四角四面の答を返す小桜。 「あの、食べ終わりましたので、私は花壇の世話をします」 「ん、手伝おう。何をすればいい」 千秋が腰を浮かす。 「ありがとうございます。ですが、どうぞごゆっくりしていてください」 小桜は背中を向ける。放っておけば自分の世界に没頭するだろう。 「お前、食堂で謝っていたよな。なんでだ」 置いてけぼりにされそうな予感の千秋が思いつきだけで声をかける。 「ごめんなさい、私」 小桜が手を止め、相変わらず背中を見せたままつぶやいた。 「いや、お前何も悪いことしてないだろ。俺なんて生まれてこの方謝ったこと なんてないぜ」 「昨日私に謝っていました」 「……忘れとけよ」 少しため息。 「私、男の人が苦手なんです」 数秒の沈黙の後、小桜が突然口を開いた。 男の人って苦手なんです。 嘘つけ、千秋は突っ込みかける。そう、千秋だって男だ。苦手なら背中を見 せて他のことに没頭するなんてありえない。 「俺は平気なのか」 「はい、千島さんはあまり男の人っぽく感じなかったので」 褒められたのか、けなされたのかいまいち分からない千秋だが、あまり深く は考えない。 「じゃあ、とりあえずの友人は俺だけ、か」 「はい、そうです」 「俺も一緒だ」 小桜の作業がなんとなくつかめてきたので千秋も身体を動かす。どうやら雑 草を引っこ抜いているらしい。 「ところで千島さんはこのお花の中でどれが一番好きですか」 背中を見せたままの小桜が突然口を開く。 「お前はどれが好きなんだ。やっぱりトチナイソウか」 千秋は小桜の方向を捕らえる。と、同時に振り返った小桜と視線が交錯。 「あの、千島さん。ご存知でしょうがもう一度申します。私は栃内という苗字 です」 「知っている。栃内小桜。いい名前だ」 ほんの少し顔を離し、そう返す。そういえば、千秋の頭の隅に何かが浮かぶ。 その名前をどこかで聞いたような記憶がある。 「私は千島さんを『千島さん』と呼んでいます」 「ん、そういや呼ばれているな。それで」 「なら、私のことは『お前』だなんて呼ばないでください」 「ご主人様、と呼んでやろうか」 「はい、私のことは栃内、とお呼びください」 小桜、軽く千秋を無視。千秋がやけっぱちに空を眺めるのも気にしない。 「……わかった。栃内と呼べばいいんだな」 「はい、そうです、千島さん」 「なら栃内はどの花が好きなんだ」 この頃にはようやく、千秋にも小桜の表情が読み取れるようになってきた。 今の小桜の顔には嬉しさが滲んでいる。 「私は全部大好きです。どんな花もきれいで、かわいくて、弱く見えるのに強 く頑張って生きています。千島さんもそう思わない、ですか」 ここにきて千秋が気づいたことは三つある。 一つ、小桜はまがうことなき年相応の女の子である。どれほど無感情を装う とも、言葉の端々に夢見がちなものが見える。 二つ、小桜の観察力は鋭い。真理を捉えた言動は普通の高校生のものではな い。端正な顔立ちと沸き立つ自信の根拠はそのあたりにあるのだろうか。 三つ、小桜が気を許しているのは花であって、千秋ではない。千秋のことを 花壇に生えている植物と同じ程度にしか考えていない。 「それで千島さんの好きなお花のことですが」 その笑顔が自分に向いていないのは少しだけ寂しいが、昨日の今日で自分の 方向を向いてくれというほうが贅沢だ。 「おざなりかもしらんがそこのウルップソウは好きだ。なんせ俺の故郷では絶 滅寸前だ。それに文字も面白い」 花の話になると饒舌になるのはお互い様だ。 「私も大好きです。この紫色の小さな花が螺旋に並んでいるのがかわいいです ね。漢字で書くとどうなるんですか」 二人の距離が一気に縮まる。傍から見ていると紙の一枚ですら通せそうにな いくらいだ。小桜が胸ポケットからペンを出し、左手にノートを広げる。千秋 がそれを取り上げ、ノートの見開きに大きく書く。 得撫草。 「どうだ」 「撫でたら得をできるんでしょうか」 「試しに撫でておくか?」 「私よりは千島さんが撫でたほうがいいと思います」 「俺か?」 「はい、幸薄そうな感じなので」 「そうか。なら撫でておこう」 千秋が手を伸ばす。 「……あの、私を撫でても得はありませんが」 「なぜ俺の行動を先読みできる」 「……一応、友達ですから」 「そうか。なら撫でるのは止めておこう」 「いえ。私は『得がない』と断っただけで『撫でるな』と言ったわけではあり ません。得はありませんが、撫でたければ止めません」 「……なら撫でる」 わさわさ。千秋の細い指が小桜の頭の上に乗る。 「あっ」 傍から見れば幼い兄弟が遊んでいるようだ。 狙ったように予鈴が鳴った。 「……そろそろ授業か」 小桜は立ち上がった千秋の顎の辺りに視線を留めておく。顔を見据えるだけ の勇気はない。 「はい。千島さんは明日もいらっしゃいますか」 小桜が寄り添うよう立ち、距離を少しだけ詰める。 「毎日仕事だからな。昼休みぐらいは来てやってもいいが」 「では、明日もこちらで」 「ん。じゃあな」 千秋は振り返ることもなく、右手だけを挙げて花壇を離れる。どうせ明日会 えると信じているからだ。残された小桜は千秋の背中が消えるまでその場に立 つ。小桜の姿に千秋が気づくことはない。 |
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