夏、花の島

御伽噺

 男と女がいた。頼るべきものもなく二人は北を目指した。頼るものもない彼
らは長い旅路の果てに着いた最果ての島に住むことにした。北、最果ての森深
き島。そこが遥か遠くから渡ってきた彼らの住処だ。そういえば女の顔にはど
こか都人を思わせる気品があり、男のほうはやつれてはいるものの気丈に見え
る。二人はやがて樹に覆いつくされた孤島の北の果てに小さな家を立て、男は
漁に精を出し、女は森の中に恵みを探した。それは理想郷だった。誰からも追
われることのない北の果ての島だった。
 夏は過ぎ去り、秋が訪れ、凍てつく冬が訪れる。女は身体を壊し、伏せった
。吐いた血が瞬時に凍りつく寒さの中、女は日増しに弱っていった。男はあら
ゆるものを女に与えようとする。だが、女はどんなものも受け付けることが出
来ない。二人の間には会話さえ消えていった。
 それでも島を覆いつくす樹の茂りだけが、彼らの命を守り続けた。森は厳寒
の突風を和らげ、雪は外の熱を締め出す。この島の樹は生きていくためになく
てはならないものだった。自然の摂理か奇跡か、女は何とか厳冬を越すことが
できた。
 季節はめぐり、一瞬の春が過ぎ、夏が訪れる。だが、女の病状は季節とは異
なり、ただ日の経つに連れて悪化する。温かくなれば元気になると信じていた
男の絶望は限界に達していた。男はこれまでの人生を回想する。
 都を追われた日のこと。女だけを連れての逃避。たった二人で行き着いた最
果ての島。それが理想郷だと思っていたこと。この世の果てくらいには自分達
の居場所があると思っていた。そんな覚悟で理想郷が手に入るはずがないと知っ
ていた。女にずっと迷惑をかけ続けていた自分の姿を呪った。
 風の静かな、静かな夜だった。男も、女も悟っていた。その日が二人で過ご
す最後の夜になるだろう、と。だから女が必死に言葉をつむぐ。
 最後に花を見たいのです。島いっぱいに咲く、美しい花を。
 その島は樹に覆われていた。林床は暗く、花が咲くことはなかった。それで
も男は女の願いを聞き入れたい。
 そのためには樹を払わねばいけない。
 男に迷いはなかった。女を海際の岩陰へと連れて行った。そして言う。
 もし生きていれば島に溢れる花を見ることができるだろう。大丈夫、俺はお
前に会う。
 男は沢を登り、その島の高みへと身体を運ぶ。風の強いよく晴れた夏の日、
男は神に祈り、火を放った。火は島の大半を焼き尽くし、命持つもののほぼ全
てを失わせた。全土が焦土と化した後、海際の岩陰にいた女一人が生き残った。
焼け跡に立つ女の身体はこれまでになく軽くなり、顔色もよくなっていた。元
気が戻ったのだ。生きているものが何一つない北、果ての島で。
 女の孤独は何者にも癒せぬほどに深いものだった。それでも女はいずれ男に
会えるという孤独の幻想を信じ、ただ幻想に向かって生きるために生きる。
 二度目の冬を越し、そして三度目の夏が訪れた。男がいなくなってちょうど
一年が経っていた。
 島は樹を失った代償に花に覆われた。色とりどりの花が咲き誇る代償に、遮
るものない突風が吹きつけた。女は花の中をさまよい続ける。男の最後の言葉
を信じて。
 ―――裸足のまま沢の中を登る。青空に続く笹の中の冷たい水。やがて川か
ら水が消え、目の前にはどこかの山頂。青空の高みへと体を運ぶ。
 見たことのない景色が広がっていた。紫色の螺旋のような花。白い、柔らか
な衣をまとった花。稀少な高山植物が惜しげもなく咲く場所。誇ることもなく、
ただ美しく。強い風に揺れるお花畑が幻想的だった。夕暮れが近づいて肌寒く
なる。隣島の山肌が赤く染まる、そんな夕暮れの終わり。
 私は、この世で一番孤独だ。
 ふと、目線に着飾った美しい高山植物の中、岩陰で頭を垂れる黄色い花を見
つけた。小さく地味で。その花を風から守ってあげた―――
 そこが島の一番の高みだった。夏、花の島へと姿を変えた最果ての島の姿が
眼前に広がっていた。色とりどりの花の中、最も慎ましく咲く花を女は眺める。
 女はその花を見て悟る。男が呪いを一身に受ける覚悟をし、花へと姿を変え
たのだ、と。自分のうわごとを最後のはなむけにした男にただ、涙を流し、そ
して男の祈った同じ場所で祈る。
 この島に花の咲く奇跡を代償に、この孤独と幻想を受け入れよう。幾多の私
が呪いの消える日まで永遠に孤独な夏を繰り返し続けよう。
 女は崖から海を見下ろし、身を投じた。
 冷たい風が木陰を抜ける日、秋の近い日のことだった。
 過酷な自然の中、飽きるほどに同じ夏が繰り返し、たとえようのない孤独を
多くの女が引き継ぎ、その幻想に絶望した。数えるのも不可能なほどのある夏、
千島小桜がこの島に住み、奇跡と代償を受け継いだ。
 そして今、最後の夏がもうすぐ終わる。
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