夏、花の島

第16話

「梗ちゃん、着きましたか」
 母の顔を見ることすらできなかった。
 わかっていた。ここは基地なのだ。最果ての寂れた観光地などではない。最
前線でこの国を守る島だ。基地拡張計画が決まったときからここはもう、私だ
けの秘密ではなくなった。誘導灯の緑と青が光る、幅五十メートル、長さ二千
メートルのアスファルトが横たわるだけになった。白色のストロボ進入灯が海
に向かって放たれて、管制塔のパネルがずっと向こうに光を反射する。身体を
横たえ、ばかみたいに明るい空を眺める。風が一枚、身体を撫でて消える。
 やり直しのきく夏なんて最初からなかった。
 セミも海で遊ぶ子供の声も麦藁帽子も食べかけて捨てられた西瓜も砂に埋め
られた花火も何もない北の島、北緯四十五度の夏なんて、最初からなかった。
 始まることもなく、終わっていた。
 ここから始めるつもりだった。母とやり直せると思った。島を歩くだけで全
てが戻ってくると思っていた。ここにくれば何もかも昔のままだって思ってい
た。その程度の覚悟で全てが許されると思っていた。昨日一日で全てが取り戻
せると思っていた。私の覚悟は、その程度のものだった。
 それは幻想だった。
 一度手放したものは二度と戻らない。私の中の家族という幸せはどんどん希
薄になり、人間らしい感覚は消えていく。それは避けようのない事実だ。残酷
なのは時でも運命でもなくて私だ。五年前に父も母も、故郷も見捨てて逃げ出
した人間ですらない存在、千島桔梗。弁解どころか謝罪の言葉ですら発する権
利のない生き物。軽蔑すべき兵器の行き着いた先は取り戻せない過去を嫌ほど
に認識させる、アスファルトの滑走路だった。破壊され尽くした最後のよりど
ころだった。ここにあったチョウノスケソウも、フタナミソウも、シコタンソ
ウも全てがアスファルトの下で、世界が終わっていた。欠陥品の人間が、優秀
な兵器が幸せを望んだことが間違いだった。母が父と仲を違えても守ろうとし
たものは、私が踏みにじっていたのだ。
 もういい。何もかもどうにでもなれ。
「そう、だ。これが見せたかった。この島を見捨ててお母さんから離れた私の」
 大切な場所だった。言葉が続かない。一人の人間がどう足掻こうとも大切な
ものなんて守れるものではない。そんなことはわかっている。でも、こんなの
はあまりにも報われない。母を狂わせ父を殺し、大切な場所までもが破壊され
た。私の家族の幸せと平穏は全て戦争に奪われてしまった。人を殺すだけのこ
んな基地が私たちの幸せまでも壊して、大切な場所を壊して、何もかもを葬り
去った。言葉にならない。近づいてきた母の胸を捕まえて、笑ってしまう。も
のすごく滑稽な悲劇だ。なんて滑稽なんだろう。私は自分で作った悲劇に酔い
しれるピエロだった。
 もういい。
 もう、人の心を持とうなんて思わない。
 世界なんて滅びて
「見てください梗ちゃん、これ、フタナミソウです」
 いつだって、そんな瞬間にそれはやってきた。
 滲んだ世界の中にいつもどおりの笑いを含んだ母の顔があった。
 母の指す先を見る。まぎれもなく、あるはずのないものがあった。アスファ
ルトに覆われていたはずのそこに咲いていた。
 呆然とする私を母がそっと抱き寄せる。それだけで泣いてしまう。そして、
その涙がこぼれるたびに、私の中の最後の家族という言葉が消えていく。
「ここには、残っていたんですね」
 足元を指していた。
 滑走路のすぐ隣に、花が咲いていた。母の指す隣にもまた一つ、失われたは
ずの花が咲く。その隣にもまた一つ。滑走路の横に一つずつ花が並ぶ。それは
この滑走の端から始まり、ずっと向こうにまで続いていた。
 幅一メートル。長さ二千メートル。延々と続く人工的な花壇だった。
「ほら、これはトチナイソウです。梗ちゃん、知っていますか。お母さん、結
婚するまで栃内って苗字だったんです。今は千島小桜です。なんだか笑えちゃ
いますね。なんだか私の花みたいです。私、千秋さんと出会ってほんとうに」
 滑走路の真ん中にぽっかり空いた地面に目を注ぐ。赤茶けた地面の、小石の
並ぶそこには小さいけれどお花畑が空に光る。
 この島の気高い花たちが咲いていた。ほんとうは自分達の楽園のはずだ。こ
んなところにおいつめられ、それでもなんとかその姿をとどめ、文句の一つも
言わずに青い花、白い花、薄桃色の花を、空へ向ける。
 この夏、花の島で。
 薄い大気に死のにおいの宿る夏、新しい世界の生まれる島で。
 人工的に残された、人間の最後の理性の姿が最後の幸せを見せていた。私の
大切だった幸せが残っていた。もう、秘密にする場所ではなく、ここで寝るこ
とも出来ないけれど。もう、お花畑なんて名前で言うことはできないけれど。
それでも、かろうじて残されたお花畑の名残はまぎれもなく大切な場所だった。
私の守ってあげた黄色い花が元気に咲き、隣にこの島では絶滅に近いチシマギ
キョウの花が下を向く。風に飛ばされた涙が心地よくて、単純に広い滑走路の
ど真ん中で、一人で生きてやると決めたあの日と同じくらいにすがすがしく笑っ
た。
「私、千秋さんにお別れを言ったんです」
 幅一メートル、長さ二千メートルのお花畑に母がつぶやく。肩で息をしなが
ら笑いを崩さずに身体を起こして、母をしっかりと抱いてみる。小さくて、ほ
んとうに細くて、軽くて。こんな身体で私を生んで、育てて、一人でがんばっ
て、こんなところまで来て。今、ようやく
「この場所、千秋さんが残してくれたそうです。桔梗が出て行っても帰ってき
てもいいように、私のためにです」
 母が記憶を取り戻したのに、
 私にはもう、家族への執着がなかった。
 腕にかかる重み。それは味方の重みだった。手に流れる温かいものは血液で、
多分手遅れだ。
 滑走路に赤い小さな染みができる。腕にかかる力が一気に強くなり、止まら
ぬ血液が指の間から零れ落ちる。助からないだろうけれど、それでも
「私、千秋さんには二回も花壇、作ってもらいました。出会ったときと、別れ
る前です。計画に賛成しないとたったこれだけの花すらも残らないって分かっ
ていました。千秋さんを苦しめて桔梗を苦しめました」
 この人だけは私の全てをかけて助けてあげたい、そう思った。だって
「もういい、お前の強さは分かった。背負って降りるから掴まれ。私が守る」
 その重みが私を守ってくれていたと思うから。
「梗ちゃん、顔を見せて、ください。私の手を、握ってください」
 そんなつぶやきに付き合っている暇はない。この人に、せめても最期だけは
静謐な場所を提供してやりたくて背中に負い、立つ。その瞬間、遠くに聞こえ
た足音に首だけで応じた。
 武装した兵士が近づいてきた。
 滑走路に人がいるのだ。軍事基地でなくても血相変えて飛んでくるだろう。
どうするべきか。考えるまでもない。瞬間で構える。油断させて一人を近づけ、
気絶させる。そいつを盾にして武器を奪い、撃てば勝てる。そのまま基地を占
拠し、ヘリを奪い操縦士を確保すればいい。
 その場に立ち、腹にありったけの力を込める。身長百七十三、自動小銃と榴
弾二発を所持。体格差だけで十分に勝てる相手だ。味方というフィルターを敵
に書き換える。
「あれ、千島さ」
 襲い掛かろうと思ったその人がマスクを取った。
 常連の筋肉だるまだった。瞬間的に繰り出しかけた左手を押さえ込み、味方
であると書き換えなおす。作戦変更。
 彼らなら力に訴えなくともいい。
「急病人だ。本土の病院に搬送する」
 兵士がいぶかしみ
「わかった。とにかく車で運ぶよ、って腕が血まみれだけど大丈夫なの」
「ああ、一刻を争う。無線は私に渡せ。運転は頼む、いいな」
 後部座席へと味方を放り込み、私も車に乗り込む。無駄に回転のいいエンジ
ンが一気に加速を促す。
「北方方面隊所属、准尉の千島だ。急病人がいる。診療室を開けて待機しろ。
とりあえずの応急措置だけでいい。それから輸送機を一台借りたい。関係ない、
それなら基地指令に会わせろ。基地不法占拠の解除としてどんな条件でも飲む
と伝えればいい」
 無線で基地と交信をとっておく。
「梗ちゃん、鬼だね」
 鬼であろうとなんであろうといい。味方を助けるために使えるものは使う。
当然である。
「あとで厄介だなあ、これ」
 運転席に向かって言ってやる。
「まかせろ、死ぬほど飲ませてやる。我慢しろ」
 そういえば手を握ってくれ、と言っていた。
 後部座席に手を差し出してやる。だが、触れたその手が私を掴むことはなかっ
た。
 
 その会議は五秒で結論が出た。基地司令官の空軍大佐と、中尉と、その他三
名と私。入った瞬間に条件を書いた用紙を渡される。一発で私がサインをし、
その命令が下った。
 この基地初の民間人搭乗のフライトだった。奇跡に近い。かつて反基地の先
鋒を基地側が特例措置で助ける。美談作りに最適なだけと言えるかもしれない
が、私にとっては自分の味方を助ける方法であり、たった一回の飛行で名声を
獲得できるなら基地側にとっても高い買い物ではない。
 輸送ヘリがローターの回転を上げる。あっけないほど簡単に重力を断ち切り、
上昇を始める。
 どこまでも遠い高みへと大切だった人が登っていく。
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