ひかりに対する基本方針は決まったものの、その内容は「話し合う機会を作 ってその場を凌ごう」という小学校の終わりの会程度のものであるため、やっ ていることは奇怪な共同生活である。まことにアホらしいことだが、一応一日 の流れを書いておこうと思う。 朝、俺は居間で寝ているひかりを起こす。大抵の場合は四回くらい声をかけ て二回くらい布団をひっぺがえさないと目を開けない。ひかりを起こしながら 朝食を作る。ひかりが家に来た朝は浦上が朝食を作ってくれたが、あれはイレ ギュラーだ。朝食はパンとご飯の両方を試したが、ご飯の方がひかりの機嫌も いいので最近はもっぱら白いご飯に味噌汁を作っている。ここ数日で分かった ことだが、ひかりは家事の類が壊滅的にできない。せめても皿洗いくらいさせ てみると、綺麗になったものよりも割れたほうが多かった。俺に何か恨みがあ るとしか思えない。というか基本的に面倒くさがりやなので何か用事をさせよ うとすると居間に引っ込んでしまう。 それでも俺が家を出るときには廊下で笑顔を向けて手を振る。その笑顔だけ で許してしまう俺は多分子育てを間違うに違いない。ひかりが笑うだけで、五 メートルもない廊下が明るくなったような、そんな気がする。それだけで一日 を頑張り、戻ってこようとすら思う。 俺はそんな感じで学校に行くのだが、俺が学校に行っている間ひかりが何を しているのか具体的なところは知らない。というわけで以下は俺の推測だ。俺 が学校から戻ってくると、大抵の場合ひかりの靴は同じところにある。それど ころか家の中で動かした形跡のあるものといえば俺が造り置きしているひかり の昼食くらいだ。どうも家の外に出ている形跡がないどころか、家の中ですら 動いていないらしい。想像するに延々コタツで暮らしているようだ。まさにニー ト。保護責任者としては何かしてやらねばならないのだろうが、かといって勉 学を押し付けるわけにもいかない。制服だけは立派なものを着用しているが、 中身は勉強や努力といったものから程遠い。 学校からの帰りは大抵浦上と一緒だ。前は三日に一度ほどだったが、ひかり が来てからは毎日が浦上とひかりとの三人の夕食である。帰るついでに買って きた食材で浦上が夕食を作り、その間はひかりとほんとうにどうでもいい会話 に専念しながら洗濯物を畳む。 夕食を三人で囲み、いつもどおりワンテンポ遅れた浦上の返事とあさっての 方向にしか話の進まないひかりに突っ込みを入れて、十時過ぎには浦上が帰宅 し、それを見送ったひかりが寝る。ようやく復習でもできる時間が訪れる、は ずなのだが最近はひかりが邪魔をするようになった。どうやら夜更かしが板に ついたらしく、どうでもいい会話と体当たり作戦で勉強の邪魔をしてくる。精 神年齢が多少幼いとはいえ、ひかりだってそれなりの年齢だ。あまり身体を引っ 付けられるもの困るのだが、邪険にもできない。 そんな毎日をまさに無為に繰り返しているわけだ。 時間は午後六時。冬の太陽はとっくに沈み、いつにも増して冷たい風が通り 抜ける。 「寒いな」 一日を終えて浦上と二人で帰宅。俺の手には学校の荷物に加え、近くのスー パーで購入した練り物その他の入った買い物袋がある。 「もうすぐあったまるよ」 優しく響く浦上の声。浦上は顔も頭も、そして人当たりもいいが、何よりも いいのは「声」だ。女性としては少し低めで、例えるなら木管楽器の持つよう な温かみに溢れたきれいな波形。少し関西の訛りがあったことを彷彿とさせる ようなアクセント。その声だけで、俺が触れてはならないほどの神聖さを感じ てしまう。 アパートが見えた。 「俺、先に鍵を開けておく」 なんとなく話しかけるのが恥ずかしくなって、小走りで玄関に向かう。鍵を 取り出し、呼び鈴を押してから開錠。 「ただいま、ひかり」 「あ……浦上さんは……?」 「こら、お迎えしたんだから『おかえりなさい』でしょう、ひかりちゃん」 後ろから浦上が顔をのぞかせる。 「まあ、浦上」 「だめだよ、ひかりちゃん」 「はーい。えっと、おかえりなさい」 そこで笑顔。 「おう、ただいま、ひかり」 「うん、ただいま、ひかりちゃん。あ、おいしそうにできてる」 浦上が先に上がりこみ、俺の手から荷物を受け取る。目線の向かう先は台所 の鍋。俺も中を見る。 「……なるほど。それでいい匂いがしていたのか」 朝のことを思い出す。そういえば今日は朝から浦上が家に現れて台所でごそ ごそしていたが、聞いても何も教えてくれなかった。その理由がこの、よく煮 込まれたおでんである。 もうすぐあったまるよ。 なるほど。 「うん、今日は寒いし、ちょうどいいかなと思って」 さすが浦上だ。頭脳はインテルクアッドコア、ボディはカワサキ・ニンジャ、 燃費はプリウス、見た目はブルーリボン賞。一つでいいから俺にも能力を分け て欲しい。 「ひかりちゃん、これがクジラの皮の部分で『コロ』って言うんだ。おでんに 入れると牛すじよりいい味が出るんだ」 「……そうなんですか。でも、あまりおいしくないです」 クジラのコロか。また乙なものを。 「大根はね、一度温めてから冷ますと味が染み込むの。お醤油を入れると色は つくけど味が染みこんでいないときがあるから注意しないとね。それからおで んの後の出汁でひじきとか千切り大根を煮込むとおいしく出来上がるんだ」 「へえ、そうなんですか浦上さん」 「うん、それから大根の面取りだけど」 俺が一生使わなさそうな知識をひかりに教え込む。きっとウィキペディアか ら某知恵袋まで実装しているに違いない。俺にできることはチューブ入りのか らしを持ってくることくらいだ。こうやって浦上が家庭科をレクチャーする成 果が出ればいいのだが。 三人で食卓を囲み、よく味の染みたおでんを食べる。問題があるとすれば、 夕食の買い物の値段は浦上が支払っていることだろう。一度食費を渡そうとし たことがあるが笑顔で断られてしまった。浦上によると「お母さんが使いきれ ないほどお小遣いをくれる」などとふざけたことを言ったので金をひっこめた。 金は天下の回り物。使えないなら俺が使う。俺は資本主義社会に貢献している に違いない。それにしても 「浦上、家には帰らなくて平気なのか?」 「はい、私も帰っていません」 ひかり、頑張って会話に参加しようとしなくとも後で十分に相手してやる。 「大丈夫だよ。お父さんもお母さんもダメなことはダメって言うよ。それにお 母さんが言ってた。宮沢くんとこなら安心、って」 浦上の両親が非常におおらかで優しい人であるのは知っているが、そこまで 安心と言われると逆に納得いかないものがこみ上げる。仮にも同級生の男の家、 しかも両親不在に入り浸っているのだ。 「でも分かります。宮沢さんなら大丈夫っぽいという気がしました」 「そうだよね、ひかりちゃん。そう思うよね。宮沢くんって無害だよね」 ひかりと浦上が意気投合。この二人は姉妹と言うよりは母娘というところか。 無害な人間は往々にして有益でもないことが多いのだが、まあいい。その笑顔 を見ていると、もう浦上がこの家に来る理由を聞く気持ちは消えた。浦上は今、 誰に拘束されることもなくこの家にいる。それで十分だ。 夜十時。浦上は帰った。言われたとおりにおでんの出汁を別の容器にこし取 り、その他の洗い物を終える。本来ならここで学生らしく勉強に勤しむところ であるが、最近はひかりの相手をすることが多い。 ふすまを開けて居間に向かう。 「あ、宮沢さんです」 そんなに喜ばなくとも俺以外の誰も出てこない。テレビを消して、ひかりの 隣に座る。ほんの少し空いてしまっていたカーテンの間から月がのぞく。 「……空がきれいだな」 その月の姿が行き場のないひかりと重なる。 「そうですね。空、きれいです」 冬の夜空は痛いほどに澄み渡っている。 「外、出るか」 「はい、行きましょう」 ちょっとした気まぐれ、だ。玄関を閉め、外に出た。俺はジャケット、ひか りは学校の制服に引っ付いてきたダッフルコート。相変わらず俺の腕にしがみ つく小さな身体が無性に愛おしい。体重があるかどうかも疑わしいほど小柄で、 ほんとうに空を飛びそうなほどに身軽で、どこか神秘なものを秘めた姿。女の 子というものはみんなそんなものなのだろうか。中身はずっと子供の癖に浦上 とは違う気高さと凛とした空気を運ぶ。いろんなときにいろんな気分で渡った 橋を過ぎ、川の匂いを感じ、腕の温かさに少し気を取られ、何の会話を交わす でもなく土手を歩く。 寄せる身体をそっと抱いてみる。 「宮沢さん、どうかしましたか?」 返事はしなかった。言葉にならなかったからだ。 その心を言葉にするのは野暮、というものだ。 こいつを、この温もりを俺一人で全てから守ってやりたいと思う心。何を敵 に回しても勝てると思える万能感。それが子供の成長を妨げたとしても、自分 の全てを、他人の何かすら捧げさせてもいいと思う心。自己中心的で、反社会 的で、それでいて人間らしい気持ち。 「月が高いですね、宮沢さん」 「ああ、冬だからな」 昔の有名な俳句に「月天心 貧しき町を 通りけり」なんてのがあるが、天 心に輝く月は冬のものであるような気がする。 「明日も晴れそうですね」 「ああ、そうだな」 「少し嬉しいです」 俺と同じ孤独を感じさせることだけはしてはいけない、そう思う。強く、強 く心に思う。俺が何か言わない限りずっと閉じこもっていて、ものぐさで、ど こか人を見透かしていて、自称天使の少女の言葉が今の俺にはありがたい。 「……あのですね」 ベンチに座り、浦上の用意してくれた温かい紅茶を淹れてやる。 「どうかしたか、ひかり」 どうして他人の名前を呼ぶだけでこんなにも温かな気持ちになれるのだろう。 「空の星って無数にあるように見えます」 「そう、見えるな」 「でも、数えてみると五千個くらいしかないって知っていますか?」 知っている。星は無数にあれど、見えている星はその程度だ。都会だとはる かに少ないだろう。 「死んだ人が星になるのだとしたら、五千個という数はあまりにも少ないです」 そうだろうか。 「どうして、そう思う?」 五千もあれば、俺は十分だと思う。 「だって、それ以外の人はどうなるんですか。星になれなかった人は、自分が 生きた証を残せません。それでは悲しいではないですか」 ……そうか。それほどに考えが及ぶならあと少し、だ。 「なぜそれが悲しいんだ?」 聞いてやる。 「そういう願いがとても多いから、です。天使の叶える願いの多くは、『生き た証を遺したい』という類のものです。ですが、死んだ後も証が残るための椅 子は少ないものです。たくさんの人が願いを叶えられずに死んでいきます」 天使という設定を今は信じることにして、ひかりに言葉を返す。 「ひかり。願いが叶わないのは悲しい。とても悲しいことだ」 そう、この世にはどれほど即物的な願いであっても、叶わぬことが多すぎる。 生きていくことは、こんなにも難しい。 「だから私たちが願いを叶えるんです」 だろうな。だから人間は神に祈り、超常的な力を祈願する。 「ひかり、俺の膝の上に乗ってみろ」 だが、願いを叶えるのはそんな奇跡に頼らなくてもいい。ほんとうなら、そ れを伝えるのは俺の役割ではないのだろうが、今は俺が保護者だ。 「……あの、では失礼します」 ひかりが腰を浮かし、俺の膝の上に座る。小さな温かさが気持ちいい。 ああ、こういうことか。今から言おうとしていることを自分で納得する。 「俺には他人の願いを叶えるほどの力はない。現実的な手段だって持ち合わせ ていない。正直自分が生きるだけで精一杯だ」 いろんな思いが巡る。 両親の不和と別れ。普通に暮らしたいという願いすら叶わなかった日々。苦 しかった生活。浦上と出会うまでの彩のない世界。この世は広いというのに、 自分が生きるだけの場所を確保するだけで精一杯だ。大切な人を、ひかりの重 みを支えることのなんと恐ろしいことか。 「ほら、俺は今自分が腰をかけるだけで精一杯だ」 ひかりの頭を撫でる。 「でも、こうやって俺の上にひかりが座ることはできる。ひかりは軽いからな。 俺が頑張りに頑張ってかなえることの出来る幸せだ。それ以上を望むつもりは ない」 そう、俺は今座ることができている。そしてその上に人を乗せることができ る。なら、それで十分だ。有名でなくとも、名を遺さなくとも、多少蔑まれよ うとも後ろ指を差されようとも構わない。俺の持っているかすかな温かさが大 切な人に伝われば、それで十分だ。俺は主役と背景なら、背景でありたいと思 う。ひかりの当たる場所にいるべき適役に主役を譲ろう。 「……いや、できれば俺の隣にもう一人くらい座ってくれると嬉しい、かな」 浦上、とか。いや、あいつは主役か。 「それ、叶えてくれないか、ひかり」 心底思った。俺と浦上が一緒に座れる場所の存在を。そして俺の上に座る幸 せを。この幸せが続くことを。 「……くー」 「って寝たかのかよ」 ったく。 膝から降ろし、おんぶしてやる。俺が支えられるのはせいぜいひかりくらい だ。 |
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