夏、花の島

第7話

 暇な時間は二並に会おう、そう思っていたのだが。
「まさか、千島か、千島桔梗か」
 現実は二並に会わせてくれない。民宿の仕事も暇になった昼下がり。堤防脇
で珍しい奴に出会った。
「高嶺か。五年ぶりだな」
 緑の作業服を着た小学校からの同級生だ。高嶺、なんだっけ。名前は出てこ
ない。元気な奴で中学のときもよく話しかけられることがあった。どうしよう
もなく暗い私から見ると時にはありがたく、時には鬱陶しかった。悪く言えば
人の気分を察することなく、よく言えば自分を偽らない。
「大きくなったな、千島。身長もだけど、特に」
 この島は欲求不満の溜まる構造をしているんだろうか。島の形が影響するの
だろうか。真剣に悩んでしまう。
「一度全島民を病院に放り込むか」
 それくらいしてでも調べる価値がありそうだ。
「その、言いにくいんだけど、聞いていいか」
 やけに思いつめた表情でそう言う。
「ああ、聞いてみろ。答えるかどうかは別だが」
 男の打ち明け話というものも少しは興味がある。どうせろくなことではない
などと半分以上諦めの境地にあるのに、それでも少しだけ笑える。
「揉まれてでかくなるってほんとかっ」
 手が出なかっただけでも褒めるに値すると思う。
「そんなに握りつぶしてほしいわけか。りんごを片手でつぶせれば十分だな」
 この島の挨拶であろうと必死に言い聞かせる。そうだ、これは習慣だ、風土
だ、宗教だ。そう思えばどんな理不尽も受け入れられる。
「まあ待て待て。まだ男としてやり残しがあるし。で、ちなみにどれくらい」
 やっぱり握りつぶして欲しいらしい。いや、これも挨拶だ。
「両手を出せば一つくらい収まる」
 だから挨拶を返しておく、それだけのつもりだった。
「……マジかよっ千島、ジャンプ、じゃなくて収めさせてくるぅわっ」
 気がつくと高嶺が宙を舞っていた。
「お、高嶺は空も飛べるのか、着地させてやろう」
 一気にその身体を地面に叩きつける。かつて命を持っていたと思われる残骸
を横目に見る。
「うん、手招きされなくても今行くよ」
 危ない言葉を言っている。ここで川を渡られてもなかなか面倒なので、気付
けに一発見舞っておく。こういう動物級の奴には荒治療くらいがちょうどいい。
「っは、俺どうしてたんだ、千島」
 一気に間合いをつめて法面に高嶺の肩を押し付ける。
「実はお前が宙を待っていたから助けてやったんだ。記憶に齟齬があるのは分
かるが、とりあえず私に感謝しておけ」
「意味分からないんだけどありがとうといえば助かるんだな」
 わからなくていい。私も忘れておく。
「ま、挨拶みたいなものだろ、お前は運が悪かったんだ」
 と言うことで決着を図る。
「それで千島、島に戻ったのか、あの民宿にさ」
 高嶺の目が輝く。
「いや、母のことで帰ってきただけだ。暇だから民宿でバイトもしている。今
日、飲みに来るか」
 それ以上母の話をされたくなかった。だからその誘いはごまかしだった。
「明日も早いからお手柔らかにな、そういう約束でなら飲もうぜ」
 全ての約束は破られるためにある、真理だ。
「で、今何の仕事を」
「ああ、法面工事。仕事は人狩りか土木しかないからな。千島は」
 そうだろうな、とは思っていた。こんな北の島だ。産業もなければ就職もな
い。ありがちな人生だ。
「私は大学生をしながら軍属でもある。少々忙しいが、実戦投入を早めるため
には仕方のないこと、らしい」
 それに現在の訓練は私には合っていた。人生で初めて自分によく似た人と出
会った。親近感も湧けば、遠慮も何も要らない。宇宙人のような私が始めて見
つけた対等な仲間だった。
「千島、お前この島に戻ってきてもいいんだぜ。軍隊なんて行かなくたって、
お前ならもっと道はあるだろ」
 そんな道の中から私はこの道を選んだ。私の本気になれる場所は軍隊だけだ
。人間らしい感情はこの夏を境に私の中から失われるだろう。より多くの敵を
殺し、より多くの味方を助けるだけの優秀な兵器には戦場が一番のよりどころ
だ。
「ま、お互いの無事が何よりだ。今日はのんびり飲むぞ、高嶺」
 隣島がかすむこんな日。少しだけ温かな潮風が島を駆け上る。短い夏を少し
だけ身体に吸い込んでみた。夏の終わりがそこまで来ていた。

 扉を開ける。
「ただいま、今日も飲むから場所を空けてくれ」
 ジョッキを持ち上げるまねをしてみる。飲み会の催促だ。
「今日もするのね、梗ちゃん横で、いえ参加させていただきますからジョッキ
のようなものはお下げくださいませ。飲み代ももつから」
 交渉成立。場の雰囲気を察した高嶺が逃げようとするが、そんなことはさせ
ない。しっかりと肩を掴んで奥へと引き込む。
「それでは覚悟はできているな」
「え、のんびり」
「たわけたことを、高嶺。あの敷居をまたいだ瞬間から別次元なんだ、な。叔
父さんも言ってくれ」
「高嶺、くん。逆らわないほうが身のためだよ。梗ちゃんはあの千秋とあの小
桜さんの娘なんだから」
 若干引っかかる言い方ではあるが、この上ない笑顔をきめて三人分のジョッ
キを満たす。
「あ、ああ。おかげさんで帰ってメシ食って寝るだけの一日が楽しくなった」
「き、梗ちゃん無理強いだけは」
「私が無理をさせたことなどあったか」
 気合だけで叔父を倒し、高嶺に迫る。
「よし、乾杯いくぞ」
 勢いだけの一杯目を空ける。続いて空いた二つのジョッキを左手で回収。
「高嶺、もう一つやることあるだろ。寝る直前にさ。こう、気持ちよく、な」
 なぜだかからかってみたい気分だった。三人分の空ジョッキをサーバの前に
並べる。
「な、なんだよそれ。なんだろうな、なんでしょうか千島さん」
 無駄にあわてる高嶺。高嶺と私に次の一杯を注ぐ。
「そ、それ叔父さんも知りたいな。若い人の会話はいい、うん、ほんとに梗ちゃ
んも女の子なんだって思うねえ」
 欲望むき出しのサル二匹を背中で押し殺し、一気に飲み干す。叔父が続く。
「じゃ、お二人にヒント。それは一人でするのが普通だ」
「だろうな、普通一人でするものだ。相手があればするものじゃないだろうし」
 高嶺がこらえきれずにジョッキを空ける。台所に走って三人分、注ぐ。
「ちなみに私は裸で。高嶺はどうだ。女にここまで言わせて言えない、なんて
こと許されないぞ」
 食卓に二人分のジョッキを置いてやる。私は台所で直接。
「千島は裸なのか、そうか。まあ、わざわざ脱がなくてもいいかと思うが」
 その場で空にして、次を入れる。超ハイペースだ。多分新記録樹立だ。
「うん、男は違うのか。女は普通裸だ。叔父さんその辺何か解説を頼む」
「う、梗ちゃん、それは。とりあえず全裸でよろしく」
 ジョッキを洗い場に放り込む。サーバーから直飲みのほうが楽でいい。高嶺
には表面張力よろしいピッチャー。叔父は言葉も挟まず焼酎の棚を漁る。
「ん、そういわれると裸もありだな。で、アレか。その、女は想像で頑張ると
聞いたんだが」
 妄想ここに極まれり。
「ん、想像か。そんな人がいるのかどうかわからないけれど私は道具を使う」
「な、何。道具か。奥深いんだな。マニアックだ」
 むせかえる高嶺。後ろから頭を押さえつけ、ピッチャーを口にあてがってや
る。面白いほどに黄色い液体が流れ込む。人間ビールサーバーの出来上がりで
ある。
 死闘開始三十分。生が切れた。買い置きの樽もない。仕方ない。焼酎に移行
する。棚から取り出した喜界島原酒四十三度を空いていたジョッキに注ぎ込む。
さあ、これで口でもすすげ。再び頭を抑えジョッキを口にあてがってやる。
「ああ、石鹸。英語で言うとソープだな。最近いろんなものが出回っているが
私は昔ながらの石鹸が好きだ。すべすべ感がたまらない」
「すまん、いろいろ想像していいか」
「お、叔父さんも妄想王国に入っちゃおうかな」
 悶絶する叔父を部屋の隅に蹴飛ばしておく。自分に入れた麦焼酎原酒「黄金
の日々」四十度を空にする。普通に致死量を越えている気がする。さて、そろ
そろ勘弁してやろう。
「身体洗うのは石鹸が一番だろ。寝る前はお風呂だ。入っていくか」
「……えっ、風呂、ってなんの話だ」
「ああ、お風呂の話。一人で裸になってするものなんて風呂ぐらいだろ」
「梗ちゃん結構大胆なエるぶらっ」
 一人で悶絶する肉塊の口に球磨火酎五十度。汚物はアルコール消毒だ。そん
な馬鹿みたいで楽しい、ほんとうに上っ面だけの時間が過ぎていけばいい、そ
う思っていた。
「千島も元気になったな。それだったらおまえのお母さんも元に戻りそうだ」
 昨日の今日で、その話題が出るとは思っていなかった。ふざけた気分が抜け
る。高嶺だって島の人間だ。母のために手を煩わせたこともあるだろう。
「ああ、島全体で母の生活を支えてくれているんだったな。感謝している」
 正直な気持だった。収入も働く力もない母の生活費は私と村役場が出してい
る。それを使って食料に衣類、家の補修をしてくれているのは島の人々だ。生
活能力を完璧に失っている母のために屋根の雪を下ろし、ゴミを回収し、家を
補修し、食料品を届けてくれている。
「現実的な話、お前の親だからみんな世話をするんだろうな。下心もあれば見
栄もあるとは思うぜ。だって千島、お前は今では将来の約束された軍人だ。便
宜は誰だってはかってほしいんだよ。ま、俺もそうなんだと思う」
 それでも感謝している。
「私は逃げ出した人間なんだ、この島からも、母からも」
 だから、母を引き取ろう、そう思った。
 高嶺との間に心地のよい沈黙が流れていた。夏だというのに聞こえてくる虫
の音がしっとりと部屋にしみこむ。多分明日から天気が悪くなるだろう。
「そういや私の母親は病気なのか。身体のほうだ。体調を崩してはいないか」
 昨日見た血の塊が気になっていた。高嶺だって母のことを支えてくれていた
島民の一人だ。もしかすると何かを聞いているかもしれないし、見ているかも
しれない。
「身体の病気だって。そんな話聞いてないぞ。陽気に挨拶してくれるし、身体
はいいんじゃないか。ま、千島のお母さんはほんとうに若くて美人だよな。ま
だ四十にもなってないんだろ」
 後半については省略するとして、高嶺の言葉を信じるならば昨日の血液の付
着は見間違いだということになる。
「ああ。確か四十手前だ。もう一週間ほどで母は引き取る。向こうで住む場所
も決まっているんだ」
 今決めた。病院に引き取るつもりだったが、通常生活に支障がないようであ
れば一緒に暮らす。頑張れば二部屋のアパートだって借りられる。母と暮らせ
ば母の幻想だって消え去るかもしれない。私の大好きだった母に戻ってくれる
かもしれない。私も家族という感情を取り戻せるかもしれない。
「そうか、いいと思うぜ。それにしても千島はお母さんとよく似ているよな。
いつから髪を伸ばしたんだ」
 私と母がよく似ていて、そして母は若くて美人。なんだか褒められているよ
うな、小ばかにされたような気分だ。
「髪は高校一年の五月から伸ばした。これは一人で生きていくって決意の印だ」
 あの春、都会の隅の学校で思った。この島にほんとうの意味で別れを告げた。
両親にも会わないでおこうと決めた。誰にも頼らずに一人で生きていこうと決
めた。もちろん髪を伸ばすことで女性らしくなりたいなんて高望みもあったが、
恥ずかしいから言わない。
「いいな、そういう風に強いところもお母さんにそっくりでさ」
 叔父に引き続き、母の強さが話題に上る。もちろん母だってそれなりに強い
のだろう。母が私と同じ年齢の頃、既に私を出産していた。しかも出産当時、
母は独身。私を連れて父と結婚したのは出産一年後だ。尋常ではない妊娠と出
産と結婚の果てに父と母と、私がいるのだ。母は私に何度も言った。梗ちゃん
は千秋さんと私の子供なんです、と。
 結婚もせずに子供を産むなんてなかなかできることではない。そう言う意味
では母は紛れもなく強靭な精神を持っている。
 だが、それは千島千秋の妻、千島小桜としての強さであって、千島桔梗の母、
千島小桜としての強さではないのだろう。だからこそ母は私に「あなたは私の
子供だ」と言い聞かせなければならなかった。母の全面的な愛は父に注がれ、
私は父と母の間をつなぐ絆のようなものだった。私は両親に愛され大切にされ
ていた自信がある。それでも
「私は生物学的な意味ではなく、多分母の子供ではないんだと思う。私は母の
ようになりたくない。子供を優しく抱いてやれる母親になりたい」
 多分、母は私に何かの負い目を持っているのだ。それはきっと私が持つ異常
な能力と人間としての感情の欠落に通じる部分があるのだろう。
「お、母親になるなら俺が千島を大人に」
「度胸だけは誉めてやるが、力ずくでかかって来い」
 一秒で拒否。
 もう母の話は出なかった。久しぶりの故郷の話に花が咲くだけだった。やが
てぶっ倒れていた叔父が自力で自室へとこもり、高嶺がトイレと言ったまま戻っ
てこなくなった。
 そして一人取り残され一人で静かに酒を注ぐ。
「そういやお二方、この島の物語って知っているかって誰もいないんだったな」
 二並の言葉を突然思い出した。
 私と母の囚われているものがこの島の代償だ、という言葉だった。
 グラスの中をかき回し、一気に流す。一人で飲む酒はいつだって最高だ。人
間はどこまでいっても一人ぼっちで、一人が最高なのかもしれない。
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