換気扇をまわし、水を張った鍋をコンロに置く。湯だったら出汁の素と冷蔵 庫のご飯を投入する予定。その間にお茶の用意。電気ポットから急須にお湯を 注ぎ、緑茶の葉が開く。二日酔いの頭には気持ちいい香りだ。なんとう文化的 生活。湯飲みを二つ取り出し 「お茶でも飲むか」 「あ、はい」 リビングに正座する少女に声を掛ける。ここで警察に踏み込まれれば誘拐の 現行犯かもしれないがそのときはそのときだ。おとなしく居直ろう。 「どうぞ」 「あ、どうもです」 湯気に曇る眼鏡を服で拭き、お茶を口に含む。頬杖をついて前に座るそいつ を再度注視。 別に天使というほど高貴なものではないだろう。例えるなら将来きれいにな る要素に満ち溢れた原石というところか。そういえば見掛けに似合わず横顔な んかは大人びている……なんか表現がおっさん臭いな、俺。これがもしやロリ の気というやつか。 「寒さは和らいだか」 「はい、とりあえずは」 「よかったら風呂も張ってやるぞ」 「いえ、そこまでは……その、覗かれても」 「覗かねえよっ!」 そんなに見てほしけりゃ見られる身体になれ。 「それは差別です」 「差別されて当然だ」 ま、それほどの憎たれ口を叩けるのなら温まっている証拠だ。 「で、いつからこの家の前に立っていたんだ。もしかしてその辺で変な男にで もつけまわされたのか」 話を切り出す。 「えっと、変な男の人って……」 視線がこちらを向く。どうやらけんかを売られているらしい。 「あのな、俺はお前のような女にはさして興味ない」 「男に興味があるんですか?」 「いや、それも」 「不道徳かもしれませんが、神様が許さなくとも私が許します。同性同士とい うのもまた……愛です」 聞いてねえ。というか聞きたくねえ。付け加えるとこんなガキに愛を説かれ るとは俺も終わりだ。しかも腐ってやがる。 「お前の価値観を否定はしないが妄想は他所でやってくれ。今はお前がこの家 の前に来た理由だ。変な奴につけまわされたのでなければ、なぜここに来た?」 「はい、変な人に付けまわされたわけではありません」 このあたりで変な奴に絡まれることはありえない。これは自信をもって言う ことができる。というのも、この街では数年前、結構大きな殺人事件が起こっ たらしい。「らしい」というのも加害者が未成年だったらしく、被害者も家族 だったらしく、報道もされなかったからだ。で、その事件以来、町内会が警備 員を雇うようになった。この街は外部に対し、安全である。ひかりが変な奴に 付けまわされることはない。 「言いたくなけりゃ深くは聞かん」 「あの、申し訳ないですが」 そう、どうせ深く聞く必要なんてないんだ。これほど分かりやすい話なんて ない。 「家出したんだろ、お前」 それが俺なりの結論だ。ひかりの年頃、後先考えない服装、新品のスポーツ バッグ、朝っぱらから切羽詰った様子。良家の子女のささやかな反抗、という ところか。 「え、その、確かに住んでいるところは出てきましたけど」 ったくな。いくら家出でも適当に声をかけられた男の部屋に入るのはどうか している。俺でなければえらい目に遭っているところだ。 「咎めるわけじゃない。そういう時期もあるだろ。俺も家出の常習犯だった。 でも、頭は冷やせ」 「違います。家出とかそんなのじゃないです。私はここに……初めてなんです、 ほんとうです。その初めて、なのに」 待て。台詞だけを聞くと俺が非情かつ人道にもとる行為をしたようではない か。俺はそういう危ないボケに突っ込めるほど経験豊かな人間ではない。 「やっちまったことは仕方ない。なら今からのことを考えよう。俺はあと一時 間とちょっとで家を出る。お前がここで休みたいなら勝手に家を使ってもいい。 冷蔵庫の中身も好きに食べ漁ってくれてかまわん」 「でも、」 引き出しを探ってかわいらしい封筒をひっくり返す。ほんとうはこいつにや るつもりなんてなかったのだけれど。 「ほら、合鍵。あとは郵便受けにでも放り込んでおいてく……げ」 なぜか本格的に泣き出していた。 言うまでもないが相手が何歳であれ、女の涙は反則である。男は女の涙に弱 くなるように進化の過程で学んできたに違いない。それとも女の涙に弱い男だ けが子孫を残してきた生存競争の成れの果てか。難儀だな、男。 「落ち着け、俺が悪かった」 こうなると男には謝るしか方法がない。いや、別に子孫を残したいからでは ないぞ。さすがに目の前の女の子に欲情したら断種ものだ。 「……私は、あなたの望みを叶えにきたんです。天使なんです、ほんとうです。 信じてください。家出じゃありません」 よく「神を信じよ」なんていうが、天使の方から信じてくれなどと言われた のは俺くらいだろう。 「願いを叶えてくれるって言ってたよな」 「はい。なんでも叶えます」 こういう場合、大抵代償を求められるものと決まっているのだが。 「俺の魂でも取っていくのか」 「いえ、ただの魂には興味ありません」 誰だよお前。もしかして俺は世界を大いに盛り上げると自称するアホ組織に 通報すべきか。そんな厄介ごとはごめんだ。とりあえず状況を整理する。 扉を開けた→見知らぬ少女発生→天使と名乗る→俺の望みを叶えるらしい→ 泣き出した(今ここ)→まさかの急展開? 三文字熟語で超展開、四文字熟語で荒唐無稽。 こいつの家か警察にでも連絡しようと思っていたが、もしかすると別のとこ ろも考えるべきかもしれない。 「とりあえず名前を聞かせてくれないか」 「えっと、名前はまだありません」 名前がないとは、またたいそうないい訳だ。 「なぜ名前がないと言うんだ」 というか隠すにしてももう少しうまい言い訳を考えろ。記憶喪失の方が説得 力もある。 「名前がないのはまだ仕事をしたことがないからです。それで、あのですね」 「言ってみろ」 「厚かましいお願いですが、よかったら私に名前をつけてください」 捨て猫みたいな設定だ。 「なら俺がお前のことを『メス豚』と名づければお前はそれを名前にするんだ な。『私はメス豚です』って自己紹介するのか。しろよ」 「はい、かわいらしい名前がいいです」 人の話を聞いちゃいねえ。 「ならタマ。かわいいだろ。昔近所にいた三毛猫だぜ。いつの間にかいなくなっ たんだが」 「女の子っぽい名前って素敵ですよね。私、そんな名前にしようと思っている んです」 俺は無視か。 「なら……『ひかり』ってのはどうだ。朝っぱらから太陽を見せられた俺の恨 み節のこもった女の子らしくて可愛らしい名前だ。喜べ」 ほんとうは違う。こいつが入ってきたときの朝の日差しがきれいだったから。 だから「ひかり」という名前にした。 「ひかり、ですか」 「そう、女の子らしいだろ」 「いい名前です。ありがとうございます。これで、私も半人前です」 残り半分はなんだ。まさか優しさか。 「それで、いつ帰るつもりだ?」 「はい。あなたの望みを叶えたとき、私は帰ります」 中学生の英訳みたいな日本語である。 「じゃ、俺が何も望まなければ帰らない、と」 「はい、帰りません。といいますか、帰れないのです」 俺の願いをかなえるまで帰れない、ということか。勝手に押しかけて帰らな いという厚かましさはともかく、こいつが筋肉隆々の超兄貴的天使でなくてほ んとうによかった。兄貴的存在は労働力にはなるだろうが一緒に暮らす趣味は ない。どうせなら小さめの女の子と暮らすほうが俺はいい。が、これが逆で、 俺がもし中学校女子の部屋に居座れば裁判なしで悪即断だろう。 「なら望んでやる。車に気をつけて家に帰れ。なんなら送ってやるぞ」 ひかりは半秒の思案顔。そして 「それは私の管轄外ですね」 役所みたいな言い訳をきっぱりとした声で言う。 「なんでだよ。俺の望みを叶えるんだろ? 管轄外ってそんな理由があるのか?」 神の世界も予算に苦しんだり談合で叩かれたりするのだろうか。 「いえ、私はその人が心底願う祈りしか叶えられないのです。それにあなたは 『帰って欲しい』と心の底から願っているわけではありません。だから叶える のは無理です」 いや、ひかりの言うことは違う。 「帰って欲しいのは本気だ」 今すぐ帰れとは思っていない。そう、迷惑とかそういうものではない。 子供は親元に帰るべき。どれほど酷い親であってもそれがこの世の理だと俺 は信じている。 が、現時点でひかりを出て行かせるつもりは全くない。天使という設定はと もかく、ひかりは薄着一枚でここに現れた。こんな冬空の下に放り出せるはず などない。どんな理由であれ、ひかりを正当に保護できる人間が出てくるまで は俺が保護してやらねばならん。 では、誰がひかりを保護する適任か? 思いつくのはひかりの親族か、警察か、社会福祉関係か。 親族→とりあえず話しそうな気配がない。 警察→説明がややこしい上に最終手段。 福祉→緊急措置には役立たず。 ということで、俺が一番信用できる人間であり、一番的確な判断を下してく れるであろう奴に任せることにした。携帯電話を取り出す。押し慣れた番号、 「あの、どちらへ」 ひかりが突然立ち上がった。 「ひかりを何とかしてくれそうなところだ」 押した。呼び鈴が右耳に、ひかりの息を呑む音が左耳に。そして 「だめですっ、そんな」 意を決したのか、ひかりが立ち上がって向かってくる。 「こら、行儀が悪いぞひかり」 飛び掛かかってくる。が、ハムスター程度に牙をむかれても愛くるしさが増 すばかりである。ひかりの突進を左手だけで押さえ込み、悠々と電話に向かう。 「やめてくださいっ」 お、爪を立て始めた。小学生のけんかだ。 「心配すんな。俺の信用できるところに電話しているだけだ。すぐに来てくれ る」 「でも」 『……そろそろ気づいて欲しいんだけどな。宮沢くん』 あ。 「もしかして」 『おはよう。それから昨日はお疲れ様。もしかして痴話げんか? 私に内緒で? いつの間に?』 三つも質問か。 「ああ、おはよう。期待を裏切るようで悪いが断じて痴話げんかではない」 俺にしがみついて鼻水までつけてきたひかりが顔を上げる。 『そうなんだ。でも女の子の泣き声が聞こえるよ』 待て。 「涙を浮かべている程度だぞ」 『ほら。やっぱり誰か一緒にいるんだ』 「な」 もしかして今のがブラフというやつか。 『部屋に女の子がいて、とりあえず困っているんだよね?』 「……ああ、よくわかったな。とりあえず来てくれないか」 そういえば俺の方から「来てくれないか」なんて言ったのは初めてではない だろうか。 『うん。わかったよ。すぐ行くね』 「すまんな」 『それで、必要なものは?』 「ああ、女物の服を一式。サイズは小さめで」 『え、もしかして脱がしちゃったの?』 絶対ねえよ。 「いや、実はな……」 続けた。それは朝玄関を開けたら飛び込んできた自称天使、ひかりの話を。 『へぇ。最近の流行でいうと、それなんてエロゲって言い回しだよね』 俺の真剣なトークを瞬殺。 「エロはない」 『じゃ、ギャルゲ?』 「いい加減ゲームから離れろ」 というか女だろお前。ため息。 と。 腕にしがみついていたひかりの力が抜ける。涙の滲んだ視線は俺の後ろ。驚 きのせいか、口がぽっかり開いている。 「宮沢くん、おはよ」 そいつが、いた。 |
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