島に戻って一週間と少し。民宿の手伝いにガイド、その間で二並や高嶺と会っ てばかな話と飲み会と気楽かつ暢気な日常が流れる。島の村長にも招かれれば 基地での儀礼も受ける。そんな堅苦しい挨拶と私への不必要な賞賛に正直うん ざりしながらも形だけをこなす。軍隊では士官と下士官で入る風呂も違えば廊 下の幅も違えば食堂ですらも違う。どれほどの高潔な理想だって、その特別扱 いの前には一瞬で消え、おぼれていく。私を特別扱いしようとするのはこの島 に共通する現象で、ほとんど顔を合わせることのなかったような人ですら遠目 に会釈し、丁寧語で話しかけ、それは五年前を気取ろうとする基地の知り合い も、高嶺も、学校の先生も、叔父ですらも同じだった。そんなつもりはないの だろうが、どうしようもなく孤独を感じてしまう。私への特別扱いは母の孤独 を連想させ、そして唯一私を特別視しない二並への思いへと変わる。 あの家族を案内してからは母と一緒に過ごしたいと思っていた。だから母の 幻想を覚ますために努力をした。無理をして入るはずもない中学の制服を着て やったし、持ち帰った高校の頃の写真も見せてやった。それでも母は現実から 逃避する。最近では目を覚まさせようとする努力は放棄し、ルーチンワークを こなすように母と過ごしている。民宿から帰り、一緒に食事を取り、適当にあ しらって、適当に無視して母を寝かしつける。母が起き出す前に家を出て、民 宿で仕事をこなし、来た日から冷たくなり続ける風の中にバスを待つ。 厚く垂れる雲の下、道路の水溜りにどこから飛んできたのかもわからない落 ち葉が一つ揺れていた。きまぐれな秋の足音を聞いたような気がする。朝から 降り続ける雨がこの島を霧の中に閉じこめ、肌寒さを三割も増しだ。傘なんて 持ち歩いていないから全身ずぶぬれ。星一つ見えるはずもない空に目線を向け、 長い髪を伝う水滴を背中に感じる。二分遅れでやってきたバスに乗り、身体も 拭かずに終点まで。ゲート前で待機していたワゴンに乗り、中で渡されたタオ ルで義務的に腕の水滴を落としておく。 「悪かった。助手席を汚したな」 「いいよ、准尉。どうせ暇だから掃除くらいしておくよ。では明日も電話をか けて」 その言葉で別れ、実家へと向かう。どれほど入念に身体を拭こうともその距 離で身体が濡れるのだから笑えてしまう。 遠目に母の姿が見えた。雨の中、玄関先に立って闇の中に視線を這わせる母 と目が合う。その顔に飛び切りの笑いが咲き、私に手を振って駆け寄ってくる。 「梗ちゃんずぶぬれです。タオル持ってきますね」 「私」を待っていたらしいが、母のほうが私より濡れている。多分、雨が降 り出してずっと私を玄関先で待っていたのだ。 報われることもないのに。 この島を飛び出した日から伸ばし続けた後ろ髪が頭に重く、背中に冷たい。 「はい、どうぞ。どうかしましたか」 差し出されたタオルをぞんざいに受け取ろうと手を伸ばす。自分でも気付か ぬ瞬間にその手が宙で止まり、 タオルを地面に落とした。 忘れようとしていたそれが視界の真ん中に飛び込んできた。 タオルの端が薄茶色く汚れていた。すぐに母の笑顔に視線を向ける。 笑い顔の母の顎の下あたりだった。赤黒い何かの塊を見つけて。いや、そん なごまかし方はしなくていい。もう間違いない。 血液の固まりだ。 認めざるを得ない。母は相当量の吐血を繰り返している。誰にも言わずに、 だ。嘘一つ言えそうにもない母がなぜそこまで隠そうとするのか。簡単だ。 助からないからに決まっている。 身体から力の抜けるような絶望感が訪れた。この島に戻ってきてから溜まっ ていたものが吹き出る。いい子供を取り繕うなんて思う気持ちすら吹っ切れた。 足元に落としたタオルを蹴り上げ、闇の向こうへと吹き飛ばす。母の肩をつか んで壁に強く押し付けて、感情に任せるままに 言ってやった。 「なぜ言わない。身体を壊しているんだろ。笑って隠すな。お母さんはお父さ んに頼って生きてだろう。今更一人で大丈夫みたいな顔するな。お母さんは、 誰かに頼らないと生きていけないんだろう。私がいるんだ。お母さんの知って いる中学三年生の千島桔梗じゃないんだ。今の千島桔梗は大学生で軍属なんだ。 お母さんの目の前にいるこの私なんだ。私が、千島小桜の娘なんだ」 母の目が大きく開いて、それでも何とか笑顔を作る。 「あ、あの、どちらさまで」 足元の何かを思いっきり蹴り上げ、母の胸を締め上げる。 「私はお母さんの子供の千島桔梗だ。もう中学の制服なんて着ていないんだ、 私が、お母さんの娘なんだ」 自分から壁を作って子供を拒否する母が憎い。自分のことを隠し通そうとす る母が憎い。そんな母のことを守ることも出来なかった私が世界一醜い。それ でも笑顔を貫く母は 「ごめんなさい。私の娘はどこにいるのですか」 世界一報われない人だった。 反射的に玄関の壁に拳をぶつける。大きな音がして壁に穴が開き、小物が棚 から落ちる。ずっと言ってやりたかったことがこみ上げる。 一人で頑張ってきてお母さんにわからない苦労をしてお母さんに認めてもら いたくてお母さんに褒めてほしくてお母さんに大好きと思ってほしくてお母さ んに甘えたくてお母さんを助けてあげたくて孤独で甘えさせてもくれなければ 甘えてもくれなくてこのうえなくやさしく笑ってその笑い顔をこっちに向ける な迷惑だ鬱陶しい。笑うな、笑うな、笑うな。 あんたの桔梗はここにいないんだ。産まなきゃよかったんだ。 それが言葉になったのかどうかわからない。喉が枯れ、床にへたりこむ。気 がつくと、母を押し倒し、馬乗りになっていた。床に倒れた母が大きな目を開 き、それでも何とか笑顔を取り繕うとして、努力していた。一呼吸して、その 身体から離れたところに立ち上がる。 「産まなきゃよかったんだ。子供ができた時点で殺しておけば、誰も苦しまな かったんだ」 そして 笑顔の壊れる音が聞こえた。おなかを押さえて玄関先で頭を擦り付ける母の 姿があった。 母の口から漏れ出る笑いを押し殺したような声が空間を包む。凍り付いた笑 顔が崩れ、喉から漏れていた奇妙な声が言葉を形作る。 「ごめんなさい。桔梗は私の子どもです。産むって決めたんです。育てます。 迷惑かけません。桔梗を殺さないでください」 脳がその言葉の意味を拒否していた。 母が額を擦り付ける先には私がいて、その先にいる誰かにすがる。殺さない でくださいと。 言葉が世界を壊し、母の言葉が原型を徐々に崩し、悲痛な泣き声に変わる。 その泣き声に胸が締め付けられる。言葉の意味も、向けられた先もわからない。 絞り出すような声が日常を、この家にあったはずの昨日までの幻想を、過去 にあった幸せを壊していく。ごめんなさい、ごめんなさい。ごめんなさい。桔 梗は私の子どもです。生きています。ほら、元気に動いています。私のおなか に触ってください。 「お母さん、何を、私はここにいる」 ひねり出した間抜けな言葉が空しく跳ね返り、肩に乗せた手は母の強い掌に 叩かれて落ちる。それでもその悲惨な言葉は終わらない。ごめんなさい、ごめ んなさい。殺せないです。 「ごめんなさい。桔梗を殺さないでください。桔梗は、私の大切な子供です」 繰り返される懺悔が頭の中にこだまする。真っ白の頭で懸命に大切なことを 思い出す。 この声を繰り返す人は誰だったのだろう。 目の前で泣いて世界を拒否するこの人は、誰だったのだろう。 そうだ、千島小桜。私の母だ。とても柔和で、かわいらしくて、怒ることす らできなくて、それでいて芯の強い一人の女性だ。 誰も知らないところで戦う強い母がいた。その女の人は「桔梗」という子供 を持つ母親だった。母親は桔梗という名前の娘を何よりも大切にしていた。こ れほどの母親がいるはずがない。 でも私は、その人の娘ではなかった。 とっくの昔に気づいていたことだ。 この島を出て行った日。私と母は他人同士になった。ここに私の居場所はな かった。 家出したあの日から、私はこの島にとっての他人になっているのだから。幸 せの日を夢見続ける哀れな「母親」を観察する他人なのだから。私は娘の振り をして、マッチ一本ほどの温かさも勇気も持ち合わせずにのうのうと戻ってき た他人なのだから。人間の感情を持ち合わせない欠陥品なのだから。ようやく わかった。五年も離れて娘面して現れた私の方が間違いだった。 家を出よう。 「ごめん、お母さん。私が迷惑だったんだな」 こんな化け物のような私が一人前に家族の幸せなんて求めたのが馬鹿だった。 走る。家の前に広がるキンバイの花を、トラノオのうす桃色を、玄関先のと っくに枯れてしまった母の鉢植えを、五年前からおきっぱなしの私の自転車を 蹴っ飛ばして踏みつける。海を左手に見て、引きちぎった草を土ごと投げ捨て てやる。それでも足りなくて暗い方へ走ってやった。死んでやろうと目をつぶっ て走った。 なのに。息が切れて目を開けると世界一滑稽な場所にいた。 とっくの昔に廃校になった私の通っていた小学校だった。 草に覆いつくされ、平屋建ての空色の校舎が雨にぬれて銀色に輝く。さびきっ た鉄棒に頭突きをくれてやり、古タイヤにつまづいてひっくり返る。口の中に 広がる鉄の味が最低だ。空を見上げて雨で顔を洗う。顔から胸元に流れ込む雨 が気持ち悪くて、そんな気持ち悪さが気持ちを代弁している。 「この、大馬鹿者が」 息の切れ間から言葉を口にして泣いてみる。覚悟なんてできているわけがな かった。私が帰れば、誰にも優しく上品な母親に戻ってくれる、そう思ってい た。自分だけはこの家から逃げ出して、それでも自分だけは母の子どもだと思っ ていた。母を救えるのは自分だけだと思っていた。とんでもない思い上がりだっ た。思いっきり泣いた。声を上げて、五年前の晴れた日ならば見えるはずの漁 火に呪いをぶつけた。 こんなにも強い力を持つ自分が一番大切な母親一人を大事にも守りも出来な いのだ。そんな私ならいなくなってしまえばいい。そんな世界なら、 世界なんて滅びてしまえ。 |
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