午後八時。ほとんど振動することすらないバスの中で今日一日を回想する。 頭の中身は全部、二並のことで埋め尽くされている。 せっかくの昼休みを潰して会いに行ってやったのに高嶺になんて会ってしまっ た。昼休みが終わってからは長い髪の毛をいじって窓の外ばかり見ていた。も しかしたら二並のほうがここまで来るんじゃないだろうかと子供じみた空想に 浸ってみた。仕事なんて上の空だった。客室の掃除も、買い物の伝票整理も、 予約受付も身体が覚えているからできているだけだった。そんな姿を三回叔父 にからかわれ四回蹴り飛ばした。明日にでも謝っておこう。 結局いつもどおり料理を手伝い、簡単な給仕に客相手の島自慢をして、後片 付けして、そして今、バスに乗って家に戻る。誰かを好きになっても世界は関 係なく回り続け、私にとっての大きな一歩は人類にとっての進歩ですらないと いうのは大きな発見ですらある。気持ちの持ちようだけで単純に繰り返す日常 が輝くというのに、この気持ちは誰とも共有できない。私だけの、特権なのだ。 海の香りを含んだ涼しい風がバスの窓から入り、ゲート前でバスを降りる。頭 の中が二並のことでいっぱいでパスカード提示の記憶すらあいまいなまま、い つもどおりのワゴンに乗せられて家の手前五百メートルまで送ってもらう。 鞄の中身を確認する。 偶然出会った中学校の先生に貰ったレモングラスだ。今日、母と少し話し合 うためになら使おうと思って民宿から持って帰ってきたのだ。今頃、母は私を 待ってくれているのだろうか。あの家の中で幻想相手に微笑み続ける母のこと を思うだけで顔に笑顔があふれそうになる。家に続く、夏の最後を彩る花の中 を歩いて、 そして道の終わりに 「ききょうさん、こんばんは」 二並だった。 以前、自宅側の廃校で出会ったときは取り乱していたので不問にしたが、今 回は違う。 ここは基地の中でもある。侵入者を許すほどに甘くはない。二並がここにい る、というのは普通に考えてありえない。島の北半分に住むのは私と母だけだ。 あのゲートをくぐることの出来るものは軍の関係者か、私の家族だけ。でも二 並は現実にそこにいる。 嫌な予感が走る。いくら考えても私の過去に存在しない誰か。二並。 最初に聞いておけばよかった。全人類共通の、ファーストコンタクトにおけ る質問。 あなたは誰。 それでも一切の疑問を殺す。そうだ、私が二並に会いたかったように、二並 も私に会ってみたくて、こんなところに無理して入ってきたんだ。そう考える とそれだけで疑問なんて吹き飛ぶ。必死で自分の判断を押さえつけ、都合のい いように結果を書き換える。 「二並、こんなところで待ち人か」 ほんの少しの期待をこめて笑ってみる。 「うん、ききょうさんを待ってた」 自分でも分かるほどに顔が赤くなる。二並のちょっとしたその笑い顔だけで 胸が苦しかった。私を待っていたなんて、そんなものは社交辞令に決まってい るのにそれでも私を待ってくれている人なんて今までいなかった。 その恥ずかしさとうれしさが混じった感情を精一杯の強がりでごまかす。 「好きにしろ。待つのは勝手だが、何も出ないぞ」 必死で取り繕って、自分が傷つかない方向を見る。でも独特な響きを持つそ の言葉が頭から離れない。 ききょうさん。 少し詰まったような、きれいな響きだ。 誰かに名前で呼ばれるということがこんなにも恥ずかしくて、素直になれる ことなんて思っていなかった。名前で呼ばれるということ。夢にまで見たその ことが実現したというのに、頭に残るのはくすぐったいような、そんな感情。 「ほんとうにききょうさんを待ってた。僕の」 避けることが出来なかった。軌跡が見えているのに、その次の瞬間に身を任 せた。二並の細い腕が私に向かって伸び、それが二並よりもはるかに高い位置 にある私の肩にかかり、二並みの体重がかかる。 強く抱きしめられていた。 言葉も身体も出なかった。ただ、自分の長い髪が強い夜風に揺れるのだけが ひどく現実のように感じた。 「大切な人だから」 あまりにも唐突だった。意味を理解するまもなく、近づいてきた二並の胸に 強く押し付けられて、時間が過ぎる。 なんとかしよう。そう思う。 何をどうすればいいのだろう。 心臓が競りあがりそうで一瞬でも早く離れないといけないような気もするし、 このまま身を任せておいてもいいような気もする。あまりにも無力で隙だらけ だった。いつもならその距離を絶対に許すはずがないのに、二並は私の心の中 に完璧なまでに入っていた。 まるでもう一人の私のように。 「二並、ちょっと苦しい」 ものすごくこっけいな言い訳をひねり出していた。 「それでもこのままでいさせてくれるとうれしい、ききょうさん」 反則だった。 そんな言葉を言われてしまうと断れるものでも断れなくなってしまう。家へ と向かうはずのその道の真ん中でずっと、そうやっていた。直立した私と、そ の私に寄りかかる二並と。 「仕方のない変態だ。でもお前が変態なのは許す。ほんとうに特別なことだ。 だから少しなら、私だけなら許す」 それだけを返す余裕がようやく出ていた。 肩に掛かっていた体重がすっと消え、二並が身体を離す。その代わりに 「じゃ、今のうちにいろいろと」 顔がすぐ近くにあった。なんでも聞いてしまいそうな気分だった。 「仏の顔も三度まで、だ。あと二つくらいなら許してやる」 「え、あと二つだけなの」 「当然だ。私は気の短い人間だからな」 二並の照れ笑いと私のもったいぶった咳払いがきれいに響く。 「うん、それじゃ明日、お母さんとあの場所に行ってあげてちょうだい」 私が遭難してたどり着いたお花畑だろうか。今は残っているかどうかも分か らなくて、当然のごとく立ち入りもできない。 「あの場所にはまだ、花があるのか」 二並が知っているとも思えなかったが聞いていた。 「うん、残っている。行ってほしい。明日は晴れるみたいだしね」 身体に病気を抱えた母を連れて行けるかといわれると難しい。それでも。 「わかった、母と歩いていこう」 そうすることで、母ともう一度歩めそうな気がした。 「それで、もう一つ」 「やっぱりだめだ」 いたずらしたい気持ちだった。瞬間的に返す。 「今日はここまでだ。次まで聞いてしまうと許す楽しみがなくなってしまう。 それに、私は二並と一緒に願いを叶えていきたいんだ」 二並の顔が少しだけ曇る。それだけで笑えてしまう。人を少し困らせて喜ん でいるあたり、私と父は良く似ている。 「うん、そうだね」 少しはかなげに見える顔がすぐ近くにあった。少しだけ身体を離して私も決 意をする。 「また明日会おう。実は私からもお願いがある」 私だけが願いを聞くなんて不公平だ。 願いの中身はもう、決めている。 「うん、ききょうさん。それじゃ、今日はさようなら」 道の真ん中に二並がいて、少し離れた場所に私がいて。 「明日は私の番だからな」 それだけ言って、家に向かって走る。明日は私が言う。私の願いを叶えても らう。いい口実だ、そう思う。約束もできたし、私も逃げられない。 勢いだけで家の扉を開ける。 「ただいま、お母さん」 自分でも気づいていた。声がいつもよりはるかに高くて、元気だった。人間 というものは現金である。 「あら梗ちゃん、おかえりなさい。どうかしましたか」 いつもよりはるかに元気な顔で私を迎える母。その笑顔を見ると突然足の力 が抜けて、笑いがこみ上げる。さっきまでのことを思い出すと笑えて仕方ない。 「梗ちゃん、楽しそうですね。お母さんも知りたいです」 言ってやろう。私の幸せを。母が父に連れられて学校を飛び出したくらいに 嬉しかったことを。 「お母さん、私」 息切れするくらいに喜びがこみ上げていた。 「はい、なんでしょう」 息の間に何とか言葉をねじ込む。二並が私に言ったのより、もっと唐突な告 白を。 「好きな人、と約束してきたらしい、私」 言葉にするとただ、それだけのこと。それだけのことでこんなに幸せになれ る自分がどうしようもなく馬鹿みたいで笑いが止まらない。 「はい、知っています。おめでとうございます、梗ちゃん。ではお茶でも飲み ながらゆっくりと話してくれますか」 そうしよう。いろんなことを話そう。明日母を連れて行った後、二並に言お う。二並のことが好きだ、と。逃がしてやるものか。こんなに慌てさせた罰だ。 思いっきり抱きしめて、一気にキスしてやろう。 「梗ちゃん、顔に出ています。強引なのはだめです。嫌われます」 思いっきり見抜かれていた。さすが母親である。実は私も母と同じくらい引っ 込み思案な人間なのかもしれない。 「でもお父さんは強引だったんだろ。お母さんを連れ出した、とか」 ちょっとだけ母を困らせてみたくなった。私だけがこんなにも攻められるな んて不公平だ。母の初々しい話も聞いてみたい。 「千秋さんのことは言えません。梗ちゃんにはまだ早いです」 笑えた。いい年して顔を赤くするなんてどうかしている。父もたいてい衝撃 画像級の行動をとっていたが、母は骨董品だ。 「顔が言っているぞ、お母さん。さて、ここは洗いざらい言うところだ。はい 質問、愛しの千秋さんは初めてのとき優しかったか」 母とこんな時間を過ごせるなんて思わなかった。 ずっと昔、五年前とは明らかに違う時間だった。この夏、果ての岬に立つ家 の中で母も私も幸せだった。 「もう、梗ちゃんはいじわるです」 「いじわるに育てたのは多分お父さんだから、恨むならお父さんにぶつけてく れ。ほら、吐いて楽になれ」 父は時々母を困らせて喜んでいた。今ならその気持ちがわかる。母をからか うのは癖になりそうだ。 「もうどうでもいいです。でも一度しかいいません。千秋さんはどんなときも とても優しいに決まっています」 ものすごい爆弾発言をさらりと流すのは母の癖だ。そして、そのたそがれ具 合が母そのものだった。笑うのが得意で怒るのが苦手で。居間の風景はずっと 昔と一緒で、ただ、私一人が大きくなってしまって。二人分の笑い声が五年ぶ りに響いて、なんだか家の中が嬉しそうだった。 その笑い声の中で頬が濡れていた。 お父さん、見えていますか。お父さんの残した二人の家族がこんなところで 笑っています。お父さんがいないのにそれでも笑っています。この夏、花の島 で。 |
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