夏、花の島

12話

 民宿の手伝いは上の空。
 原因は簡単。母のことで頭がいっぱいだからだ。
 今朝、いつもどおり母の寝ている間に出ようと思っていたのに、母が起き出
して朝食を作ってくれていた。母の笑顔は私を元気にさせる。
 母のことを知りたかった。それがどんな過去であっても、あの笑顔の前にあっ
た過去を受け止めてあげたい。あの笑顔の先にある未来を一緒に築きたい。迷
わない。私は母の大切な娘だ。
 だから、私は自分のたどってきた道を知りたいし、母のたどってきた道を知
りたい、そう思う。
 これまでも自分で調べるだけは調べた。家の中を探した。過去に関するもの
は写真を含め、何一つとして存在しない母と父の昔話を必死で見つけようとし
た。完璧なまでになにもなかった。残されたのは叔父だ。仮にも父とは兄弟で
ある。父と、それから母については何か知っているかもしれない。
 その叔父は現在、一緒にカレイを丸ごと唐揚げにする。民宿の晩ご飯でもあ
り、私の好きな料理でもある。叔父が鼻歌交じりに魚を放り込み、私が上の空
で盛りつける。
「梗ちゃん、少し手がお留守だけど」
 完璧に見抜かれていた。
「叔父さん、ちょっと話がある」
 切り出す。
「なんだ、そんなことか。告白ならあとぴ」
 持っていたお玉を振り下ろす。まあ、私の緊張を和らげようとする叔父なり
の気遣いなのだろうが。
「お母さんのことだ。結構真剣な話になると思う」
 話が発散しないうちに手を打っておいた。
「ああ、小桜さんのことね」
 小桜。その名前に緊張が戻ってくる。
「私の生まれる前のこと、辿ってきた道を教えてくれ」
 返答はない。
 母の言葉がよぎる。
 桔梗を殺さないで。
 その言葉から考えられる過去など、できることならば誰も話したくないに決
まっている。私はきっと残酷なことを要求している。それでも。何の権利も責
任も覚悟もないけれど、私は知りたい。
「小桜さんのこと、どうしても知りたいのね」
「知っておいて損はない、それだけだ」
 違う。私が母の過去を知りたいのは母のことが好きだから。そのためには嘘
だって言う。畳み掛けるようなこともする。ずっと昔に決めたことだ。私は大
切なもののために他のものを傷つけてでも生きていってやる。
「わかった、言うよ、言うけどね」
 そんな叔父の言葉も予想できた。次の言葉を待つ。
「そもそも梗ちゃんと小桜さんは一緒の高校に行っていたってところから始ま
るんだけどさ。ま、長くなるから片づけた後で」
「お母さんが、私の先輩なのか」
「そう、小桜さんは多分あの学校一の変わり者だよ」
 叔父が別の作業に入る。その背中をぼんやりと眺めてしまう。
 母が通っていた高校に私が進学していたなど思いもしなかったが、母が実に
困難な状況で私を産んだかというのは察しがついている。
 旅券の取得や入隊で戸籍を閲覧したのがきっかけだった。一歳までの私の名
前は栃内桔梗。母方の姓を名乗っていた。十九歳で私を産んだ母が二十歳でこ
の島の役場に婚姻届を出すまでの間、母は未婚。引き出しにしまわれた母子手
帳も見つけた。本来なら産前から交付されるはずのそれは私の誕生後に交付さ
れていた。分娩の記録は一切なし。
 母は病院にすら入らず、一人で私を出産したのだ。その意味するところは一
つ、少なくともそれは周囲に祝福をもたらす出産ではなかったのだろう。母は
何らかの理由で誰か、多分父の子供を高校の頃に妊娠し、周囲から反対される
中、私を一人で生み、そして父と結婚した。
 戸籍からわかった母の実家をこっそり訪ねてみたことがある。ものすごく立
派な家だった。母の物腰がお嬢様っぽいのも十分に頷けてしまう。母は黙って
いればついてきた裕福な生活を全て振り切り、この厳しい自然と最前線の島、
そして父を選んだ。
 一段落して午後八時。民宿の食卓の片付けは終わり、さっきまでの喧騒が夢
のようである。
 目の前には残り物のカレイの唐揚げにホッケの糠漬けに、ビール。この島に
戻ってきて初めて、叔父と二人の飲みだった。ホストもいなければ客もいない。
「そろそろ言わないといけないとは思っていたんだけどね」
 そう言って叔父は続ける。母と父の過去、そして私が家出していた五年間の
ことなんだけど、と。
「じゃ、梗ちゃんもおなじみ、兵役義務の話から入ろうか」
「二人目の子供以降は絶対に兵役に就かないといけないという、あれか」
 戦争が始まってこの国には徴兵制が敷かれた。といっても完全徴兵制という
わけではない。簡単に言えば二人目以降の子供は問答無用で兵役義務を持つと
いうことになる。男女は関係ない。一人目が女子、二人目も女子であったとし
ても二人目は兵役義務が生じる。
 ただし物事には裏がある。第一子の長女と結婚した男子は二人目以降の子供
であっても兵役は免除される。男系で考えた場合、家系が潰れてしまわないよ
うに、という配慮である。
 さて、一般には兵役なんて回避したい。どうするか。
 第一子の女子との結婚である。だから意志とは無関係に結婚するという現象
が頻発し、社会問題にすらなっている。
「そう、それで小桜さんは一人娘。おじいさんは地方議会の議員も務めた立派
な家の人でしょ。だから結婚する相手なんて高校生の頃には決まっていたんだ
ろうね」
 普通に考えればそのとおりだろう。私の通っていた学校にもそんな生徒はい
た。半ば達観したように未来を受け入れていた子もいたし、かわいそうになる
くらいに遊んでいた子もいて、面倒くらいはみてやったこともある。母ならば
きっと前者、未来を受け入れていたのだろう。そんな気がする。そういえば
「私も一人娘なんだが、まあいい。続けてくれ」
「で、小桜さんは学校に花壇を作って気を紛らわせていた。そこで植物園を建
設に行っていた千秋と出会った。あの、あれだよ。梗ちゃんもおなじみの」
「それは、高校の植物園が」
 高校の植物園といえば私が独りで生きていくと決め、高山植物の研究をし、
ずっと世話をし続けた場所だ。
「そうそう、小桜さんの花壇が元になって計画にはなかった高山植物園もでき
たんだよ、あれ」
 笑えてしまう。
 一人で生きていける人間なんて結局はいないのだ。私が母と一緒の学校に進
学したのは奇跡でもなく、あの植物園に懐かしさを感じたのは偶然でもなかっ
たのだ。故郷から遠く離れた私は父と母の出会いの場所にあった植物園のおか
げで生きていけた。自分が拒否したはずの父と母に遠くの地で支えられていた。
「それでは、私は父と母に支えられて」
「小桜さんの花壇がつぶされかけていたのを千秋が助けた、とかまあいろいろ
あってさ。多分お互いにそんなこんなで好きになったんだよ、きっと」
 いろいろ。あの二人にはぴったりだ。父が母を優しく導き、時にはからかい
、母が懸命に相槌を打ち、時には必死になってみせれば余裕も見せて父を諭す。
見ているこちらが恥ずかしくなるほど不器用な二人だったのだろう。手を繋ぐ
のですら顔を赤くして倒れそうな、そんな付き合いだったのだろう。想像でき
る。些細なことで心を躍らせる母の姿も、母を少しからかってみたくなるお茶
目な父の姿も。
「ここからが本題でね。小桜さんの結婚話とか、花壇を壊されないように千秋
が工事を妨害したとか、いろいろあったらしい。そう、小桜さんが高校三年生、
五月の学校祭の日、だよ。なんでも学校の通用門と正門の扉を破壊した千秋と
小桜さんが連れ立って学校から逃げてね」
 話が続く。父はこの島の対岸、本島の連絡船乗り場にて建造物損壊の疑いで
逮捕。母はこの島にて保護される。結果、父は懲役二年の実刑を受け、母は普
通に学校に戻って過ごしたということになっている。だが。
「とにかく小桜さんは高校に戻って、そして妊娠していることが分かって。何
て名前だっけなあ。仲のいい友人のおかげで頑張れたらしいけれど、家では何
度も堕胎を説得されていたみたいでね。結局小桜さんは家族には内緒で産むし
かなかったみたい」
 ほんの少し救われた気分だった。母に一人でも味方がいたこと、それだけで
良かった。支えられるはずの父は逮捕され、そのときに母と会うことなんて
 待て。
 五月以降、父と母は会うことができないはずだ。そうすると私が生まれると
するなら三月の終わりくらいまでだろう。だが、私の誕生日は六月二十日。母
が私を妊娠したのは八月、ということになる。父と出会うことのない時期に子
供を妊娠しているのだ。
「叔父さん、私は、お父さんの子供ではないのか」
 母は父との子供であることをいつも強調していた。父だってそれに同調して
いた。だが、拘留または懲役を受けていて、会えない父との間に子供を作るな
んて無理だ。
「確かに僕もそれは気になった。だから僕がこっそり調べたことがあるんだけ
どね」
 母は嘘をついているのだろうか。父ではない誰かと付き合い、その結果私を
妊娠したとするならばまだ救いようもある。だが、暴力的な行為を強要された
結果だとするとあの笑顔がいたたまれない。
「それがほぼ間違いなく梗ちゃんは小桜さんと千秋の子供だった。無理な説明
ならできるしね」
 無理ではないだろうが、ほぼありえないだろう。
「まさか、母が結婚前に人工授精でもしたというのか」
 否定はできないが、苦しい説明だ。
「ま、多分そうだろうね。千秋もそう言っていたし」
 婚前に妊娠していればいくらなんでも相手が断ってくる。いかにも母らしい
実力行使ではある、のだが。
「お父さんも苦労人だな」
 父の立場で想像してみる。
 逮捕されて二年間刑務所で過ごす。出てきてみれば好きな人が計算の合わな
い子供を抱えてあなたの子供だと主張する。何かの漫才かとすら思えてしまう。
それでも母は文字通り身を削って父を選び、父はそれに応えた。
 私が栃内桔梗であったこと、母子手帳に出産の記録もなかったことがあの日
、桔梗を殺すなと泣いていた母へとつながる。あの柔和で怒ることもできない
母が戦い、私が生まれた。父への思いがそうさせた。そしてそれらをそっと支
えてくれた叔父がいた。
 私はほんとうにいろんな人のおかげで生まれてきた。二人の出会いからあり
きたりな奇跡が起こり、私が生まれた。
「いいんだよ、うちの千秋が悪いんだって。だいたい良家のお嬢さんを捕まえ
て校門破壊して逃避行なんて度肝抜かれたよ、最初に警察から電話かかってき
たときは」
 深刻な話も昔話ならいい笑い話だ。父も父なら、それについていく母も母だ
と切り捨てて笑える。
「ま、そんなこんなで二人はこの島に戻ったわけだ」
 感慨にふけってしまうと長くなるのでとりあえずまとめに入る。
「そう、結局小桜さんが二十歳になってようやく千秋が出所、そして結婚、こ
の島に移り住んで、梗ちゃんの知っている民宿潮浜の出来上ってね」
 両親にとって幸せな日々が続いた頃だ。母がガイドをし、父と叔父が民宿を
経営し、私がいた。母ってものは笑い顔以外を持たない生き物だって思ってい
た。その裏にどれほどの苦しみがあるのか全く知らず、父と私を愛しているの
が当然だと思っていた。あの頃はまだ、世界のみんなが味方だった。
「でも物語ではないから結婚してもハッピーエンドではない、そうだな」
 中学以降の父と母だ。
「そ、ちょうど梗ちゃんが小学校を卒業したころだよ、この島に六回目の基地
拡張の話が来てね。簡単に言えば二人の意見の違いで小桜さんと千秋は口を利
かなくなった」
 この島には誇りがある。この国で最初に敵国の奇襲を受けた島であり、島民
の大半を殺害された過去があり、それをわずかな人数の高校生四名と他二名が
撃退し、彼らの行動と言葉が百年かかってもまとまらなかった世論を一気にま
とめた、その島なのだ。島の生き残りに多大な税金だって使われている。基地
の拡張など歓迎されるに決まっていた。父だって自分の意見はともかく、基地
に恩恵を受けている民宿として反対するわけにはいかなかったのだろう。そん
な中、拡張反対の意見主張したのは、よりによってよそ者の母だった。母の反
対は積極的ではないにしても頑固だった。
 あの頃の母は父と口を利かなかった。絶対に口を利かなかった。母なんて泣
く一歩手前の顔でこらえて、必死で我慢していた。一旦へそを曲げた母が意見
をひっくり返すはずなどないと知っている父は完璧にあきらめきって基地拡張
の音頭とりにいそしんだ。私はどちらかというと父の味方をしていたような気
もするが、母は私にはずっと同じように接して、こう言った。
 梗ちゃんは自分の考えで正しい方向を見つければいいです。お父さんは立派
な人です、と。
「そんな折に私が出て行って、で、父が入隊したわけか」
 父にどれほどの思いがあったのかわからない。この島で積極的に基地を拡張
したことに対して思うところがあったのか、戦争に賛成する姿を見せなければ
いけなかったことへの懊悩だったのか、それが母への責任の取り方だと勘違い
したのか。いずれにせよ私が高校三年生の秋の終わり、父は突然空軍に入隊す
る。もともと千島一家という捉え方をした場合、叔父が兵役の義務を負ってい
るのだが
「そう、千秋は突然家を出て行ったから僕が長男の扱いを受けていたってのも
事実なんだ。でも徴兵があったわけではないんだけどね」
 父は入隊して、そのわずか二ヵ月後。どこかの基地から出撃し、部隊ごと行
方不明になった。
 その事実だけは高校三年生の冬、教室に届けられた。
「それが、父と母の旅の終わりか」
 夏、花の島。父と母のたどり着いた先。北の果ての島。樹一本生えない自然
の中。父に甘え、依存し、それでも自分の意志を貫き通した母が幻想にとらわ
れた場所。あの笑い顔の下に辛い思いを抱えて、ただ娘に笑いかけるために必
死の努力で孤独を隠した場所。
「梗ちゃんが出て行ってからの三年間、小桜さんと千秋は仲良かったよ。基地
の話も落ち着いたってのもあるだろうけど、梗ちゃんが出ていって思うところ
があったんだろうね。よくさ、口癖のように」
 その口癖は知っている。
 私に隠れてお互いにキスして言うのだ。
 キスというものは子供ながらにとても素敵なことだと思った。
 好きな人と一緒になるということはなんてきれいで、かわいらしくさせるの
だろう、って。
 だから叔父の言葉を奪う。
「ほら、私たちってこの島のお花畑みたいですね。千島小桜に千島桔梗。ほん
と、子供がいてよかったです」
 母の柔らかな言葉を思い出し、目を閉じてつぶやく。
「なんだそれ。俺がいないだろそれだったら」
 父と同じ声が返ってくる。過去に繋がった現在の中、母の返す言葉を口にす
る。
「いえ、千秋さんは苗字で入っていますから、二人分です」
 そんなにも私は愛されていた。母は父を誰よりも愛し、私を一番愛してくれ
た。
 何度も繰り返された両親のその会話を幸せだと思った遠い日。その記憶がほ
んとうに正しいと感じた今日という日。
 少し拗ねた父を優しく包む母が一番きれいで、とてもいい家族だった。
 もう、二度と見ることのできない幸せの風景が目を閉じたそこに甦る。この
世界で、世界で一番愛し合って、お似合いだった夫婦の姿を二度と見られない
ことがただ、悲しかった。
 父が死んだ。一緒に歩むことすらできない。飲み交わすこともできない。
 それだけが強く突き刺さる。下宿で一人父を弔ったときよりも何よりも今、
父の不在を強く感じた。
「私は父に何も出来なかった。父はそれでも幸せだったのか」
 自問自答に
「お前がそうなれよ、俺の娘ならモテモテだぜ」
 顔を上げる。叔父が笑って私と目を合わせる。
「って、千秋なら言うと思うよ」
 お父さんと全くそっくりで笑えた。決意する。
「ありがとう。感謝する」
 幸せに生きていくこと。
 私にはもう、手に届かないものだ。遅かれ早かれ私は人間をやめ、一人でも
多くの敵を殺していく。それでも最後の瞬間までは、幸せに生きていこうと思
う。父の分まで母を幸せにしてやろう。
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