夏、花の島

11話

 機影が夕空に光り、北に消える。空を二分する飛行機雲を目で追いかけ、校
庭に出る。
 飛行機雲を目で追ったあの日。夕焼け空に光る一番星が目に痛かった日が繋
がる。
 壮大な家出を始めた五年前の日だ。中学三年生になって島の道路が二車線に
拡張され、島の北半分が立ち入り禁止区域に指定され、基地の拡張計画が遂行
された。五十年も続く戦争を終わらせるにはこの島に最前線を築くしかない、
そんなことは誰にだって分かっていた。母だけがその計画に反対し、変わりゆ
く島の姿にもうんざりし、島から出て行く決意をした。両親にも知らせずに。
 中学校の先生にだけ進学先を伝え、勉強した。一人暮らしの計画を立て、下
宿先も自分で探した。必死の勉強で授業料免除枠と奨学金を獲得した。一人で
も生きていける、そう思った。
 五年前の三月二十七日。とても冷たい、澄み切った空の広がった日だった。
書置きを残して家を出た。家出だから見送りなんてない。着替えに身の回りの
もの入れた鞄一つで連絡船の甲板に立つ。島から吹き付ける冷たい雪交じりの
風が顔に痛かった。隣島の夕日に焼ける光景が目に悲しく映る。見送りの人だ
かりの中に両親の姿を最後の最後まで探して、見つけることは出来なかった。
もし見つけていたらすぐに船を降りていた。今なら分かる。多分、父も母も私
の計画をずっと知っていて知らない振りをしてくれていたのだ。多分、見送り
だってしてくれていたのだ。その上で、何も言わずに私を見守ってくれた。で
も、当時の私にはそんなことが分かるはずもなくて、ただの孤独を抱え込んで
いた。軍人とその家族が別れを惜しむ姿に嫉妬した。
 汽笛が係留ロープを分かち、東に向けて船が動いた。
 夕空を飛行機雲が切り裂いていた。その飛行機雲を海の上から目で追いかけ
た。白く輝く雲と、太陽を反射する機体が目にしみた。自分の向かう先がまが
うことなき自分の手で奪い取った、栄えと希望のある未来だと言い聞かせた。
 この運命は小さな島が背負うには大きすぎる。島の運命に自分を重ね、子供
じみた既成の感傷に浸ってみた。悲劇のヒロインっぽくて、そんな自分に愛想
がつきた。陸地からついてきたカモメが離れ、日が沈み、島影が黒く海の一部
に蓋をする。灯台の光が空を射抜き、一番星と力比べをする。天空を半分に絶っ
た飛行機雲がぼんやりと解けてなくなった頃、コートの襟についた涙が凍って
いた。
 泣いていた。希望あるはずの未来へと向かっているはずなのに、涙が止まら
なかった。自分がばかみたいだった。だからわざと大声で泣いてやった。世界
なんて滅びてしまえ。そう口にしようとした。
 そんなとき。いつだって世界を恨んだ瞬間に祝福が訪れる。
 頬に冷たいものが触った。振り返った先、年老いた男の手に銀色の缶が握ら
れていた。私の手を取って優しくそれを握らせて、そしてこういった。
 そんなときは飲め。
 男の手からそれを受け取り、一気に飲み干してやった。それが初めて飲んだ
日だった。ふるさとに勝手な別れを告げた日で、一人で生きていってやると決
意した日だった。
 家出に希望なんてなかった。あったのは子供じみた意地と滑稽な屁理屈だっ
た。
 高校時代は自分の信念だけを抱えて必死に生きた。振り返っている暇なんて
なかった。身分違いの高校と、贅沢すぎる高校の植物園と、冷気の入り込むぼ
ろアパートが私の居場所だった。生きていくということは世界一難しいことな
んだと知った。私の五年は五秒で回想できるものなんかではなかった。気を抜
くとこの世界のどこかに自分が四散してしまいそうな日々だった。
 高校一年生の春の日。元来金持ちが通うような私立高校に私のような家出人
が来るべきではなかったと思い知らされた。衝動の高まりとの戦いの毎日だっ
た。成績だけは良かっただろうけれど、どうしようもない孤独に潰されそうだっ
た。
 それは五月にしてはめずらしく暑く、制服のブラウスに背中の汗が滲んだ日
だった。明日という日が終われば実家に戻ろう、そう決めていた。一人暮らし
の都会の隅なんてものは耐えられるようなものではなかった。早すぎる夏の大
気を感じたその日、学校の事務所に退学願の様式をもらった。濃密な、でも愁
いを帯びたにおいの空気を肺から大気へと戻す。私はセミのいる大気の下では
生きていけない。
 最後だから学校を巡ってみた。踏み入れたことのなかった六面張りのテニス
コートに入り、映画でも流せそうな視聴覚教室のドアを突っつき、そして植物
園の手前にまで足を進めた。関心はなかったけれど最後だから目を通した。気
の利いた花を咲かせる異郷の植物の間を妙に落ち着いた気分で通る。
 そして、その場所が私を待っていた。
 息が止まった。青のらせん状の花。小さいけれど五枚のしっかりした花弁を
空に向かって突き出す白い花。エンドウに似た、小さくて白い絹毛をかぶった
ふるさとの名前を冠した気高い花。いや、花なんて名前じゃない。私は知って
いる。彼女たちに与えられた美しい名前。
 得撫草、色丹草、礼文草。
 父が守り、母が愛した高山植物たちだった。
 故郷を背負った風変わりで気高く、消えゆく花。
 ああ、これだと。
 涙なんてこみ上げなかった。代わりに人生で最高に笑った。もしかしたら私
も彼らと一緒にこの大気の下で生きていけるのかもしれない、そう思った。高
山植物を見ていると私の中の破壊的な衝動が安らかなものへと変化していた。
退学願を丸めて本気で地面を蹴った。
 何があっても絶対に負けない。その記念日に髪を伸ばし続けることにした。
一人で生きていく。大切なものを切り捨てて、強く、強く生きていくと決めた。
たとえ何かを踏んづけて壊してしまっても、人を殺してでも、私だけは生き残っ
てやると決めた。その証の長い髪だった。高山植物を毎日観察し、世話した。
自分なりにまとめた高山植物の開花機構を発表もした。
 開戦と同時にこの島が名誉を授かり貴重な植物を失ったように、私もたくさ
んのものを得て、数え切れないものを失った。それが私の中の誕生と鎮魂だっ
た。母も私を産んで、多くのものを失ったのだろう。それが母の中の誕生と鎮
魂なのだろう。
 どれほど頑張っても私は母と同じものさしでは比べられない。母の強さは私
が知っている。気づかない振りをしてきたけれど、母という大きな山を越える
には私の力はまだまだ足りていないらしい。だから今、この大気の下で宣言し
よう。北の果ての、この生まれ故郷の夏、花の島で。
 祈る。
 お母さん。私はここにいます。戻ってきました。
「ここでしたか」
 夕暮れの凪の一時。植物の葉が纏った露に太陽の金色。優しいその声に顔を
上げる。
「梗ちゃん、ばんごはんです。お友達の遊びに夢中でしたか。それとも小学校
が懐かしいですか」
 校庭の真ん中に立つ、その人の姿を見つめる。金色の大気の中で優しく笑う
大切な人の姿を認める。変わることのない世界に閉じ込められた強い人が私に
声をかける。誰よりも強く、ときに私以外の世界全てに暴力的なその人。私の
母親。千島小桜。千島千秋の妻。笑うのが得意で怒るのが苦手で、泣き虫の人。
どれほどの言葉を費やしても語れないのに、たった一言で呼ぶことのできる人。
「お母さん」
 柔らかなひらがな五文字の魔法。
 今、五年経って。ようやくこの島に帰ってきたのだと思う。
「帰りましょう、梗ちゃん」
 その柔和な顔が優しく、少しだけ硬くなった掌を差し出す。
 母の身体を抱いた。
 この小さすぎる身体で私を産み、細い手首で私を支え、白い掌で私を育てて
くれた。
 言わなければならないことがあると分かっていた。なのに。
 言葉の代わりに涙がこぼれた。
 たとえ母の目に現在の私の姿が届かなくても、そんなことはどうでもいい。
報われようなんて思わない。愛してくれとも言わない。ただ、母が幸せであれ
ばそれでいい。生きていてくれればそれでいい。甘えさせろとは言わない。焦
らなくともきっとわかってくれる。母は今、悲しい記憶にとらわれているだけ
だ。だって。
 母は強いもの。
「ただいま。お母さん」
 私は帰る。セミのいない夏、大気の薄い花の島へ。夕暮れの景色が美しい、
彼岸の島へ。長い、長い家出を終えて、失ってしまった思い出を一つ一つ丁寧
に掘り返して埋葬しよう。
「おかえりなさい」
 帰ってきた。五年間の家出の終わりだった。この島に戻ってきた日感じた心
を置き忘れた気持ちを今、埋める。
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