ひかりの差す部屋

ひかりのない世界 第十二話

「おはよ」
「ああ、おはよう、浦上」
 玄関先で交わす会話。何の邪心も感じさせない笑顔。浦上との、いつもどお
りの挨拶。
「ひかりちゃんは?」
「寝てるに決まってるだろ、ほら」
 昨日、いや寝たのは今日の三時だ。
 浦上を部屋に招きいれ、コタツに身体を横たえるひかりを指差す。ほほえま
しい風景も、穏やかな空気も、全部昨日までと一緒だ。
「起こそうかな?」
「やめとけ。ひかりが起きると何かとうるさい」
「……寝る子は育つ、って言うよね」
 何かを見透かしたような顔を浦上が向ける。
「ああ、子供は基本的には育つものだ」
「ってことは、宮沢くんはひかりちゃんに成長して欲しいんだ」
「まあな」
「でも宮沢くんは小さい子が好きだったんじゃなかったっけ。成長しちゃうと
ダメなんじゃないかな」
「浦上、俺は別に小さいのが好きなわけではない。それに」
「冗談だよ。少しからかってみたかった、それだけ」
 浦上が笑う。
 その笑顔には力がない。昨日から今日にかけての疲れだけではないのだろう。
浦上は今、必死になって「今まで」を演じようとしている。
「かわいいね、ひかりちゃん」
 浦上がひかりの隣に正座し、頬をつつく。
「……ん、なんでしょうか」
 寝ぼけた声が部屋に響く。
「ひかりはかわいいな、って話をしてたんだ」
 ひかりの寝ぼけ顔を眺める。
「そうですか。ですが、私は浦上さんもかわいいと思います。あ、それから宮
沢さんもそれなりにかわいいと思います、おやすみなさい」
 まさに寝言みたいなお世辞を告げ、ひかりが再び目を閉じる。
「……確かにかわいいな、ひかりは」
 思わず出た独り言。ひかりを挟んで過ごす浦上との静寂の時間。
「あのね、宮沢くん。昨日のこと、なんだけど」
 ひかりの髪を撫でながら、切り出す浦上。無言で続きを促す。開け放ったカー
テンから入る光は澄み切っている。
「もう少しだけ、待ってくれないかな」
 もう少しだけ。
 予想は、していた。
「どうしても待ってて欲しいか?」
 だから、そんな陰鬱な空気なんて吹き飛ばしたい、そう思う。
「あ、あの、えと」
「駄目だな。俺は気が短い。約束の時間なんて五分遅れたら怒り出す方だ。待
つなんてごめんだ」
「え、あの」
 だから俺は浦上をからかう。さっき浦上が俺にそうしたように。
「というわけで待たせているつもりなら今から謝罪タイムだ。思いつく限りの
恥ずかしい格好をして外を練り歩くか」
「え、宮沢くんが恥ずかしい格好するの?」
「って俺じゃねえよ。今わざと主語を取り違えたろお前」
「でも宮沢くん、この前実験棟で裸白衣姿をして歩いていたって」
「……酒を飲んだ上での過ちだ。許せ」
 誰から聞いたんだ。あれは研究科の男だけの飲み会だぞ。
「あのね、これ、クラスの沢田さんと話してたときのことなんだけど、宮沢く
んなら患者さんが完治したら打ち上げに連れてって急性アルコール中毒で再入
院させるんじゃないかって」
「間違っても酒豪のお前には言われたくない。お前は俺を五十回ぐらい二日酔
いにさせている。合計百日酔いだな」
「あはは、ごめんなさい」
 と、普段の調子。
 これでいい。
「ま、焦るな。俺は最初から浦上のことなんて待ってない。だって俺とお前は
友達ですらないんだ。待ってないんだから急ぐ必要も焦る理由もない」
「……うん、そうだな」
 俺は自分に有利になるならどんなひどいことでも平然と言う。
「俺は待ってないんだから、偶然交差点で出くわせば挨拶をするくらいでいい。
挨拶ついでの身の上相談ならいつでも乗ってやる。そういうことだ。深刻ぶるな」
 精一杯肩肘を張って浦上を突き放す。
「うん、ごめんね」
 それにしても浦上が「ごめんね」と言うときの顔は微妙な喜びに包まれてい
る。出会ったときから知っていたが、浦上は謝るという行為から快感を得てい
るのではないだろうか。浦上が真性のどMなのは知っているが、「ごめんね」と
いわれると更に苛めてみたくなる……いかん、俺までがアブノーマルの道に進
んでしまうではないか。恐るべし、浦上。
「浦上。ひかりがこんな状態なんだ。出かけるのはやめて、ここで過ごさない
か。こいつが起きたらその辺を散歩して、食事でもして、テレビでも見て、ずっ
と一緒にいてやらないか」
 それは俺が望んだ光景なのかもしれない。
 なんてことのない平凡な日々。平凡という言葉が最上級の幸せを意味すると
知ったのはいつのことだっただろう。
「うん、服はまた、私が見繕って買っておくね。とりあえず朝ごはんの片付け
だけど、私が」
「いや、俺がする。浦上はひかりの顔でもつついてろ」
 台所に足を運び、ふすまを閉める。
 平凡というものはこんなにも難しい。


 新発見がある。
 ひかりで遊ぶのは存外楽しい。
 浦上はひかりの頬をつつくだけで笑顔になる。今ではひかりが天使だという
言葉に一も二もなく同意せざるを得ない。ひかりの鼻に糸を突っ込みながら思
う。
「ダメだよ宮沢くん。そんなことしたら」
「いいだろ。これも愛情表現だ」
「愛なら……仕方ないね」
 そこは否定するところだ、浦上。
「ね、宮沢くんは誰かを好きになったことってある?」
 ふいに、浦上がそう切り出した。
「……そら、な。中学高校のときに『いいな』と思うくらいはあった。それく
らいか。あとは小さい頃に近所の姉ちゃんもあったかもな。浦上は?」
「いるよ」
 即答。
「それは、知らなかったな」
 誰なんだ、とは聞けなかった。
 浦上はその時間の「全て」を俺か家族と過ごしている。
「手の届かないところに、いるよ」
 だろうな。
「俺もだ」
 そう、浦上はこんなに近くにいるのに、手に取ることすらできない。だから、
思いを伝えることも、立ち入ることも出来ない。
 ひかりの背中を撫でる浦上の手の甲の上に、掌を重ねてみた。
「浦上に好きだと思われる人は、幸せだな」
「うん、とっても幸せだよ。だからね、その人にはもっと幸せになってほしい
と、思うの」
 俺の手を軽く払い、少し低い目線から俺を見る。
「宮沢くん、ひかりちゃんと付き合ったらいいと思うよ」
「は?」
 意味がわからなかった。
「ひかりちゃんは十五歳くらいでしょ。宮沢くんくらいの年齢の人と付き合う
ことは、そんなに変なことじゃないと思うな。年の差カップルって結構応援し
てみたいし、ひかりちゃんも宮沢くんに懐いているし、私はそんな二人を見る
のが好き」
 なら浦上はどうするんだ。
 とは言わなかった。
「遠慮する。年齢はともかく俺はひかりの保護をしているんだ。かわいらしく
ていい奴だとは思う。でも、それは娘みたいなもんだ」
 ひかりの髪を撫でる。眺めのまつげの優美な眉毛、ほんの少し産毛の残った
頬と前髪の生え際。顎の輪郭に、首筋から胸に掛けて露に見える身体のライン。
 それは鳥肌が立つほどの美しさ。
 年相応の幼さに宿った妖艶な姿。
 無垢であることと、艶かしさが両立した類稀なる生き物。
「私、ほんの少しひかりちゃんが羨ましいなって思う」
 浦上がわずかに囁く。
「ひかりのように寝て過ごすのが、か」
「私もひかりちゃんのようにとてもいいお父さんの隣で寝て、遊んでもらって、
そんな子供だったらよかった」
 俺もそう望む。
 自分が世界に祝福された存在であれば、どれほど幸福だろう。
 だから俺はひかりにその祝福を与えたいと思う。俺や、浦上のように手遅れ
になる前に。



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