春、都会の隅-Spring-

第三話

 千島千秋二十一歳は都会に出て三年目であり、実家の島から出てきて三年目
でもある。実家は北の果ての孤島。夏になれば希少な高山植物が多数の群落を
形成し、冬になれば海からの強風が容赦なく吹き付ける場所だ。故郷の島は人
が住むには過酷であり、仕事もなければ娯楽もない典型的な離島である。千秋
が家の周りに溢れるほど生えている高山植物に興味を持ったことは何の疑問で
もない。
 それしかないのだから。
 「高山」ではない島に高山植物が生えている理由は三つある。一つ、緯度が
高すぎて寒いこと。二つ、島に吹き付ける風があまりにも強いため樹木が育た
ないこと、三つ、濃霧が発生しやすく直射日光が当たりにくいこと。簡単にま
とめれば海抜ゼロメートルから高山と同じ環境であるため、高山植物が咲く、
ということになる。
 当然であるが、こんな地理条件だと産業も絞られてくる。強い風と弱い太陽
光では農業なんてできない。島の産業といえば昔から漁業と観光業だ。
 最近までは。
 今では島には一級の港があり、飛行場があり、発電設備があり、雇用もある。
 全て戦争が始まってからできたものだ。千秋の住む島はかつて、敵国の奇襲
で島民のほぼ全員が殺害され一時期占領された。この国が島を奪還して以来、
花の島は最前線の基地の島へと変貌を遂げた。基地が出来た代わりに漁業と観
光業が衰退したのは当然のことである。千秋の実家はそんな中、島で唯一民宿
を経営し続けていた。と言っても、事実上島を訪れる軍人の関係者のための施
設だ。
 千秋が高校卒業と同時に島を飛び出したのにもそのあたりに理由がある。
 一つ目は兵役だ。
 千秋には弟が一人いる。戦争開始以降、この国には徴兵制が敷かれた。それ
によると第二子、すなわち弟や妹と呼ばれる存在は必ず兵役につく義務を持つ、
ということになっている。千秋の弟が兵役を回避するには「弟が長男」になら
なければならない。方法は一つ。千秋が社会的に無分を失う、すなわち失踪す
ることで弟は事実上の長男、第一子となり兵役を回避できる。千秋はそう考え
たのだが、現実はそんなに甘くない。千秋は現在兵役の不正免除を行った者と
して手配されている。
 二つ目は基地拡張による高山植物群落の消滅だ。
 いまや島の経済は基地に依存している。多少自然が破壊されることに文句を
言う人間はいない。それに、島にとって「最前線である」ことは何よりも誇り
である。基地の拡張に反対の立場を取る千秋が島を出たのは当然だ。千秋は高
校卒業と同時に連絡線に乗り、三日分の宿泊費用だけを持って都会へと出てき
た。流れ着いたこの都会も三年目、ようやく身分を偽って得た造園の仕事に従
事し、糊口をしのいでいる。

 さて、話を学校に戻そう。時間は小桜と千秋が出会った次の日、時刻は十二
時。
 「戦争」開始の合図である。全校を上げた熾烈な戦いはここ、伝統と実績の
高校校内にて幕を切られる。教室では抜け駆けの駆け引きが起こり、廊下では
擬態を駆使する生徒が教師をやり過ごし、食堂ではフライングした生徒がおば
ちゃんに撃退され、後ろからはスタートダッシュをかけた三年生が一年生を一
本背負い、それを連携で阻止する二年生が突き飛ばされ、素早さに全てを賭け
る女子生徒が意外な勝利を収め、「仲間を呼ぶ」と「おたけびをあげる」で漁
夫の利をつく弱小連合が隙をうかがう。攻防戦は混乱を極め、戦うための戦い
が繰り広げられる。殴ると見せかけて足をすくい、蹴飛ばすと見せかけて一本
背負いと見せかけて繰り出された正拳突きにカウンターを見舞う。
 何をやっているのか。
 食堂の席取り合戦だ。総じて学校の食堂というものは需要が供給に対して著
しく大きいものだが、それはこの名門校でも変わらないらしい。かくして心理
戦に持久力、そして攻撃力の要求される戦いが毎日正午から展開されるのであ
る。
 と、解説しているうちに時間は十二時八分。千秋は食堂の外でその長身にア
ホ面を下げて混雑を眺めている。その顔はむしろ余裕ですら浮かんでいるよう
に見えるが間違ってはいけない。それは後一歩で悟りの境地に至る人間の姿だ。
 そう、千秋はその混雑に対し何の手出しも出来ていない。ここで千秋を情け
ないと断ずるのは酷だ。千秋の小学校は複式で一クラス六名。中学校は全員で
三十名。高校は島に一つの生徒五十名ちょっと。都会に出てきてからは混雑に
は多少慣れたが基本的に人ごみには弱い。
 努力はした。一応隙を窺い、人の切れ目に入り込もうとするがそうは問屋が
卸さない。ジャングルには既にハゲタカもいればハイエナもいる。新参者の入
り込む余地など最初から残されていない。芋の子を洗ってももう少しマシだろ
うという光景に食欲も戦意も喪失した千秋は食堂入り口付近を無為にうろつい
てみる。
 光陰矢のごとし。現時刻は十二時十八分。ようやく人の姿が消え、千秋がな
んとか並ぶ気力だけを復活させ、生存本能だけで体を動かす。カウンター上の
トレイを眺め、残り物を漁る。ちなみにいくらかき回そうともトレイから出て
くるものはあんパンだ。どれほど甘かろうとも敗北の味しかしないだろう。
 少しため息。
 硬貨三つでパンを二つ買い、午後からの労働意欲を掻き立てる方法を考える。
「せめて同僚くらいいたらな」
 思わずつぶやいた自分の声に昨日の女子生徒の顔がクロスする。
 栃内小桜。練習上の友達。
「さすがに、それはないか……って、お」
 人ごみの中に見覚えのある姿を見つける。小桜だ。どうやら小桜も食堂の戦
いを最初から放棄していたらしく、所在なげに食堂の隅をただずんでいる。せっ
かく昨日名前を教えあった仲だ。千秋は声をかけることにする。
「よ、栃内」
「申し訳ございません。私、邪魔でした」
 千秋は予想外の返事に首を傾ぐ。小桜の声は卑屈でもなんでもない、何者を
も拒否する強い意志のこもった声だった。通常の避け方ではない。話し合う可
能性すら放棄し、周囲に対して閉ざした上に消極的な針を向ける。昨日見せた
無表情も、敵意ですらも見当たらない。それは呼吸しているだけの無機物だ。
「栃内、けんかでもしたのか?」
 もう一度、声
「申し訳ございません。少し一人にしてくださいますか」
 強い言葉で拒否する小桜。が、ここで「ああそうですか」と引き下がる千秋
ではない。千秋は小桜の正面に回りこむ。
「どうした栃内。もしかしなくても俺が悪いか」
 正確に一秒、視線を交錯させる。小桜の黒い瞳に千秋の姿が映る。
「あ、千島さんですか。こんにちは、栃内です」
 それでも小桜が笑うことはなかった。何者をも拒否しそうな鋭い視線を少し
でも緩めただけであり、それは誰が見ても無表情としか思えない。
「千島さん、ご用件は」
 小桜は至って無表示に詰め寄る。
「ん、用件というほどのものはないが、今からパンでも食べようかと思って……
食うか?」
 言ってから思いっきり後悔する。
「いいえ。私は弁当を持参しています。今日はお箸を忘れたので食堂に借りに
来たのですが、人が多くて大変でした。では後ほど花壇で」
 小桜は聞かれたことに答えて満足したらしく、踵を返そうとする。
「待て。やっぱり用事はまだ終わっていない」
「……はい、承ります」
 小桜がほんとうに不思議なものでも見る視線を千秋に向ける。
 千秋が小桜の反応の真意を理解したのはこのときだ。小桜は別に怒っている
わけでも冷たくしているわけでもない。ただ、「質疑応答」に徹しているだけ
だ。おそらく今日も花壇で落ち合えばいいと考えているわけで食堂から一緒に
歩いていく必要を理解できていないだけだろう。
「今日は天気だ、栃内」
 そこまで思い至った千秋が冷静に言葉を紡ぐ。
「はい、本日は快晴の予報でした」
「桜の花の見ごろは一ヶ月先だろうな」
「そうですね。今年は例年通りだと聞いています」
 いや、天気予報の話は後回しだ。小桜相手ではどうも調子が狂う。
「栃内、どこで食事をするつもりだ?」
「教室で」
 そこで言葉を遮った。
「外で食べないか」
 小桜が半瞬の思案顔を作る。
「外、ですか」
 北の大地の遅い春。桜咲き始める一歩手前の季節。冷たい風も萌える緑に優
しく空へと登る、そんな日には相応しい言葉だと千秋は自画自賛。
「そうだ。昨日の花壇の前。どうせ後で会うなら、今から一緒でもいいだろ」
「わかりました。それでは向かいましょう」
 そこまで一切表情を作らなかった小桜が初めて、ほんの少しだけ眉を動かした。

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