世界なんて滅びてしまえ。この島を出た五年前に呪った同じ言葉を繰り返す。 その言葉を声にしようと口をあけて。 その言葉を言ってしまえば私は人間をやめることになる。 「ききょうさん、こんばんは。誰かを待ってるの」 幻想的に聞こえてくる穏やかな声。今私が一番欲しい人の声だった。でもこ んなところにいるはずがない。これは私の幻想。だから皮肉を言ってやる。 「私が帰ってくるのを待っている」 この島に降り立った瞬間の直感は正しかったのだ。身体は故郷に帰ってきた のに心には故郷という居場所が消えていたのだ。どうしようもない自分の道化 に笑ってやる。泣く代わりに。そして目を閉じて涙を閉じ込める。 「そっか。じゃ、雨宿りしよ。多分、心ももうすぐ戻ってきてくれる」 どうだっていい。幻想だろうが妄想だろうが現実だろうが快楽のあるがまま に向かおう。今だけはそんな動物的な私でいい。差し出した私の手を水の滴る 二並が握り、私が卒業した年に廃校となった平屋の校舎の中へと入る。随分小 さく見える教室に置きっぱなしの机と椅子。教卓に二人で腰掛ける。冷えた体 が二並の熱で温まる。二並の幻想的な優しさが私を幻想的な世界へと誘う。二 並の前では完璧でなくたっていいし、自分を抑えなくてもいい。そう思うとそ の腕の中でさっきまでの思いが消え、穏やかな気持ちが戻ってくる。重いまぶ たにあの日のことが浮かぶ。 沢を登って遭難騒ぎを引き起こした日のこと。 涼しい風が島全体を覆い尽くしていた。夏の晴れた日だった。あれが私の孤 独の始まりの日で、始まりの場所だった。中学三年生の夏の一章だった。 その日、私は自分がこの世界で異質な人間だと思い知らされた。敵を助けた 味方の話。先生がそんな美談を生徒に語る。敵をどうやって殺すかだけを考え ていた私には、敵を助けるなんて発想が湧かなかった。誰に教えられたわけで もないのに人を見れば判断基準は敵と味方。人の背格好から戦闘経験に武器の 携行の有無を判断し、戦うべきか否か、殺すべき順番を瞬時に判断する。ずば 抜けた反射神経と身体能力が破壊衝動に向かうのを隠し通すのに限界を感じて いた。私は単なる優秀な兵器なのだと気づいた。そんな私が生きている理由な んてなかった。 だから死ぬことにした。家の近くを入った沢に入り、時折現れる荒々しい岩 の滝をゆっくり登る。 ―――制服のまま沢の中を登る。青空に続く笹の中の冷たい水。やがて川か ら水が消え、目の前にはどこかの山頂。青空の高みへと体を運ぶ。 見たことのない景色が広がっていた。紫色の螺旋のような花。白い、柔らか な衣をまとった花。稀少な高山植物が惜しげもなく咲く場所。誇ることもなく、 ただ美しく。強い風に揺れるお花畑が幻想的だった。夕暮れが近づいて肌寒く なる。隣島の山肌が赤く染まり、私の暮らす集落に電灯がともる。はるか遠く の都会の光が星を写した海に輝き始めた月明かりの下。そんな夕暮れの終わり。 私は、この世で一番孤独だ。 あまりにも美しい景色に呆然としたまま時間を過ごした。長い夏の日が終わ り、なにもかもを覆い尽くす夜が訪れる。 乾ききらない制服が夜風に冷たくて丸まった。ふと、目線に着飾った美しい 高山植物の中、岩陰で頭を垂れる黄色い花を見つけた。たとえるならばタンポ ポのような形。小さく、地味で私のようだ、と思った。だからそっと、その花 を風から守ってあげた――― 花を包み込んで横になって寝た。頭上を飛ぶヘリコプターの音がうるさいは ずなのに、とても穏やかな眠りが訪れ、そして切ない夢を見ていた。それはこ の島の悲しい物語の夢だった。この島で繰り返される悲しい物語だった。避け ようのない呪いが島を覆い、圧倒的な孤独に潰されていく人の物語だった。 いつのまにかヘリのローター音が消え、朝露の中で伸びた影に気付き、目を 開ける。 父だった。父の差し出した手の強さと、温かさの中、一人で生きていこうと 思った。家族の温かさは私にはあまりにも贅沢すぎる。 「僕はうれしかった。ききょうさんのおかげでこうやって生きていられたから」 まぶたの重い私の耳にそんな言葉が届いた、気がした。 思い出した。あの時見つけた花の名前。この島の岩陰にしか生えない花。 フタナミソウ。 その言葉と共に、二並の腕の中で再び眠りに落ちる。 気がつくと金色の世界の中にいた。雨上がりの露が輝き、一つ一つに世界を 映して光を集める。そんな世界一美しい北の島の夏の風景が広がっていた。 夕暮れ間近、小学校の教室に一人。あのまま椅子で眠り、朝になって誰もい ない机で目を覚まし、ずっと座ったままでいた。二並の腕の中にいた時間をゆっ くり思い出して少しだけ顔が赤くなる。動く気力もなく椅子に座り続けてこん な時間。小さな椅子から教卓を見上げる。 「ほんとうに小さかったな、私も」 時間の止まった北の果ての大気に独り言が吸い込まれる。 教室独特のにおい。薄汚れた黒板。廊下の照り返し。自分の机を優しく抱い て、キスしてみた。木製の少し埃っぽいにおいと温かさが唇に印象的な夕暮れ。 八年以上前から画鋲に刺された掲示物を眺める。夏休み中の注意、島内のお知 らせ、年間行事計画。あの頃の残骸を目で追って、一つ一つ埋葬していく。夏 祭り、スキージャンプ大会、校庭に水を張ってスケート。ほんとうにありきた りの子供時代だった。親子ハイキングは両親と行った。島の西側に広がる崖を 歩いた。穴の開いた貝殻を見つけては拾い、糸でつないで母にプレゼント。と ても喜んでいた母が私の自慢だった。そして未だに戸棚に飾ってくれている。 貴重な高山植物を摘んで遊んで先生に怒られたこともあった。母には懇々と説 教された。交通安全教室なんて思い出すだけで顔が綻ぶ。島にわずか三つしか ない信号で勉強するのだ。赤信号は渡ってはいけない、と。そんな注意を聞い た直後、私は赤信号を渡って母に怒られる。 「赤信号は止まらないといけません。梗ちゃん。その、そうしないと、えっと、 お母さんはどうしたらいいでしょうか」 それが母の怒り方だった。普段より少しだけ真剣な顔が母の精一杯の怒り顔。 怒るのが苦手で、笑うのが得意な人だった。 対する私は得意に反撃。 「だって、車来てなかった」 ものすごいふくれっ面で顔を真っ赤にした私が浮かぶ。母と先生の笑い声が 頭の隅に残っている。そしてその隣には笑顔の母と、豪快な父の笑い声。私は ほんとうにたくさんの人に愛されて生きてきた。私の隣にはいつも父か母がい て。 幸せだった。もう、戻ろう。現実に。 さようなら、幸せ。人並みの幸せは十分に貰った。 小学生並みの家出は小学生並の理由で終了だ。それでも帰るのが怖いから、 それだけの理由で太陽が落ちるまで校庭で過ごす。迎えに来て欲しい。いや、 迎えに来てくれる。母はいつだって私を守ってくれる。 誰も入らなくなった校庭に咲くキンバイが夏を告げる。雨が降った後の冷た い、湿っぽい、世界一きれいな空気が身体を満たす。そんな、世界一美しい夕 焼けが、この島に戻ってきて始めて見る夕焼けが始まる。 |
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