天使というものをご存知だろうか。 そう、羽が生えているアレだ。宗教画だったら逞しい男性、アニメなら母性 の象徴とたおやかな笑顔。神の遣わせた霊的存在で超常的力を持った神秘の権 化。何者にも侵しがたい神聖さと無知ではない清らかさ。それが天使のイメー ジだと思う。 が、天使の世界もいろいろあるものだろう。中には引きこもって「働いたら 負け」と思っている奴もいればメタボでスクワットに勤しむ奴もいるだろうし、 肌の手入れを欠かさない奴もいるに違いない。いじめっ子もいればやたら文才 の飛んでいる奴もいれば最近話題のワーキングプアなんかもいるだろう。 少なくとも今の俺にはそう思える。 これは俺の出会った天使の物語だ。羽も生えていなければ知恵も力もない、 子供で天然ボケで仕事すらまともにこなせなかった、そんな天使の物語だ。伝 えるのは俺の役目だと思う。 ―ひかりの差す玄関― 酒を飲んだ次の日というのは寝覚めが悪い。ああ、分かっている。二日酔い の理由と酵素と遺伝子は俺の専門領域だ。寝る前に水を飲んでおけば症状を軽 減できるのも知っている。 が、そんなこと分かっているくらいなら「酔っ払い」なんているはずもなく 。そもそもそんな理性的な判断ができるなら二日酔いするほど飲むな、という 話もある。 ということで、動物園でピンクの怪獣に追いかけられるという笑えない夢か ら覚めた俺はまず、喉の渇きを覚えた。 カーテンを開ける。屋根に反射した光がまぶしい。 「……さむいな」 季節は冬。場所は下宿。暖房の入っていない部屋は吐く息すら白い。 そうか、暖房は切られていたわけだ。相変わらず仕事は完璧、というところ か。ソニーにも見習って欲しいクオリティである。部屋の中が完全に片付いて いる理由も、ベッドで寝た記憶もないのになぜかベッドの上で目覚る理由も納 得する。どうせ登校すれば会うのだ、礼くらいは言っておこう。 さて。 冷蔵庫からポンジュース取り出し口をつけて飲む。最近のペットボトル入り ポンジュースは濃縮還元に成り下がってしまったが、通販でストレートを入手 する俺はプチ勝ち組だ。これだけで二日酔いの半分くらいは消え去る。朝の不 快感にはあの自然の甘みと酸味がいい。 「が、さすがに飲みすぎたな」 記憶にあるだけでも缶ビール五本に日本酒五合。焼酎は飲んだ記憶が残って いるのみだ。世の中勝てない壁というものは必ず存在するもので、俺だって酒 に強いほうのはずだが、あいつには勝てない。ため息。 玄関を開け、新鮮な朝の空気で肺を満たし、朝の新しい光を 「あのですね、おはようございます」 ……時計を確認。 時刻は八時前。なるほど。日本文化に照らし合わせるまでもなく、おはよう という言葉は至極妥当だ。 が、 「……誰だ?」 お約束のようで申し訳ないが、玄関前にたつそいつは記憶に存在しない。可 能性を考える。 その1、なんかの勧誘。 その2、ご近所の挨拶運動。 その3、生き別れた妹との感動の再会。 個人的には三番目を推したいが、残念ながらそんな裏設定はありえない。 「あの、お、おはようございます」 そうこうしているうちに二度目の挨拶。 「ん、おはよう」 ボケるべきか突っ込むべきかを考えていたが、とりあえず素直に挨拶を返す ことにした。 「おはようございます。新春の折、みなさにはいつもお引き立てありがとうご ざいます」 まさか1か。 「引き立てた記憶はないが」 「そうですよね。私もあまり記憶がないのですがとりあえずそう言えと言われ ていまして」 自分からネタバレか。どこの企業だこんなアホな勧誘員を派遣した奴は。 「で、どちらさん?」 「あのですね、私は天使です」 「……は?」 天使、だと。 「早速ですがご用事を伺いに参りました」 「悪い、天使は間に合っているんだ……って天使だと」 待て。酔っ払って怪しげな店にでも電話したか。天使を一人注文したのか俺。 それは犯罪だぞ、多分。昨日の自分を殴り倒す。 「私、初めてで緊張していますが、きっとうまくやります。練習は積んできま した」 そこで頬を赤く染める自称「天使」。 よくわからんがこのままでは普通に犯罪に手を染めてしまいそうだ。 「悪いが俺には天使に知り合いなどいないし呼んだ記憶もない。仮に呼んでも それは酔っ払った上でも過ちだ。悪かったな」 「はい、確かにあなたが直接私を呼んだわけではありません。私たち天使は本 来なら救いようのない人のもとに行くものです」 まあ、そうだろうな。神様や天使なんてものは救われない人のためにいるよ うなもんだ。俺も決して幸せではないだろうが、もっと適役がいるだろう。と りあえず天使という電波話に突っ込みを入れず、答えることにする。 「なら誰がお前を呼んで、どうしてここに来たんだ。言うのもアレだが、俺は 別に不幸ではない」 少なくとも今は、不幸ではない。 「はい、存じています。詳しいことをいえなくてごめんなさい。私はあなたの 望みを叶えにきたんです。それさえ叶えれば帰ります」 よくわからんが話を合わせると 俺が望みを伝える→叶える→帰る、と。 「なるほど。俺がお前に用事を言えばいいんだな」 「ご理解が早くて助かります!」 満面の笑みで頭を下げる自称天使。一応自分の頬をつねってみるが、夢でな いのは覆しようもない。ったく、二日酔いだけでも頭に痛いというのに朝から なんという地雷。こんなことならもう少し布団の中に入っておくべきだった。 ため息。 まあいい。授業が始まるまで十分な時間がある。しばらく付き合うか。 「あのさ。少し聞いていいか。天使ってことだけど俺のイメージでは天使って 羽が生えているんだよな」 「羽?……あ、もしかして翼のことですか」 羽と翼は違うらしい。下駄とサンダルみたいな関係だろうか。 「そう。翼があってさ、仰々しい剣とか持っている全裸の美少年みたいな」 ま、別に美少女でも構わんのだが、全裸にすると年齢制限がかかりそうなの でやめておく。 「天使は剣なんて持っていません。不用意に武器を携行することは禁じられて います」 天使の世界にも銃刀法でもあるのか。 「それで、翼はですね……私にはまだ生えていませんが、これから生えてくる 予定です」 なるほど、翼というものは毛みたいなもんか。例えが下品だな、失礼。 「大変だな、天使も」 どう返していいのかもわからない超設定を公開され、ため息の代わりの言葉 を返す。 「はい、天使にだって男も女もいてけんかする人も悪いことをする人もいて大 変なんです。年上の人はだらけて仕事しないし、掃除のついでに缶コーヒーを 後払いで買って来いって命令するし、雑用で疲れていると突然夜間練習を言い 渡されるし、ほんと大変なんです」 自衛隊学校みたいだな。神様が気まぐれを起こしたくなる理由も分かったよ うな気がする。俺ならとりあえず天使のリストラでもしてやりたい気分だ。 そろそろ真面目に戻ろう。 正直言って、俺はこいつが「天使」だという妄言など、信じるつもりは全く ない。そう、天使なんてものはいるはずもなく、翼なんてものは生えてくるも のでもない。天使なんてものはおおかた少女趣味な空想の産物だ。目の前のそ いつを詳しく観察する。 まずは性別。これは女で間違いない。出るところは全然出ていないが、声の 質と顔立ちは少女といって差し支えない。たまにこういう顔の男が出てくる困っ たゲームもあるが、とりあえずそういう倒錯した設定は俺が受け付けないので 却下。 年齢は判断できない。女性という生き物は生まれたときから年齢不詳だ。実 は高校生かもしれないし、小学生かもしれない。いずれ十七歳教に入信するの だろう。 そして持ち物。仕事をしにきたらしいが、右手にピザを乗っけているわけで もなければ小包を抱えているわけでもない。当然天使が持っていそうな剣も鎧 もない。代わりに足元には新品のスポーツバッグ。値札がついているところを 見るに、相当の天然ボケか、慌てていたと考えられる。 一番気になるのは服だ。冬だというのに着ているものは白いワンピースの薄 着一枚。せめて下着くらいつけろといいたくなるが、特殊な趣味の人にはたま らんかもしらん。 結論。 「仕方ない、とりあえず入っていけ」 家の中に入れてやることにした。あまりにも寒そうだから、である。 「はい、ありがとうございます」 そうして自称天使が何の不審も抱かず、笑顔で敷居をまたいだ。 |
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