ガイドを終え、その足で中学校へと向かう。午後三時で今日の仕事は切り上 げだ。キンポウゲとセンダイハギの生える坂を上り、嫌いで仕方のなかった校 門をくぐる。中学校のグラウンドからは連絡線の白い船体が見える。鉄板のよ うな海にたった今到着したやけに新しい船体が一つ浮かび、海鳥が沖に羽ばた く。ここから見る連絡船の風景は格別だ。 ここから連絡船を眺めて、そして最後の未練を振り切った五年前の状況が浮 かぶ。みぞれの振る天気の中、学校に密かに運び込んだ生活用品を連絡船に積 む作業は先生に手伝ってもらった。そんな何もかもが懐かしい。 感慨だけが残る校庭を過ぎやると過剰なまでに設備の整った校舎が見える。 校門の右隣には有事用のシェルター、左横には村役場に設置されているものと 寸分たがわぬ六人の銅像と碑文。奇襲後わずか三十分で壊滅したこの島の中で 唯一戦った高校生四人に先生一人に旅行者一人だ。碑文には最後まで生き残っ た生徒の言葉が残っている。声に出す。 「われわれは果敢なる誇りをもって全国民に告げる。立ち上がれ。応えよ、こ の島からの呼びかけに」 その言葉が実質上の宣戦布告であり、反攻宣言であり、百年かかってもまと まらなかったこの国をまとめたものであり、ほぼ完全な徴兵制を敷かせる原動 力となり、この島の姿を変えてしまった。この島を必死で守った六名はこの国 の正義の宣伝と士気高揚の格好の材料となった。 曰く、最果ての島で命を賭してこの国を守った高校生がいる。われわれも武 器を取り、立ち上がらなくてどうするのか。その言葉の背後にあるはずの島民 の死も、壮絶な戦闘も、あっけなく死ぬ味方も、全てを無視して。 そしてこの国は実質上泥沼化した戦争に突っ込み、本土に直接攻撃がないこ とをこれ幸いと戦争を拡大し、今やどう見ても侵略する側はこの国である。碑 文に入る「武器を取れ」という言葉だけは絶対に言わないそんな自分の誇りを 貫いた高校三年生の一瞬を少しだけ回想しかける。 「お、千島、今お茶淹れたとこだ。上がっていけ」 回想モードに入りかけた私の前には先生の笑顔。 「どうせ何時来ても紅茶淹れたてなんだろう。感謝する、先生」 高台に立つ中学校だ。職員室から見ていれば来訪者が分かる。ただの無断早 退程度で山側の笹薮を漕ぐ奴もいないので職員室に座っていれば、生徒の出入 りなんて全部分かる。校門の陰に隠れて早退しようしたときも、草陰に隠れて 体育の授業を欠席しようとしたときも先回りした先生に手を引かれて職員室へ 直行させられた。一通り怒られた後必ず出してくれたものがレモングラスの入っ た紅茶だ。遅刻早退のとき、必ず先生はこのお茶を出してくれた。そしてこの 島を出て行く寸前、やっぱりこのお茶を出してくれた。五年前から変わらない 心の落ち着くにおいが広がる。深い青色の紅茶茶碗を両手でもって温かさを感 じ、一気に飲む。そうするともう少し頑張ってみようかという気持ちになった。 いつだってレモングラスの入った紅茶に心を落ち着けられた。 「思い出すな、昔のことを」 「あれか。あのころ鬱陶しく感じていた高嶺への感情が実は淡い恋心で反抗し ていた中学校の先生に疼く身体だからバールのようなものは真剣に死ねるから」 もはや振り下ろしても犯罪ではあるまい。 「香りから思い出す過去なんて素敵だろ。高校進学の準備も、その中の一つだ」 島外の高校を受けることは両親に内緒だった。当然遠く離れた都会の隅に下 宿することなんて一切言わなかった。一人でも生きていける、そう思っていた。 「あれは俺にとっても最高の思い出だ。知ってるか、お前の姿がテレビで放映 されるたびに村役場に人が集まってな。正直鼻が高い」 高山植物の開花生理と群落形成に関する発表をしたのがきっかけだった。お かげで高校の植物園には大幅な予算がつけられ、テレビも来れば新聞も来た。 この国は今、それほどまでに明るい話題を切望している。 「何をしてもパンダだった。いい経験だったが、目立つのは私の仕事ではない」 植物園のことで理事長と協議した。馬鹿な生徒をかばうのに熱くなった。学 校祭で自分の我を通した。五年間という、お互いに知らない時間を教えあうだ けで日は過ぎる。職員室の中をむせ返るような茜色が染め上げ、冷やされた空 気が開けっ放しの窓から光の粉を海の彼方に運ぶ。校庭の隅に植わったエゾカ ンゾウの花が透き通って見えた。これほどまでに変化する五年間の中で、花の 姿と、花の中の実家と、母親だけは何も変わらない。 これが全部代償だ、そう言うのだろうか。ふと、二並の言葉が頭をよぎる。 「ところで先生、この島の物語というものに心当たりはあるか」 「ん、そりゃ昔から人がいたくらいだから何かとあるだろう。昔話がどうかし たか」 口をつぐむ。二並の話をしたところであやふやな情報を広げるだけで混乱に 拍車がかかるだけだ。 「いや、どうでもいい話だ」 むせ返るような金色が最後の光を落とし、沈黙の心地よい夕暮れの名残が満 ちる。電灯を点けに先生が立ち上がる。紅茶茶碗を流しへと運んだ。 そして、その質問はふいだった。 「そういやお前のお母さん、最近どうだ。相変わらずお前がいないという電話 が中学にはかかってくるんだが」 知っているくせに。 「ああ、申し訳ない。学校には迷惑をかけているな」 それ以上に戻る言葉もなく、返す言葉もないはずなのに。 「いや、そうではなくお前とお母さんの関係なんだが」 「先生みたいな他人には関係ないことだ。それ以上突っ込むのなら」 そこまで言って自分の腕を必死で押さえつける。明らかな敵意を瞬間的に先 生に向けていた。私の中の衝動抑制の限界はそこまで来ているのかもしれない。 私は本気で先生を殺そうとした。 「悪かった。母の話はなかったことにしてくれ」 言葉をつむぐたびに自分が最低な人間へと変化していく。母を引き取ったと しても、この夏が終わってしまえば私は普通の人間として母に接することが出 来なくなる。その焦りが余計に自分をいらだたせ、衝動を高める。 「そうだな。立ち入った話だ」 そんな言葉がとてつもなく苦しかった。悲劇のお姫様を演じているのは私だ。 皮肉たっぷりに跳ね返ってくる自分への罵声が頭に反響する。 「私は今、母にとって単なる他人だ。残酷な人間なんだ。母について何かをい える人間ではないのかもしれない」 母を引き取ってこの夏だけでも一緒に暮らしたい。でも、その先に見えるも のがあまりにも悲惨だ。いつも通り紅茶茶碗を洗い終えると向き直らずにつぶ やいた。 「それでは先生、もう家に戻らせてもらおう。せめて滞在中は母と過ごしたい」 扉を開ける。顔を見られたくなかった。そんなときの私は自分でも認めたく ないくらいに泣きそうな目をしている。 「あ、千島。お前の聞いた物語な、調べて民宿のほうに届けておくぜ」 流れ出る気まずさを更に居心地悪くさせるような笑顔で凍りつかせようとす る。 「ああ、感謝する。今度は潮浜に客として来てくれ」 底の浅い笑顔を作り、今は狭くすら感じる校庭を抜ける。このうえなく嫌いだった校門に拳を叩きつけて坂を下り、バス停を目指す。半月が頭の上に光り、地面を優しく照らしていた。 冷たい風がほてった頬に気持ちいい。秋が近いのかもしれない。 |
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