夏、花の島

第19話

 走った。生まれて始めて本気で走った。風よりも早かったと思う。風景なん
て関係ない。一歩ごとに花火から遠ざかり、高みへと身体を運んで
 そしてその場所にたどり着いた。この夏の始まった場所だった。五年ぶりの
大気の中、この島の夏の中、出会った場所だった。セミのいない大気の中の夏
の匂いが生まれ、風の集まり、吹き降ろす最初の場所だった。二並の大好きな
高台。走って上りきった。
 確信があった。
 そして求めるものがいた。足元からわずかに響く喧騒を聞く、始まりの場所。
何よりも大切な人。いつもの笑顔もなく、私の方向を見ることもなく、自分と
は無関係なように喧騒の外にいるその人。
 大事なことに気づいた。	
 二並。名前は、なんだろう。
 駆け寄った。一歩ごとに足が宙を踏むような気分になる。身体が無駄に軽く、
この距離で乱れるはずのない呼吸が速くなり。
「二並、ほんとにここばっかりだな」
 そんな言葉が漏れる。夜空の星が冷たく輝いて、地上の喧騒を静かに照らし
出す。この島で誰よりも星に近い場所で、二人だけの舞台。
「敵わないね、ききょうさんには。でも最後の日は一人でいたかったから」
 二並がいつものように笑って答える。
 一人でいたかった。
 心が締め付けられる。それでも自分の心を精一杯に強がって笑い返す。
「お前はどこまでも仕方のない奴だな。嘘でもあのときのようにききょうさん
を待っていたなんて言ってくれれば可愛げもある」
 茶化してから冷たい風に酔いが冷める。二並からの返答はなく、一発目の花
火が上がる。まん丸の、青から赤に色が移り、空の中心で光があふれる。少し
遅れて聞こえる爆発音がこの島の大気を震わせる。セミすら鳴かない北の島の
夏が終わりを告げる。ただただ、悲しいばかりの夏の終わりが始まる。
「僕は嘘をつけないから、ごめん」
 不器用な言葉が続いていた。二並の目がどこまでも優しく、闇の広がる遠く
を見る。その瞳に花火の明かりが反射し、消えていく。
「それで私の願いだ。まだ聞いてもらってすらいない。先に言っておく。嫌な
らそうといってくれ。こんな状態は嫌だ。だから返事は一つでいい。今度は二
並の目を見て言わせてくれ」
 誠意があれば伝わる。そんな子供じみた正論をぶつけた。
「あれが僕の答えだよ。ききょうさんを置いて逃げた最低な奴だと思われるの
が僕の返事。嫌いになれなかったなら、言葉にするしかないけど」
 私を拒むその言葉が優しい笑みの中から出てくる。必死に頭を回転させる。
私は何をして、何を言ったのか。なぜ私が二並を嫌いにならなければいけない
と告げられるのだろうか。
 無理に飲ませてしまったことだろうか。
 二並の突然の抱擁に呆然としてしまったからだろうか。
 それとも基地の中に入ったことだろうか。
 いろんな場面が駆け抜けて消えていく。
 ふたなみ
 その四文字の言葉が喉元まででかかったのを何度もこらえる。ついでに流れ
そうな涙だってこらえて無様な顔をしている。
 こんな顔じゃ、嫌われて当然か。ならいい。
 嫌われているのなら、最後に自分の気持ちくらいぶつけて、それで離れよう。
その気持ちだけを抱えていればいい。最後の夏が成功に終わらなくてもそれは
運命だ。私はこれから先、この人を好きだったという思いだけで生きていける。
 幸せな家庭を築きたかった。私が家に帰ると二並が子供の相手をしていて、
私が突っ込みをいれて。超のつく平凡な幸せを創りあげていきたかった。だか
ら私の全身全霊をかけてこう言おう。それは子供でも知っている言葉。たった
四文字の言葉。
 だいすき。
 答えが否定であってもいい。舞台は夏、花の島。星がスポットライトなら、
花が観客だ。主演は私。調子の外れた場末のオフィーリアで、でも二並は絶対
にハムレットではない。道化師が自分の悲劇に酔いしれるだけ。傍目に見て喜
劇と映れば、それだけで人生に生きる価値はあると思う。
 花火が大きく上がった。どこから見ても丸い、光の刹那。少し遅れて響く音。
「二並、私は言い訳しない。だからお前にも言い訳を許さない。私はお前と一
緒に歩いていきたい。どうだ」
「そんな、それは」
 弾けた。
 言葉を途中で遮る。私の手で二並の口をふさぐ。こんな卑怯な奴を好きになっ
たのならそれは私の汚点だ。汚点だけれど大切な、大切な思い出だ。だから私
はその痕跡を残す。卑怯でも、その形を残してやる。私というごく普通の女の
子がいたということを、誰かの心の中にとどめてほしかった。私の人間として
生きた証が欲しかった。手で押さえた二並の口に私の顔を近づけて
「んっ」
 キスした。ガードレールに二並の身体を挟み込んで強引に。あれほど準備し
ていたから考えるまもなく体が動いた。抱きしめて、口を重ねて、それでじっ
としていた。自分の口で二並の口をふさぎ、そして体の小さな彼を抱きかかえ
て。花火が、どこか遠くで上がる音が聞こえる。自分の胸に抱いた二並の体が
ただ温かくて。強く、強くガードレールに押しつける。それからほんの少し、
口を離して。
「私は、千島桔梗は二並を好きだ。女にここまで言わせて言えない、なんてこ
と許さない。どんな返答でもいい。私があきらめのつくように嫌いだといって
くれていい」
 そしてもう一度全身で押し付ける。寄りかかっているつもりがいつのまにか
抱きしめられていた。長い、長い一瞬だった。
「ごめん。断るよ。僕はききょうさんとは一緒に歩めない」
 それが答だった。
 意外と簡単に受け入れることが出来た。全身の力を抜く。
「そう、か。残念だが、仕方ない。ありがとう。じゃ、次はお前の願いなり、
許して欲しいことなりを言ってくれ」
 自分でもあっけないほどにその現実を受け入れて強引に話題を転換。
「うん。もう必要もなくなったけど一応お願いだけはさせてもらうね」
 聞く。
「ああ、私に出来ることならなんだってする。お前がどう思おうと私はお前の
ことが好きだ、だからな」
 何度も繰り返す。私は二並を好き。絶対に失いたくないその感情を刻む。
「それじゃ、許して欲しいこと」
 長い沈黙があって
「この夏、僕と出会った記憶は消えてしまう。ごめん」
 意味が分からなかった。
「二並、意味がわからない。お前にとって思い出は迷惑かもしれないが、私に
とっては大切なものだ。だいたい私の記憶をどうやって消すっていうんだ。私
がお前を覚えているのは勝手だろう」
 いや
「うん。でもききょうさんは僕を忘れる。僕はここにいないから。今日が僕の
最後の日、だから」
 わかっていた。最初から気づいていた。
 二並なんて人間はいない。
 いくら考えても調べても私の過去に登場しない誰か。いくら見ても人間であ
る部分を感じられない人。それは私がただ、恋をしたいと思って作り出した
「ただ、私が望んで生まれた」
 母と同じ
「そう、僕はききょうさんの幻想だから。最初からこの島には存在していない。
だからこの夏が終われば僕は消える。消える前にききょうさんの記憶から消え
る。別に好きになる必要も、利益もない存在だから」
 夏が終わる。二並が消える。
 いつだって平凡でいいって思っていた。基地の中に住みたくなかったし、一
人だけの大切な場所を見つけるような孤独を抱えたくなかったし、こんな規格
外の能力も欲しくなければ破壊衝動なんていらない、賞賛も尊敬もいらない。
生きるのに必死な思いをしたくなかったし、母は健康であって欲しかった。風
采の上がらない人でいいから普通の恋の相手が欲しかった。
 普通に人を好きと思える心が欲しかった。
 私は贅沢なものを望んでいるのだろうか。それとも
「それでも、私の気持ちはほんとうのものだ。私はまだ、自分を失いたくない。
人を好きになれる当たり前な女の子になりたい」
 これが私の力に与えられた代償なのだろうか。
「ありがとう、僕も桔梗のことは大好きだから、ずっと覚えている」
 桔梗。
 私の名前だ。幻想的な声が響き、眼前には繊細な二並の肩が見える。
「僕は僕の場所を見つけてもらった。そしてその人に恩返しもできた。好きだ
と思ってくれた。でも、夏が終わるから、花が消えるから、僕も消える。そう
すると桔梗も僕のことは忘れて、普通に他の人を好きになることが出来る。一
番いい結末だと思う」
 二並の右手が隣島の遥か向こうの山影を指す。
 その先。私の大切な場所のあったところを。
 繋がった。二並はこの島のお花畑が私の前にこうやって姿を現してくれた。
あそこで見つけた花が、私に会いに来てくれた。
 この夏、花の島で。
 私は私の幻想に恋をした。
「ありがとう。私も二並のことを忘れない」
 力の限り、身体を二並に押し付け、任せた。
「ありがとう。それじゃ僕はもう、消えるから」
 それはきっと、ずっと昔の約束が終わったからだ。母がその孤独から救われ
た瞬間、この島にかけられた呪いが解けたのだ。花を求めて樹を焼いた代償が
許されたのだ。この島に花の咲くことが奇跡なら、樹の生えないことが代償だ。
島に祝福されることが奇跡なら、孤独にとらわれることが代償だ。やがて樹が
生えて、この島は暮らしやすい島に戻るのだろう。いずれ戦争が終われば樹に
覆われつくし、ほとんど姿を見せなくなった高山植物が、あの基地の中で縦一
列に並ぶだけになってしまうのだろう。
「わかった。私が見届けてやる」
 続きを言うはずの私の唇に二並みが触れていた。
「ありがとう、大好きな桔梗。とても優しくて、素敵な桔梗」
 顔は見えない。二並のにおいと温かさだけを感じる。
 目を閉じた。小さな声を必死で聞き取った。
「時間はかかったけれど、この島の呪いを引きずった千島小桜を助けて、そし
て桔梗と会えてよかった。そう思う。それに僕にも好きな人ができて、とても」
 幸せだった。
 そんな言葉が風に流されて、身体が強い勢いでガードレールにぶつかる。私
の身体と、ガードレールの間にあった身体が消えていた。

 花火が終わって一人、島の高台の暗さに身を置いていた。花火が終われば秋
が始まる。せっかくなら久しぶりの友人と飲んでおくべきだった。
 後ろに人の気配を感じた。構える必要はない。これは味方、だ。
「千島、お前こんなところで何してんの」
 中学校の先生だ。
「花火、ここからがきれいだろう。一人になりたい気分だ」
 自分でもわからないから適当に思いついたことを言ってみる。
「そうか、ここは見晴らしがいいからな。いろんな人の思いが詰まっているん
だろう。それこそ昔話の時代からの、な」
 いろんな人の思い。その中に私の
「先生、私。ここで何をしていたんだろうな」
 大切なものがあったような気がする。
「さあ、俺が聞きたいくらいだ。でも、大切なことだったんだろう。千島は大
切な人を探しに行っていたんだろう」
 ああ、そうだった。
「私、」
 今言わないと一生言えなさそうな気がした。
「好きだった。その人のこと」
 何もかもがわからなかった。それでも、大切な何かが消えてしまったことだ
けがわかる。
「よかったな、千島。俺はお前という立派な生徒のこと、一生覚えているよ」
 その約束はたった今交わしたような気がする。
「せいぜい頑張らせてもらう。良い戦場にめぐり合えることを祈っていてくれ」
 私にしかできないこと。より多くの戦闘に参加し、誰よりも多くの敵を殺し、
味方を助けること。
「ああ、期待している。疲れたらいつだって戻って来い。みんなお前を待って
いる。みんながお前のことを大切に思い、覚えているこの島に戻って来い」
 多分、この島には戻らないだろうけど、何も言わない。先生の隣に並ぶ。
「明日の夕方、この島を出る。世話になった」
「いくらだって世話してやる。滑走路のど真ん中の花壇もお前に世話して欲し
いんじゃないか」
 基地の中の花壇のことだろう。
「知っているのか。あれは父の形見だそうだ。話では母は学生の頃、父の作っ
た花壇に助けられたらしい。これは何かの皮肉か、それとも奇跡か。私にはも
う、家族なんて興味も持てないのに」
 先生が優しくこちらを向く。
「少しずつ思い出せばいいさ。千島がなくしていく感情は俺が拾っておくから、
また必要になるまで預かっておくぜ」
 二言三言、そんな会話を続けると話すことがなくなる。無言で歩き続け、祭
りの会場に到着した。途中で出て行った罰と称して大量のジョッキが目の前に
並べられる。
 象ですら倒せそうな量だった。
 上等だ。不可能なんて文字はこの島を出たときに海に流した。
 叔父が笑っている。久しぶりに見る顔が挨拶を繰り返す。高嶺が肩を寄せて
きて、軽やかにカウンターを見舞う。端から順に飲み干し、この島の秋を感じ
る。
 喧騒のうちに人が消えていく。片づけの申し出は叔父に快く断られた。最後
の夜は一人、実家で過ごすことにした。バスに乗り、ゲート前で乗り換え、自
宅の前。
「ただいま」
 暗闇に吸い込まれる言葉。何度も繰り返した言葉。答える母も、父もいない。
それでも、ここには父でも母でもない、私の家族のようなそんな人がいたよう
な気がする。それだけで十分、この島を心地よく去っていける。
 離陸のジェットエンジンが闇に響く。
 去り行く私に幸あれ、そして武運を。
 服を脱ぐと自分のものではない何かの移り香を感じた。それはなにか、記憶
の淵からこぼれ去った大切な感情のようだった。その途端。
 唇に違和感を覚えて指でなぞる。小さくて黄色い花びらがついていて。多分
風で飛ばされてついただけなのだろう。
 そんな小さな花びらを愛おしく感じた。そっと紙に包んで鞄の奥にしまいこ
む。どんなお守りよりも、強く私を守ってくれそうだ。
 この島は自由になったと思う。誰の思いにも支配されず、誰に呪いを与える
こともなく。これで終わった。全部終わった。
 この島に戻ってきてよかった。
 多分人生で最後の、幸せのときだったと思う。だけどもう私の中の衝動は抑
えられそうにない。この瞬間も敵を殺すことを夢想してしまう。私はもう普通
の人間ではなくなってしまったのだろう。それでも。
 そんな私にも人並みに大好きな人がいたような気がする。名前も思い出せな
いけれど、笑うことしか知らない、抱きしめる力の強い人。私はその人を大好
きで、初めてキスして、そしてあっけなく振られたような、そんな気がする。
この思い出だけで生きていける。どれほど過酷な現実があろうとも、大丈夫。
私はここから歩き出せる。
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