夏、花の島

第15話

 朝、起きる。実家の自分の部屋である。五年前から何も変わらない場所だ。
幸せだった日々と、泣いて恨んで過ごした日々が柱に一つ一つ、刻まれている。
恐ろしいほどの静寂に満ちた外を眺めると朝露のついた花が輝く。ここが天国
だって言われても驚かない。世界一美しい光と、大気の中。身体を起こして外
を眺める。生まれたばかりの今日という日の朝に、静かに祈る。
 今日という日が、世界で一番美しい日でありますように。
 母と歩んでいくこれからが祝福されていますように。
 母を起こした。これまで見た中で一番の笑みを私に向ける。
「おはようございます。今日は出かける日、ですね」
 布団から半身だけを起こして。しっかりと私を見て。その瞳の中には確かに
私の姿が映っている。
 その笑顔を必死で母だと認識する。私はまだ家族という概念を手放すわけに
はいかない。
「待っていてくれ。朝ごはんは私が作る」
 母のために料理をする。簡単な朝ごはんなんてその気になれば何度でもでき
たことだけど、それは久しぶりの行為。大好きな人のために出汁をとり、味噌
を溶き、菜を切る。なんでもない日常の、なんでもない幸せは家族のようでと
てもいい。
 用意した朝ごはんを二人で食べ、他愛のない母と娘の話に花を咲かせ、温か
くなる大気を感じ取る。母と摂る朝ごはんも、こんな団欒も戻ってきて初めて
だった。いくらだって出来たはずの日常の幸せを必死になって演じ、これが家
族の喜びだと言い聞かせる。着替えた母の肩に手を置く。そのまま肩をもんで
昔を思い出す。褒められるのが嬉しくて肩を揉んだ子供の頃の自分。母の背中
に届かぬ嫉妬をしたあの頃。
 失ったものを取り戻すのはこれからだ。あの花の咲く場所に行けば母はもう、
大丈夫だと根拠なく思う。五年前からのやり直しだって出来るに違いない。
 いや、昔と今は違う。私の手は大きくなったし、母は痩せたし、父の姿はな
い。現実というものはあまりに残酷で、華麗に進み続けるものであり、未来へ
と続く序曲である。だから私は言う。
「お母さん、今日は私が先に歩こう。お母さんが大切な場所を教えてくれたよ
うに私もお母さんに大切な場所を教えてやりたい」
 そうすれば奇跡が起こるかもしれない。
「はい、わかりました。久しぶりですね、梗ちゃんと歩くの。楽しみにしてい
ます」
 食卓から立ち上がり、洗面所に向かう。映った自分の顔に問う。
 家族への愛を失うのが先か、母を失うのが先か。それでも私は現実を直視し
て消えゆくものをつかむべきか、手を離すべきか。決まっている。
 消えゆく最後のときまで、私は家族を愛していきたい。
「それは梗ちゃんの大切なところ、なんですね」
 頷く。それが全てだった。問いなんて必要はない。母と一緒に歩きたい。母
と二人だけの秘密を持つなんて、いかにも親子みたいだ。
 そうして、長い間住み慣れた家を二人で出た。空がどこまでも青く、高く。
気持ちいい風が解きに強く、弱く。翻弄されるわけでも頑として逆らうわけで
もない植物の群れがずっと昔から繰り返す風の道標。母の伸びやかな笑顔に私
の笑顔が重なる。踏み跡がぎりぎり残る道を二人で歩く。
 今はもう使われることのない基地の中を突っ切る登山道を登っていく。私が
一晩過ごした場所への最短距離は、私の辿った沢を上ることだが、どうしても
危険がつきまとう。それに別に沢を登っていかなくとも、登山道を途中で逸れ
てしまえばあの場所にはたどり着くはずだ。昨日、何度も地図で場所を確認し
た。基地の施設も私の情報ではあの場所にはない。気づかれることもないはず
だ。
 簡単なお弁当に水にいろいろを持って先頭を切る。風の強い岬を突っ切り、
五年前には廃道になってしまったハイキングコースを歩く。伸びやかに、とい
うわけにはいかない。一応立ち入り禁止の基地の中だからあまり目立たないよ
うに、上空にエンジン音が聞こえたら身体を落として母をかばう。膝まで草に
覆われた母と歩く藪の中。あの頃は母の背中についていって、今は母が私につ
いてくる。基地の中に残されているはずの秘密の場所。私の一番大切だった場
所へと向かう。
 歩き始めて三十分。背後にあった母の気配が時々消える。その都度後ろを振
り返ってみるのだが、明らかに顔色がよくない。母が吐血を繰り返していた事
実からなるべく遠ざかっていたが、本来ならばすぐにでも医者にかかるべき容
態なのだろう。それに母が精神を病んで一年。体力だって落ちているに違いな
い。私との距離がこんなに離れているのに耳には母の荒い呼吸が聞こえてくる
のだ。顔こそ柔和でいたずらっぽい笑いに満たされているが、母の体力は限界
になっているのかもしれない。そもそも半分以上藪の中だ。笹が足に絡みつき
もすれば、視界を覆うこともある。歩くスピードだって通常の三分の一くらい
しか出ない。吐血まではさすがに考えていないが、それでもこの場所で何らか
の発作を起こされると私ひとりでは助けられない。
 あの場所に行くことは無理かもしれない。
 頭の中に妥協が浮かぶ。そうだ、花を見たからといって何かが変わるわけで
はない。病人の体力で限界に挑戦させるのは危険だ。今日を外すともう、一緒
に歩くことがなくなるかもしれないけれど、それでも母の身体のほうが大切だ。
それにこのまま進むなら私が背負って歩いても問題はない。仮にこのまま足を
進めなくたって十分に努力賞だ。母に聞こう。もし行きたいのなら背負ってい
こう。だめなら引き返して
「見てください。エゾイヌナズナです。まだ、あったんですね」
 母の嬉しそうな声が風の中を通る。でもナンブイヌナズナはなくなってしま
いました。そんな母ののんびりした声が聞こえて現実に引き戻される。
 母との時間を取り戻したい。そう思う。何の確信もない不合理な判断だとは
分かっている。このまま歩けば母を傷つけるだけもしれない。それでも、母の
力であの場所に行ってほしい。一緒に歩いていく記念に、母に歩んで欲しい。
「少し休憩して、行こうか」
 もう少し。もう少し歩いてみよう。あと少しだから。母と昔来た道から私し
か知らない場所へ連れ立とう。前を見る。髪を通る風が高みへと昇り、光る空
へと吸い込まれる。
 背丈を時折越える笹の中を歩く。今では手に入るはずもない昔の地図を眺め、
方角を合わせて微妙な稜線をたどり一歩、道を外れる。昔から使われ続けたハ
イキングコースに別れを告げ、人の歩いたこともない稜線をたどる。ここから
先は私すら知らない場所だ。中学生の最後の夏、私がたどり着いた誰も知らな
いお花畑の広がる場所へつながる稜線。あそこに行けばきっと、母は現実を取
り戻す。一歩一歩、その先、この島の高みを目指す。笹の奥、私がたどり着い
たこの島の誰も知らないお花畑。この高みにきっとあるその場所。期待に胸が
高鳴る。母の手を引いて、心だけがはやる。
 随分歩いた。途中で何度も休憩をしたし、笹の切れ目では母と空を眺めて風
に当たった。遠くに見える海の紺色が空の光を反射し、どこまでも広く視界を
渡っていた。そんな中を、ずっとずっと歩く。母と私だけの道。誰が歩いたわ
けでもないそこにしっかりと踏み跡をつける。母の手を取り、二人で手をつな
いで歩いていく。その細い指にかよう確かな温かさを必死で心に刻み、握り返
しを強くする。母の体温と、母のにおいと、母の息遣い。そんな母の全てを私
の中に刻み込む。二人で一緒に頭上に広がる青空に目をやる。これ以上はない、
天晴れな青い、青い空だった。何度も一緒に空を見た。そして
 視界が広がった。
 家を出て三時間と少し。その場所に到着したのだ。
 白い空が印象的だった。強い風が周りの笹を大きく揺らし、冷たい大気をは
るか遠くに運んでいく。流れた汗が空にさらわれ、長い髪をゆったりと揺らす。
背中に感じる温かい光が笹の葉に反射しどこまでも、どこまでも緑色の海に際
立つ波を演出する。それは五年前、いや、この島に花が生まれた頃からずっと
変わらず続いてきた希薄な大気であり、優しい太陽の光であり、過酷な自然の
象徴だった。
 そんな夏、この一時だけは人という生き物に優しい島の一番の高み。植物た
ちの聖域だったはずのところ。私の秘密の場所が覗くはずのところ。何度も基
地の拡張にさらされ、それでも最後の最後まで残ることを許された場所。私の
孤独の始まりの場所。この夏、母と二人で歩んで行き着いた場所。ここから二
人で生きていこうと思っていた場所。
 そこには

 アスファルトが広がっていた。
 南から北へと一直線。真っ黒の平らな滑走路だった。
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