夏、花の島

最終話

 いつもどおりの朝を迎えるまで片付けに勤しんだ。使えそうな日用品は持ち
出すように手配し、いらないものは部屋の一角に固める。父の持ち物は全て不
用、母も多分死んでいるだろうから運び出すべき服も日用品も小物もなし、私
だって今更五年も使っていなかった物を使うこともない。母が延々洗い続けて
きた中学の制服が干されたままになっているのを取り入れておく。全くもって
理解不能な行為を飽きもせずに繰り返す母も、本土の病院で苦しまずに死んだ
だろうか。
 どうでもいい。できることはやった。それ以上他人に干渉すべきではない。
 車とバスを乗り継ぎ、港に立つ頃には夕焼けの時刻になっていた。連絡船の
切符を買って、待合所で船を待つ。あと三十分で出航だ。せっかくなら叔父に
会っておこう。
 強い風が凪いだのに、肌には冷たいものが残る。
 秋だ。
 あと三週間もすれば冷たい風に強いものが混じりこみ、やがてこの島から花
が消えていく、そんな日のはじまり。民宿潮浜の扉を叩く。
「叔父さん、島を出る」
 初めてまともに挨拶をしたような気がする。
「梗ちゃん、上がっていくかい」
 いつも崩さぬ叔父の笑顔が少しだけ孤独に見えた。
「いや、時間もない。ここでいい」
 断った。私の居場所はここにはない。ただ、父と血が繋がっているだけの存
在にこれ以上迷惑をかける必要もない。
「そうかい。いろいろと残しているものは適当に片付けてしまうよ」
「すまない。面倒ばかりを押し付けてしまったが」
 不動産としての家の処分も、民宿の行く末も、柱につけた傷も、置きっぱな
しの自転車も、あの花壇のようなお花畑も。何もかも全て。花の咲くこの島の
全部を任せる。
 そういえば私はここに来てバイトをしていたのだ。
「バイト代は出ないな。十分に使ったし」
 一応聞いてみた。
「そりゃ梗ちゃんの飲みっぷり、激しかったからね。本気で請求したいくらい」
「では私は叔父さんにサービス料を請求させてもらおう」
 お互いに笑う。
「うそうそ、梗ちゃんしっかり手伝ってくれたし。はい、どうぞ」
 用意してあったように、玄関の下駄箱を探る。そうして一枚の大きな封筒を
渡された。
 それは金を入れるには大きすぎる封筒だった。手に取る。重くて、分厚い。
右端に潮浜の住所。そして下には住所。北方方面隊第一航空師団。私の所属と
同じだ。
 そして真ん中にはこう書かれている。
 千島小桜 桔梗様。
 私と母への連絡らしい。送り主
 千島千秋からの。
「ここで目を通させてもらうぞ」
 返事を待たずに封筒の中に手を入れた。
「うん。この場で開けて見てほしい、大事なものだしね」
「わかった。では」
 中から何枚かの紙をつかみ出す。

 千島桔梗殿
 娘に宛てる文章というものは非常に緊張するものであり、言葉遣いも間違っ
ているかもしれないが、そのあたりは適当に流してくれ。私は桔梗ほどに賢い
わけでもなく、なんとか高校を卒業できた程度だ、と言い訳をしておこう。
 これは遺書、ということになる。入隊後は一応遺書を書いておく、というの
がしきたりに従っただけなので、別に死ぬつもりはないとだけ記しておこう。
 北部は激戦区ではあるが、この島にわずかに存在する高山植物の宝庫だと聞
いている。いずれ訪れる平和な時代に向けて調査を行う気持ちで行くので心配
せず待っていろ。桔梗もそろそろ戻ってきていい頃だと思う。十分に強くなり、
私たちをはるかに超えただろう。疲れたらいつでも島に戻ってのんびりしてく
れ。
 今更だが、一応桔梗を叱っておこうと思う。親に黙って家を抜け出すことは
許されることではない。桔梗がいくら偉くなろうとも、顔を合わせれば一発殴っ
てやる。覚悟はしていろ。桔梗の家出は小桜にも多大な心配をかけていた。毎
日のように桔梗のことを気に病んでいた。くれぐれも謝っておくように。
 私たちは桔梗が家を出ることも、あの高校へ進学することもずっと知ってい
た。桔梗は秘密にしていたようだが、全部桔梗の担任が教えてくれた。その上
で見守っていた私たちに感謝するか、恨むかはお前次第ではあるが、私たちは
私たちの選択を後悔していない。多分小桜がこらえきれずに言うだろうと思う
ので、先に明かしておきたいこともある。私たちは一度、桔梗に会いに高校ま
で出かけたことがあった。三年生の学校祭の日だ。舞台の上でこの島の誇りと、
私たちの誇り、そして桔梗自身の意志を演じる姿を見させてもらった。小桜な
んて笑えるほどに泣いていた。それを見て思った。
 桔梗は一人でも生きていける。だが、桔梗には家族の中で、好きな人と生き
ていって欲しい。
 学校祭の次の日、桔梗の話を背の高い男子学生から聞いた。あの男子生徒は
桔梗によく似合うと思う。良かったら声をかけてものにしてしまえ。飲み比べ
で勝てば桔梗の彼氏認定してやろう。つまり、桔梗に彼氏は一生できないとい
うわけだ。あきらめろ。
 桔梗と一緒に酒でも飲んで話し合う時間があればよかったのだが仕方ない。
人生そんなもんだ。代わりに小桜も結構酒が飲める口だから、もし時間が許せ
ば付き合ってやれ。
 最後になるが、いつ桔梗が帰ってきてもいいようにこの島に大きめの花壇を
作った。場所は桔梗の秘密にしていたお花畑、あのあたりだ。大きいというよ
りは長細いといったほうがいいかもしれないが、一度見に行ってほしい。いず
れ基地が無くなった日、そこから新しく花が咲くようにと願ったものだ。いく
つもの年を重ね、いずれ戦争が終わり、初めて迎える夏、この島が花の島に戻っ
てくれることだけが願いだ。桔梗には民宿の経営を頼みたいのだが、とりあえ
ず私の弟に経営を任せる。桔梗には別の道があるだろう。進みたい道に進め。
この島に囚われるだけでは俺の娘不認定だ。
 私は小桜の手を引いてこの島に戻った。桔梗ならもっと遠くまでいけるだろ
う。そして桔梗の上り詰めるはるかなる高みから、この島を見下ろしてやって
くれると、少しだけうれしい。では、行ってくる。身体には十分気をつけろ。

 追伸
 同封のノートは桔梗にやる。元々は小桜が高校の頃つけていた植物観察記録
だが、私が取り込んだままになっていた。小桜によると桔梗に直接渡して欲し
い、とのことだったが無理なのでこんな形で渡しておく。大切に使え。

 千島千秋

 父の律儀な筆が紙の上にあった。
 父にとって私は味方だったのだろうか。
「叔父さん、一応貰っておく。いずれこの文章の意味も理解できるかもしれな
い」
 必死になって父のことを思い出そうとする。筆跡も、身長も、言葉遣いも全
てを再現できる。なのに、そこにあったはずの何かだけは掴むことができない。
だが、この遺書が私の欠落した何かへの鍵になるのだということは分かる。
「うん、思い出す日はきっと来るよ」
 その日まで、私は生きているだろうか。
「いずれにせよ、今の私には不必要な感情だ」
 父のことを思う。いつもふざけているような人だった。口を開けば冗談ばか
り、ノリだけはよくて、客とけんかもすれば宿泊代を取らないこともあった。
趣味で延々と高山植物の話をし、よく酒を飲み、馬鹿なことばかりをしていた。
ほんとうは優しくてとても心配性なくせに母をからかってよろこんでいた。そ
れが私の幸せだったような気がする。
 その思いがあれば生きていけそうな気がする。
「そういえばそこに書いている通り、千秋は民宿の経営を梗ちゃんに任せよう
かと思うんだけどね。今は僕がやっているけど、梗ちゃんがもしよければいつ
でも任せるよ。どうする」
 考えるまでもない。
 私にしか出来ないことはここにはない。
 この国の戦争を終わらせるためには私のような人間が必要だ。それは私自身
をほんとうに狂わせてしまうだろうし、人を苦しませることかもしれない。多
くの人に恨まれることで、多くの悲劇を作り出すことかもしれない。それでも、
私なら最小限の悲劇で終わらせられる。私なら一人でも多くの味方を助け、一
人でも多くの敵を殺すことができる。だから、胸を張って言う。
「この島は叔父さんに任せる。私は父と同じ道を行く。だから、もうこの島と
はお別れだ。多分、二度と戻らない。これが叔父さんとも、この島とも最後だ」
 人間らしい感情とも、最後だ。
 そうして叔父に手を差し出した。私がただの人間で、ただの子供で、ただの
女であったことを覚えていて欲しい、そう思って強く握る。
 強く、強く掌を合わせる。
「そっか。でも帰っておいでよ。今度は叔父さんより格好いい人連れてさ」
 笑い合った。それが最後だった。最後だから笑って、大きく手を振ってそし
て民宿潮浜に背を向けた。二十年前から時の止まった看板も、二車線道路も、
これで終わり。ここから先にはあの都会があって、これまでの生活があって、
そして私の未来がある。五年前、ここから出たときとは少し違う未来が。未来
にはきっと、いいことがある。

 近くの酒屋で缶ビールを買い込んだ。連絡船乗り場には一人、大きなバッグ
を抱えた小さな男の子がいた。その男の子に続いて船に乗り込む。基地からの
見送りは断った。そんな儀礼などこれから嫌ほど受けなければならない。そん
な儀礼に時間を使わせるなどもったいない限りだから。待合室を出た瞬間、強
く吹き付ける風を頬に感じた。そんな冷たい風ですら気持ちいい。向こう岸に
着けば母との生活が待っている。
 タラップの途中で自分の名前が呼ばれるのを聞いた。
 振り返る。ゲート前で門衛をしていた新兵が走ってくる。車から降りて全速
力らしい。遠くから見ていると少しだけ笑えてしまう。こちらから向かってや
ることにした。
「千島だ。どうかしたか」
「准尉、今入った連絡です」
 息を切らせて私に言う。
「どうした、落ち着け。時間は少しくらいならある」
 本気で急ぐのなら問答無用で基地からヘリに乗せられているだろうし、たい
した用事ではないのだろうと察しはつく。少なくともこのまま実戦というわけ
ではなさそうだ。
「それが、准尉のご家族の方のことですが」
 家族といえば母親だろう。ということは
「亡くなったか」
 先に言っておいた。
「はい、方面隊病院に運ばれたときにはもう」
 今日まで伏せてくれていたのだろう。微妙な気の遣い方だ。
「そうか。わかった。ご苦労だった。帰っていい。船の無線使用許可だけは出
しておいてくれ」
 それだけを告げて、背を向け再びタラップを登る。母の死がこの島の薄い大
気の中に拡散し、自然の中に帰っていったような気がした。母の持ち物を実家
から運び出さなくて正解だった。
 母は苦痛を感じずに死ぬことができたのかどうか、それを聞けないのが残念だ。
 五年前、ここで言えなかった一言を今、言う。
「世界なんて滅びてしまえ」
 さよなら、世界。
 世界に別れを告げた。悲しみが来る前に逃げる。この美しすぎる、残酷すぎ
る世界に私は存在できない。私は行く。自分の強さで生きていく。ただの人殺
しになって、それでも生きていく。
 船が汽笛をならし、島に別れを告げる。気持ちの良い秋の風が島を包み、夕
暮れの中に大きな影を落とし込む。灯台の光が冷たく島影に光り、一番星が空
に光る。ただ、単純にきれいだと思った。ふと、エンジン音に混じるその音に
気づいた。
 足元、さっきの小さな男の子が座って泣いていた。旅行者だろうか、それと
も島の基地の子だろうか。味方には間違いない。
 どこからともなく、自分のものとは思えない優しい気持ちが降りてきた。
 バッグからそれを取り出して、近づく。
 頬に当てて
「そんなときは飲め、ほら」
 伸びすぎた髪を切ることにした。
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