「胸の名札だ」 今度は千秋が指差した。 三年七組 栃内小桜 312 最後の三桁は三百十二期生であることを示している。 「ですが」 「その花の名前はトチナイソウ。お前の名前は『とちないこざくら』だ。正解 だな」 花の名前も、小桜の名前の読みも正解だ。 「分かってくださったの、初めてです。ですがよほど詳しくないと、そんなの」 「かわいいからな、お前。それで花の名前を久々に思い出したんだ」 半分ほんとうで、半分嘘だ。その花は千秋の出身の島と、限られたごく一部に しか自生しない。千秋が花の名前を片時も忘れるわけがない。 花の名はトチナイソウ。別名チシマコザクラ。サクラソウ科の植物。 「ありがとうございます。ですがそんなお世辞を頂くようなこと、私は」 真剣に否定する小桜の顔は十人中十人がかわいいと答えるに違いない。 「ま、かわいいは事実だ。名前もかわいらしいが」 「あ、ありがとうございます。私もこの名前、気に入っています。お爺様がつ けてくださったんです」 その言葉の丁寧さと真面目を絵に描いたような無表情の前に千秋は不安すら 覚える。ここにきて古風であるが「身分違い」という単語が脳裏を掠める。人 並みに敬語を使う努力なんて中学生までに放棄した千秋とは住む世界からして 異なる。 「もしかして挨拶は『ごきげんよう』とか言うのか」 「いえ、そんなことはありません。時候の挨拶はいたしますが、特に友達など いませんので簡単な挨拶は致しません」 「ああ、なるほど……って、おい」 「はい?」 友達などいませんので。 溜めていた突っ込みが口を突く。 「あまり笑えない冗談だな」 「いえ、私はあまり冗談など得意ではありません。今も冗談を交えた会話をし ていたわけではありません」 一瞬で返ってきた言葉がきっぱりと話題を断つ。 「まあ、俺も友人なんていうほどの奴はいなかったが」 「では一緒ですね」 「だな」 しばしの沈黙。 「なら」 「ん?」 「いえ、申し訳ございません」 小桜が何かを言いかけ、言葉尻を濁す。 もしかすると、それが始まりだったのかもしれない。 「あのさ、お前」 その一線に踏み込んでいいのか一瞬迷う。ついさっき顔を知り、名前を知っ ただけの存在。干渉する必要なんてどこにもないはずだ。 「友達ほしいか」 それでも千秋は続ける。 「えっ」 小桜が聞き返す。 「友達だ。いらないのか」 沈黙、そして 「わかりませんが、必要不可欠ではないと判断してきました」 小桜はそう答え、 「なぜ、そんなことを聞くんですか」 続けた。小桜の本心だ。小桜にはもとより「個人」という思想が存在しない。 小桜は生まれた瞬間から私人としての精神を持ち合わせていない。 「まあ、不可欠ではないだろうが、いたほうが彩りも出る。ま、不快なら冗談 とでも受け取ってくれ」 「冗談なら結構です、が不快ではありません」 「なら答えろよ」 背を返しかけた小桜に言葉を投げつける。 「友達、欲しくないのか。お前、かわいいからすぐに友達くらいできるぜ。な んなら今から友達作る練習でもしていくか」 千秋の言葉に小桜が足を止める。 「練習、と申しますと」 「俺も不得意だからな」 「初対面の相手にはまず自己紹介をするものではないでしょうか」 「よし、なら自己紹介だ。俺でよかったら聞いてやる」 千秋が距離を取り、何度目かの胡散臭い笑顔を向ける。 「三年七組、栃内小桜です。趣味は花壇の世話です。あ、それからいろんな機 械を触るのも好きです。車の免許を一通り持っているのが自慢です」 千秋が唖然としているままに三十秒経過。 「……もしかして、今のでかい引きを与えておいて自己紹介終了か」 「はい、終わりです」 「オチは?」 「ありません」 終わりらしい。緊張した面持ちをほんの少しの自信に切り替えた小桜が千秋 を見据える。 「三十点だな」 「どこが至らなかったのでしょう」 「色気とギャグと大胆さ、かな」 千秋の冗談に小桜が露骨な嫌悪を向ける。 「結構です。最初から騙されたと思っていましたから。三十点で十分です」 「待て。拗ねずにこれからも頑張れ。でも、いい顔になったぞ。無表情より怒っ ているくらいの方がまだマシだ。じゃあ、そんな感じで頑張れ」 千秋が片手を挙げ、背中を向ける。 「ま、怒っているよりは笑っているほうが……ん」 適当な捨てゼリフで去ろうとする千秋の身体に軽い抵抗がかかる。小鳥のく ちばしにでも触れられたような感覚が作業着越しに伝わる。 作業服の袖が小桜に引っ張られていた。 「どうした。そんなところを触っても何も出ないぞ」 そんな千秋のボケを軽くスルー。 「私、自己紹介しました」 いたって無表情に、淡々と事実を告げる小桜。 「ああ、聞いた。三十点だ」 それでも袖につかまった指は離れない。小鳥がついばむ程度の力だが、千秋 を留めるにはそれで十分だ。 「なんだよ、金なら全くない」 「私だけが自己紹介をするのは不公平だと思います」 「俺に自己紹介しろ、と」 小桜は強く首を横に振る。 「自己紹介をしたいならしてください。ですが、私が騙されたというのならあ なたも騙されるべきではないですか」 そっちかよ、と突っ込むのはやめておく。 「……お前さ、もしかして友達が欲しいのか、やっぱり」 「いえ、そういうことではありませんが」 「なら俺を騙して自己紹介させてどうする」 「これは友達を作る練習だといったのはあなたではないですか。一人では友達 ができません」 なるほど。ようやく合点がいく。 「わかった。俺の言い始めた話だからな。それで俺が友達でいいのか」 水を向けたのは千秋だ。それは自分でも認める。だが、そもそも造園作業員 とお嬢様だ。友人以前にいろいろと問題がある。 「わかりません。ですが不快ではありません……練習ですし」 小桜はあくまでも無感情に告げる。 「ほう。それは光栄だな」 「あなたはこの花に気付いて、壊さないと約束してくれました。ならばそれを 友人と呼ぶのではないのでしょうか」 チャイムが鳴った。今度は本鈴だ。仕事の合図であり、始業時間の合図であ る。 「……名前は千島千秋、二十一歳だ。三年前までは高山植物の咲く島に住んで いた。今は見ての通りの造園屋だ。ちなみに友達はいない」 「終わりですか」 「ああ、オチがなくて悪かったな」 「四十点です」 「お前より上だな」 「二百点満点で採点しました」 二人は向き合って五メートル。間を吹き抜けるのは少し温かくなった春の風 で、頭上を彩るのははるかな高みを翔る飛行機雲。その五メートルを千秋が歩 み寄る。 「じゃあな、授業だろ。高校生」 千秋が制服の肩パッドあたりを軽く押した。 「はい、失礼します。千島さん」 押してやった背中が等速直線運動を描き、自分の足は逆方向へと向かい。 「千島さん、また明日」 そんな呼びかけに千秋が右手を上げる。 |
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