遅い時間ではあるが、しっかりと家へと帰宅した。 母と過ごしたかった。 帰ってみると一人、幸せそうに布団の中で丸くなっている母がいた。その胸 には父の枕が抱かれていてかわいさ当社比二倍増しである。その背中に手を置 いて、温かさを感じてみる。この背中が私を守り、父を愛したのだ。こんなに も無防備で脆いのに、世界一強い背中だった。 好きな人。母の熱い恋愛譚を聞いたものだから、昔のことを思い出す。あの 学校で植物園にばかりこもっていた私に訪れた出会いと感情の一章を思い出す。 敵と味方しかいない、そう思っていた私の中にそれ以外の感情をもたらせた 人。今の二並のような人で父によく似ていた。同じクラスにいた生徒だった。 音楽だけは熱が入っていたが、わざと成績を悪くし、態度も褒められたもので はなかった。愛想の悪さは天下一だったが、それでも彼の周りは笑顔に溢れ、 話題の中心だった。そのくせ、一人になると繊細で孤独な顔つきになるのだ。 彼は私の気持ちを否定したが、私は彼のことが好きだった。言葉にすること はできなかった。いつだってここ一番で臆病な私がいた。彼は否定したが、あ の不思議な気持のことを恋と言わせてほしい。そしてそんなものを軽く踏み台 にして、私は次の世界へと向かう。恋をしてみたかった。だまされていてもよ かった。嘘でもよかった。好きだと言いたかった。私の中の人間らしさがなく なってしまう前にやり終えたい最後のこと。 恋をすること。 この夏ならやり直すことが出来る。決めた。二並に恋をしてみよう。 布団の中に丸まって幸せそうな顔をする母に朝日が差す。それは娘の私が見 ても心を動かされてしまうほどに強さと気品にあふれる一方、繊細でもろい。 こんなの反則だ。男ならそれだけで恋に落ちそうだ。ちなみに昨日抱いていた 父の枕は今、優しく手が添えられている。 もしかすると、母は父のために基地の拡張計画に反対したのかもしれない。 母が強く意志を貫き通したからこそ、父は心置きなく計画を推進できたのかも しれない。ほんとうは父が母を支えていたのではなく、母が父を包み込んでい たのかもしれない。 起こすのはやめておく。 母と話すのは今日の夜でいい。布団の中で小さな寝息を立てる母に告げる。 「いってきます。お母さん」 それ以上の言葉はいらない。 今日も母は私の最後の日を繰り返すのだろう。それでも、受け入れられなく とも、私にとってはその人が唯一の母親だ。通じなくとも話しかけて、理解さ れなくとも等身大の私で接していこう、そう思う。 島に戻って初めて、民宿の仕事を楽しんだ。食事の後片付けをし、床を雑巾 でこする。昔つけた柱の傷がなつかしい。 「これが恋する乙みゃ」 「すまん、箒の柄が腹に食い込んだみたいだな」 身体を張った叔父のネタにいつもどおりの突っ込みを返す。 昼休み。二並の必ず現れるあの高台へ向かう。目当ては二並だ。その苗字を 思い浮かべるだけで顔がほころぶ。この島に戻ってくるまで、そんなものには 縁がないと思っていた。好きになる根拠すらないのに、ただ会える可能性があ るというだけで身体を動かすなんて説明不能な行動をとることがなかった。 この夏だけはもう、論理も理屈もいらない。恥ずべきものもなければ失うも のもない。 花の間を抜け、光る空の、そのまた向こうに視線を向けた。 人影が見えた。視覚では確認できないけれど、二並だと信じて大きく手を振 る。そしてその人影はいつものように少しだけ首をかしげて、逆光なのに分か る笑い顔を向けなかった。代わりに手を振り返した。二並はそんなことをしな い。右手を上げる。 「ふたな」 そこで言葉が途切れる。距離二十メートル。普通の人にだって、その人影が 二並ではないことくらい、分かってしまう。直感のほうが理性より正しかった のだ。二並は何時だって手を振ったりしないもの。見慣れたもう一つの人影に 失礼だけど落胆してしまう。 「なんだ高嶺か。今は仕事中か」 少々失礼だったかもしれない。あわてて笑顔だけで取り繕っておく。 「千島。誰と間違ったんだお前」 それを聞かれるとなぜか恥ずかしい。好きな人を探しに隣のクラスまで足を 運んだ中学生みたいだ。 「誰でもいいだろ。別に高嶺に会いたかったわけでも手を振りたかったわけで もない。ほんとうだ。勘違いするな」 慌て方も中学生級だ。 「千島、なんか無駄にかわいいぞ、そういうの」 赤くなった、と思う。この上、二並の話なんて出た日には立ち上がれなくな りそうだ。とっさに思いついた汎用性の効くごまかしをでっちあげる。 「かわいいとか言うな。次飲むときは潰しにかかるからな。覚悟しろ」 精一杯の強がりもあっけなく笑われる。こうなってしまうと弱い。 「あれはあれで楽しいけど、さすがに連続は勘弁な。こっちは仕事中だし、ま た今度」 遠ざかる高嶺を追って風が抜ける。いつもどおりのトラノオが頭だけを垂れ て道案内。たった一人、その高台に残され、少しだけ風を感じて気分を落ち着 ける。この気持ちは期待なのか、それともいらだちなのか。叫びだしてしまい たいような、眠ってしまいたいような、不思議な気分。高嶺には悪いけれど、 私の今の気持ちを何とかするには二並に会うしかないみたいだ。人並みに人を 好きになることの出来る自分が誇らしかった。 元来た道を引き返す。ここで二並に会えないとなると明日に期待するしかな い。今日という時間は退屈だけど、明日以降にはもっと幸せで楽しい時間があ る。一人で隣島の山を眺め、明日という時間のことを夢想した。 ………果ての岬………………………………………………………………………… 同時刻。島の北の果て。千島小桜は家の周りの花を手入れする。その後ろに 現れる人影。いつもならそれだけで笑顔を作り、迎え入れるところであるが、 今日は後ろを振り返ることすらしない。 「小桜、今戻った」 反応はしない。小桜は頑なに花を見続ける。肩が震え、今にも振り返りそう なところを必死にこらえる。次が決別の言葉だとわかっていた。囚われていた 過去からの、つらい別れのときだと思った。 「嘘です。あなたは私の幻想です。千秋さんはもう、いなくなりましたから」 言葉にしても信じられない。千秋が自分をおいて消えてしまうなんてありえ ない。だから千秋は常に軍服姿で小桜の幻想に登場する。最後の日の、最後の 姿をずっと繰り返す。 「ああ、その通りだ。俺はもういない。けど、小桜には言っておくことがある。 だから最後にもう一度会っておこうと思った、だめか」 千秋の低い声がしっとりと響く。 だめなわけがなかった。 我慢なんて出来なかった。 小桜の左手のスケッチブックが落ちる。震える肩を、思うままに後ろへとや り、その声の方向に駆け出す。 そんな小桜の小さな身体が大きな千秋の身体に吸い込まれる。肩を抱かれた 千島小桜がうつむき、涙を流す。心で受け入れる現実と、身体が求める幻想の 狭間に必死で別れの言葉を探す。 「千秋さんはもう、いないんです。帰ってなんてこないんです、でも、会いた かったんです」 千秋の胸の中で泣くのをやめる。その強さで千秋という幻想を断ち切る。 「小桜、俺は行く。見送ってくれ」 ほんの少しだけ小桜の肩を身体から離し、他人には許すことのない至近距離 から千秋が言う。そこには涙も悲しみもない、ただ素直な笑顔があるだけだっ た。 だから小桜も笑顔を返す。夕映えの中に冷たい北の風が差し込み、二人分の 影の中を吹き抜ける夏、花の島の北の果て。世界一美しい夕焼けが始まった。 もう泣く必要なんてなかった。 「はい、笑顔で送りたいと思います、私」 飛びっきりの笑顔だった。迷いなんてどこにもない。頬を光らせる涙が強い 風にさらわれ、遠くへと消えていく。 「謝らないけど感謝している、小桜」 千秋と名乗った幻想が言う。 「はい、私も千秋さんに感謝しています。とても、言葉にならないくらいです」 感慨にふけってしまう。出会ってずっと、お互いがお互いを支えていた。い ろんな場面でどちらかが意地を張り通した。そのたびにどちらかが折れた。数 えるのも無理なほどに愛し合って、子供を育てて、必死に生きた。 「私、何度かひとりで生きていくって思ったことがあります。ですが、今度こ そほんとうに独りになるときが来ました。少しだけ、不安です」 迷いは感じられなかった。 「今は桔梗がいる。ほら、随分大きくなったかわいい娘だ。俺とお前の子供だ」 千島桔梗。小桜の娘。千島小桜は思い出す。その娘がいつの間にかいなくな り、たった一人自分が残され。 「桔梗は、家を出てしまったんですね」 小桜の長い、長い疑問だった。 答もわかっている。娘が家を飛び出していったこと。もう、いくら制服を洗っ ても着てくれないということ。家を掃除しても戻ってきてくれないこと。 焼き尽くすようなジェット音が背後に響く。打ち捨てられた桔梗の自転車に 鉢植えが小桜の目に映る。 「ああ、出て行った」 「私、桔梗が不憫なんです。毎日楽しいことも、温かさも忘れて孤独になって、 私が全部悪いのに、桔梗だけが心をなくしてしまうんです」 千秋と歩んでいくためには子供が必要だった。そして、子供を必要としたの は小桜一人ではなかった。娘が実験的に生み出されることは最初から分かって いた。全てを了承した上で千秋との絆のために子供を生んだ。娘に過酷な人生 を押し付けて自分の幸せを優先させた。 「何言ってんだ。お前の頑張って生んだ桔梗だ。家出なんてそう長く続けられ るか。とびっきりでかくなって、かわいくなって帰ってきた俺と小桜の娘だ。 そうだろ。自分の娘だ。信じてやれ」 小桜の中に少しずつ現実が甦る。 大切なものはいつも時の流れの中に取り残される。この島は花を奪われ、大 切な娘は消え、大好きな人も消えた。それが時の与えた厳格なうつろいだった。 だが、いつだって出会いの次には別れがあって、そして立ち止まらない限り次 の出会いがある。そう思う。だからまた歩く。 千秋と出会った春、都会の隅で決意したように今、少しずつ秋の近づくここ、 果ての岬で誓う。 「ええ、桔梗が。あの子、あんなに髪の毛を伸ばしてしまって、とてもかわい くて立派な女の子になって、そんなことにずっと気づいてあげられなくて、見 えていたのに、自分をごまかして。それが私の囚われていたものでした」 夕凪の近づく空の向こうに絹毛の雲が広がる。空に浮かんだ五線譜が優しい 旋律を奏でる、そんな一時。 それが世界で一番きれいな夕焼けだった。海の彼方が残光に染まり、吹き上 げる風がはるか上空の海鳥に更なる高みを与える。 「桔梗にも好きな人ができたんでしょうか。私、少し心配です。その人は、い い男の子でしょうか」 大気の中にやわらかい笑いが入り込む。 「ああ、俺たちもずっと昔、出会ってここまで来ただろ」 馳せる思いは海の遠くにあった。ずっと昔、自分たちのたどってきた道を思 い出す。 「ほんとうに。千島小桜がいて、千島桔梗がいて、千秋さんのいるこの島でた だ平凡に暮らしたい、ってそんな幸せな夢、ずっと見ていました」 夏の終わりを告げるチシマリンドウの花が風に揺れ、光芒が海を走る。 それが夢の終わりだった。幻想が消え、ほんものの世界が生まれていく。 「幸せな夢なら小桜、お前が叶えろ。お前なら大丈夫だ」 千秋の声と姿が風に流される。 「はい、この旅の終わりには幸せがあると信じています。三人分の幸せです。 私はずっと、千秋さんのことが大好きです」 向き直る。誰もいない、崖の向こうに笑顔を向ける。 「いってらっしゃい。千秋さん」 私もすぐ参ります。 こぼれそうになる涙を風が攫い、海へと返す。 「ありがとうございます。私はここから桔梗と歩いていきます。大好きな千秋 さんの分も、幸せになります」 小桜の言葉が風に乗る。深い藍色の広がる天に幻想的な星の瞬きがあった。 ……………………………………………………………………果ての岬・了……… |
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