ひかりの差す部屋

ひかりのない世界 第十話

 川沿いの冷たい風に頬の熱を冷まし、家路につく。
 ―外に出たいのか―
 外に出すことが出来るのだろうか。
 ひなたは、外に出ることを望むのだろうか。あんなところに閉じ込められて、
これから何十年もある未来を、一番楽しいはずの時間を「終わった人間」とし
て過ごしたいのだろうか。
 そんなこと、誰も望みやしない。
 では俺は、何をできるのだろう。
 浦上一人をどうしようも出来ないのに、それ以前に俺自身をどうしようも出
来ないのに、手にも届かない誰かを何とか出来るのだろうか。偽善と欺瞞に溢
れた自分が嫌になる。
 俺はいつか、しっぺ返しを食らうのだと思う。それでも今の俺にできること
が偽善なら、それに全力であろうと思う。
 今日の俺は全力だった。それだけで自己満足する。だからひなたのことは今、
頭の中から全部追い出した。次に思い出すのは一週間後だ。気持ちは全部ひか
りに向ける。
 そういえばエルベで別れて浦上と二人にしたんだっけ。あれから浦上とは仲
良くやっていただろうか。随分懐いていたからさぞや和気藹々とやっているに
違いない。多分今頃は二人で俺のことを待っているはずだ。
 アパートの階段を昇る。
 見慣れた街、見慣れた風景。生まれ育った街の景色はどれほどの時間をかけ
ても見飽きることだけはない。雑多な下町の匂い、有機的に溢れる光、不協和
音の塊みたいな雑音。嫌いでどうしようもなかった街の風景。
「今戻った」
 扉を開き、挨拶。一人で住んでいるときから続けている習慣だ。
「あ、宮沢さん。おかえりなさいです」
 今は答を返してくれる人がいる。それだけで帰る道すがらの街並みが、あの
嫌いで仕方のなかった風景が温かく見える。
 ……と、上手くまとめようと思ったがどうも声のトーンがおかしい。
「ひかり。どうかしたのか」
 ひかりの声は聞きなれている。その声が少し寂しそうに響いたことだってす
ぐ分かる。
「あ、その、なんでもないです」
 無理な笑顔を作るひかりの頭に手を置いて撫でる。ひなたと違って手の届く
場所にいるのだから、存分にそうしてやる。
「あの、どうして頭に手を置くんですか」
 決まっている。俺がそうしたいからだ。そうしてやらなければ俺が寂しいか
らだ。別にひかりのためじゃない。
「ひかり、元気ないぞ。浦上となんかあったのか?」
 こうやって誰かを心配する自分を格好いいと思う。その格好よさだけで明日
も頑張ろうと思う。なんて自己中心的で、自己満足な考えなのだろう。
「……え、いいえ。何も、ありません。ほんとうです」
 つくづく嘘をつくのが苦手なひかりに思わず苦笑。これでは全身で「浦上と
何かあった」といっているようなものだ。状況から察するに浦上とひかりはこ
こまで仲良く帰ってきたものの、その後何らかのトラブルでも起こしたのだろ
う。
 しかし、あの浦上と一悶着とは珍しい。浦上は温厚を絵に描いて差しさわり
のない色付けをしたような存在だ。誰かの気に触れるようなことなんて絶対に
しない。いや、確かに俺が浦上に腹を立てたことも少なからずある。が、その
全てが無意味に自分を卑下して謝罪する浦上を正したものだった。それはとも
かく、一悶着があったとするのなら、ほぼ間違いなく原因はひかりだ。
 家の中を観察する。
 とりあえず浦上はここにいない。ならば、事を急ぐこともない。ひかりが自
分から話すようになれば、そのときこそじっくり時間を割いてやろう。
「ひかり、もう食事は済ませたのか」
「はい、済ませました。宮沢さんの分はしっかりとっています」
「ん、ありがとう」
 嘘だ。ひかりは食事をしていないはずだ。自分で皿を洗うことすらないひか
りが今日に限って全部片付けることなんてありえない。
 鍋を開けると案の定、三人分の食事。食事を作り終えた後にトラブル発生か。
「あの、今日は牛肉が安くてですね、それで肉じゃがにしたんです」
 うん、おいしそうにできている。そしてまだ湯気が立っている。浦上がここ
を出たのはついさっきのことなのだろう。
「おいしそうだな。ほら、食器だぜ」
「もう出しました」
「俺の分じゃない。食べてないんだろう。二人分出せ」
 ひかりが縮こまる。嘘をついたことへの後ろめたさだろうか。
「あの、私」
 なんというか、天使ならもう少し威厳のかけらでも見せてくれればいいのだ
が。
「いろいろ考えるのは後だ。まずは食べろ。そうしないとロクな考えも浮かん
で来ない」
 ひかりに手を出す。だが、ひかりはうつむいたまま動かない。
「……あのですね」
 少しため息。男手では娘を育てるのは苦労するらしい。こんなとき、浦上が
いてくれるとどれだけ助かることだろう。
「言ってみろ」
「少し外を散歩したいです」
 ついていこうか、と言うほどに愚かでもない。半瞬考える。
「あまり遅くなるなよ。金は持ってるか?」
 結局、俺の心配してやれるのはそれくらいだ。心配する代わりに信じてやる
のもまた、一つの道だと思い直す。自分に対する言い訳と言ってくれるな。
「あ、はい……少し外に出るだけなので、お金は」
「嘘つけ。ほら」
 財布から紙幣を二枚ほど掴み、靴を履いていたひかりの手に握らせる。
「ほんとに……申し訳ございません」
 なぜ泣く。こんなことしかできない俺への哀れみだろうか。
「明日は浦上と出かけるんだ。早めに帰ってこいよ。夜道には気をつけて街灯
のあるところを歩くんだ。俺の電話番号は知っているな。何かあったら呼ぶん
だぞ」
「……はい」
 コートを取って、肩にかけてやる。
「いってらっしゃい、ひかり」
 送り出した。ひかりの小さな背中が物陰に消えるまで扉を開けていた。
 気づいたときには耐え難いような沈黙。もし、ひかりがいなくなるようなこ
とがあれば、俺はこの静寂に耐えられるだろうか。
 さて。
 浦上の作り置いた食事を口に運び、教科書を広げ、論文とにらめっこし、翻
訳サイトに単語を突っ込んで勉強をする振り。コーヒーを五回入れたものの、
二回は冷え切らせて淹れ直し。
 時計を見る。
 午前一時。
 ひかりはまだ、帰ってこない。
 家出、というやつだ。まったく、長い一日である。
 ためらうことはどこにもない。ひかりを探しに行くべきだろう。ここまでき
たからには、もはや不干渉なんて言っていられる状態ではない。仮にも俺が預
かっているのだ。何かあってからでは遅い。
 と、その前にこの騒動の張本人に出てきてもらおう。
 押しなれた番号、コール三回。
『……』
「浦上、空がきれいな夜だな」
 受話器の向こうの相手に話しかける。
『……宮沢、くん』
 寝ぼけた声でもなんでもない浦上の声と受話器を挟んで繋がる。
「やっぱり起きていたんだな」
『うん、ちょっとね』
 クラクションの音が聞こえた。浦上の声が弱々しい。
「外、か」
『うん、ちょっと、ね』
 なら話は楽だ。
「今、どこにいる」
『……うん、ちょっとね』
 答えないか。悪いがこればかりは俺にも引けない。いくら踏み込まないといっ
ても、限度はある。今、俺の中では浦上の比重はひかりよりも軽い。
「時間がない。簡単に言うぞ。分かっていると思うが、ひかりが家を出て行っ
たきり帰ってこない」
『……うん、そうだよね』
「浦上に心当たりはないか?」
『宮沢くん……どうして、ひかりちゃんを探そうとするの』
「ひかりはこの家に住んでいるんだ。ほんとうの家族が来るまでの間は俺が責
任を持っているんだ。そう宣言したろ。だから家族を心配するのは俺の役目だ」
『でも、ほんとうの家族じゃないよ。関係、ないんだよ。ひかりちゃんを放っ
ておいても、誰も傷つかないんだよ。仮に家族でも、家族同士でも傷つける人
だっているんだよ。なのに』
 浦上の暴言とも思える言葉への反論はやめておく。
 そう、浦上こそ関係ないくせに探してくれているのだ。だから、返すべきは
俺の本心。
「浦上。お前には言ったことないから言っておく。俺、両親にとってはあんま
り必要な子供ではなかったんだ。お前の言うとおり、傷つけあうだけの家族だっ
ている」
『えっ』
「そんなこと子供でもすぐ分かるだろ。だから俺もよく家出した。するとさ、
普段は鬱陶しがられるだけの俺だったけど、そのときだけは両親が寝ずに探し
てくれるんだ。それが嬉しくてさ、普段はけんかばっかりの両親がそのときだ
け一緒になってさ」
 とても嬉しかった。だから家出を繰り返した。俺が家出すれば両親が仲良く
なった。それが俺の存在の証明だった。
 その両親も今はいない。
 せっかくよりを戻して二人だけの旅行を楽しんでいるときに死んだ。
 ざまあみろ、自業自得だと思うことにした。今でも必死でそう思うことにし
ている。
「あんな親でも俺を捜してくれたんだ。だから俺もひかりを探す。頼む、力を
貸してくれ」
『……うん』
 理由はわからない。だが、今の返事が浦上の本心を聞いた初めてだと思った。
「浦上、教えてくれ。エルベから帰って食事を作って、それから何があったん
だ」
『……それは』
 畳み掛ける。
「悪いけど浦上。俺は浦上を一人で放っておくことをためらわない。浦上は強
い奴だからな、俺がいなくても生きていける。でもひかりは一人じゃ生きてい
けない。もし浦上が隠すなら、俺にだって考えがある」
『……』
 くそ、そこは黙ってくれるな。
「いや、俺のほうが割りを食らうことだ。俺は浦上がいないと基本的な生活も
出来ない。やっぱ取り消した。頼むから教えてくれ」
 やっぱり冷酷にはなれん。素直に頭を下げているほうが俺らしい。
『……スポーツバッグ』
「ん?」
『うん、今、ひかりちゃんの持っていたスポーツバッグはある?』
 ああ、ひかりがここにきたときに持っていた新品のバッグか。恐らく生活道
具でも入っているのかと思ったが、あそこから何かを取り出しているのを見た
ような記憶がない。
「浦上、スポーツバッグがどうしたんだ」
『ごめんなさい。私、ひかりちゃんを叩いて。私が悪いのに、私が全部悪いの
に、悪いのに』
 今は告白を聞いている暇なんてない。ひかりと浦上はこの家で一緒に食事を
し、そしてスポーツバッグの中身をひかりが見せたのか浦上が見たのか、それ
が引き金となって浦上がひかりを叩いた。そういうところか。
 スポーツバッグの中身を見たいが、それは後回しにしよう。
「なあ、浦上。今どこにいるんだ」
『……東羽山第三公園』
 なんだ、すぐそこじゃないか。
「わかった。俺も行く」
 電話を切り、コートを羽織ってバイクのキーを持つ。ついでに懐に封を切ら
ないカイロ、途中の自販機で缶コーヒー。浦上ならおいしい紅茶でも淹れて持っ
てきてくれそうだが、俺は缶コーヒーが限界だ。
 バイクで夜の道を走る。


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