基地への侵入に対してお咎めもないまま、正門から車で送り出される。時間 は午後四時。手元には一通の文書。 八月いっぱいで基地内を占拠しているあの家を明け渡すこと。 簡単に翻訳すればそんなことが書かれている。強引に送ってもらった代償だ。 もう、あの場所には住めない。二度と足を踏み込むこともできない。感傷もあ れば名残もあるけれど、これでいい。大丈夫。どれほどに現実が変わろうとも、 私は現実の真っ只中にいる。行き先は迷わない。どこでだって幸せになれる。 夏が終わってしまっても一人でどこまでも歩いていける。 目張りのライトバンから出ると、基地の外の小さな集落のバス停だった。一 日の落ち着いた一時をのんびりと感じ取る。風が大きく吹き降ろし、遥か遠く の灯台が強い光を向ける。海の向こうには船。空には鳥。笹原を過ぎ去り、紺 碧のかなたへと消えていく。母の飛び立った遥か向こうに思いを馳せ、そして 誰も乗っていないバスがやたら高いエンジン音を響き渡らせて、目の前で止まっ た。行き先は島の南、連絡線乗り場。もう、実家に用事はない。山の陰に覆わ れた起伏のない二車線道路をただ、私だけを乗せたバスが走る。このバスの役 割も夏で終わりだ。 終点、連絡線乗り場。民宿潮浜と反対方向に歩く。イブキトラノオの戯れる 坂を上り、あの場所へ。港を望むこの島の高台へ。何時も二並のただずんでい る場所へ。一歩登るごとに期待が高まって、そして二並はいつもどおりきれい な顔で笑っていた。夕焼け空に溶けてしまいそうな姿で。 気づいたら走りよっていた。 無言。 夕焼けの中で二人、並んだ。ずっと遠くの鳥に思いを馳せ、足元に生える花 に心を奪われ、どこからともなく笑いがこぼれる。そんな贅沢な時間を無言で すごした。ただ、それだけで満足できそうだった。だって好きなのだから。たっ たそれだけの時間で十分に満足できる。そう言い聞かせる。 違う。こんなもので満足してはだめだ。高校一年生の頃を思い出す。あの日 、退学願を片手に入った植物園、誰かを犠牲にしてでも生きていってやると決 意した日、一人の同級生に出会った。私から最もかけ離れたはずの彼ではある が、植物園から出てきた私は彼が私と同じ孤独にいるのがわかった。 それだけで敵とも味方とも区別のつかない彼を好きになった。 だから一緒に植物園で時間を過ごしたかった。ありったけの勇気を集め、壊 れそうなほどの心臓と震える声を必死で押さえつけ、言った。 一緒に植物園を管理してくれ。 笑える。そんなのじゃ愛の告白みたいだ。でも私は必死だった。きっかり三 秒の沈黙の後、彼は私に言った。 手伝えない。俺には音楽がある。お互い、自分の道を行こう。 そうして、まだ髪の短かった私の肩をそっと押してくれた。心がはじけた。 あの五年前の春、都会の隅の高校の美しい時間のことだ。私の中に強い力が湧 いた。絶対に立派になって、目の前のこの人の言葉に恥じぬ生き方をしようと 思った。それが私の初恋だった。三年間、伝えることすらできぬ思いだった。 もう同じ思いをしたくない。自分を偽りたくはない。隣にいて、手をつないで、 身体も心も疲れ果てるほどに愛し合って、時にはけんかもして、子供をもうけ て、泣かされて、嘘をついて、そして看取ってやりたい。たとえこの夏で私の 人間としての終わりが来ようとも、人を好きになりたい。 私は二並を自分のものにする。 「二並。今日は私の願いを聞いてくれるって約束だ」 どきどきする。 「そうだね、そんな約束だった。僕に出来ることなら願いをかなえてあげる」 ストレートに行くべきか、それとも変化球勝負か。 「だが恥ずかしいから背中合わせで言わせて貰う」 透き通るほどに笑ってこちらを向いた二並なんて見てられない。私が海側に 回り、二並がそれに応えるように山手側へと身体を進める。頭の中なんて真っ 白だ。中学生がラブレターを靴箱に入れるほどに初心で滑稽だ。そして、その 滑稽さは振り返るといい思い出。振り返るべき未来のために続ける。 「ありがとう。私、この島で生まれたことも、母も立派だと思った。この、呪 われた私自身もな。私はお前のおかげでここまでたどり着いた」 返事はなかった。茜色の空気が大切な人のそばを吹き抜けて私の身体に入っ てくる。ほんとうはそちらを見ないといけないのだけれど。隣島の赤く輝く山 肌と、訪れる夜の境目に目を固定してその先を続ける。 「では願いを言わせて貰う。二並。私はお前が好きだ。これからも一緒に歩ん でほしい」 言い切った。ただ、すがすがしいまでに沈黙が続いた。 ずっと海だけを見ていた。どこまでも続く海が見えた。強い風が海から吹き 付ける。見晴らしが良すぎた。自分ひとつ分の影だけが伸びている。 「なんだよ。逃げるのは卑怯だろ」 精一杯の強がりを口にして足元の草を二並の代わりに蹴っ飛ばしてやる。で も、まあいい。いくらだって次がある。今度は逃げ出せないように手を握って 言ってやろう。好きだって。絶対に逃がさずに。だめならだめで構わない。返 事は欲しい。身体を押さえつけてキスしてやってもいい。二並のいなくなった、 私一人の大気に向かって笑ってみた。秋空の落日がどこかで聞いたことのある やさしい旋律のようだった。 幸せになろう。 涼しい風が吹き抜け、一日の終わりと夜の始まりを運んできた。遠くから人 影が近づく。 叔父だった。 「梗ちゃん、さっき基地の人がうちにきたんだけど。今度は何をしたの」 不恰好な、でも私に残された血のつながる大事な人だ。 「話せば長くなる。仕事が終わったら一時間ほど時間をくれないか」 その人に自然と笑いかけていた。さあ、大変なのは今からだ。家のこと、私 のこと。私の過ごした五年間と、これから歩む未来のこと。全部叔父に伝えよ う。 |
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