夏、花の島

第6話

 洗剤のにおいというのは刷り込みのようなものだ。島を出て五年。自活して
安いものを買うくせに洗剤だけは実家と同じものを買い続ける。それがきっと
母から子に受け継ぐものの一つだ。例えば洗濯のたたみ方、食事の食べ方、食
器の重ね方。数え切れないものを受け継ぎ、私がいる。だから、その中の一つ
に母の性格を受け継いでも不思議ではないのかもしれない。母親というものは、
離れたくても離れられない私の全てなのだろう。いろんな母の姿を思い出す。
優しく微笑みの印象的な女性。この島の自然を好きな観光ガイド。いつも父に
頼って生きていた妻。私を生んだ母。私を大切にはしてくれたけれど、愛して
はくれなかった人。自分のことを何も語らない人。無防備な笑みでどんな敵意
をも打ち砕く人。狂気にとらわれた哀れな女。いくらでも思いつく「母親」の
姿。その母親の姿に私の姿は重ならない。私の中にある強い破壊衝動と、人を
敵味方に分けることしかできない性格が母譲りであろうものか。あの優しくて
怒ることですらできない母が私のような破壊衝動を持っているのだろうか。私
は母から何を受け継いでいるのだろうか。
「どうしたの梗ちゃん胸が重べばっ」
 そうだ、母を知っている叔父に聞こう。
「叔父さん。ちょっと聞きたいんだが」
 そういやさっき、生肉が叩きつけられるような音を聞いたような気がする。
まあいい。
「叔父さん、私とお母さんって似ているか、って何そこでかがみこんで見てい
るんだこの変態」
 頭を踏んづけておく。梗ちゃんひどい、などという声が聞こえてくるがひど
いのは叔父のほうだ。
「母と私は似ているのか」
 独り言だった。
「梗ちゃんと小桜さんは全然似てないよ。小桜さんのほうがおしとやかだし、
酒飲んで暴れないし、それに待ってバールのようなものは振り下ろさないで」
小桜。母の名前にはっとしながらも聞く。
「ほう、叔父さん、ずいぶんとひどい言い草だな。いいところをあげてくれれ
ば少しはサービスでもしてみようかと思ったが」
「まじ、サービスですか。何言ってもいいの、ほんとに」
 悶絶する叔父の頭をもう一度踏みつける。
「ちょっとはまじめになってくれ。これでも結構真剣なんだ」
 全くため息ばかりが増えてしまう。
「うん、梗ちゃんのほうがかわいいし、スタイルいいし僕は梗ちゃんのほうが
好き」
 余計なお世話だ。そんなお世辞、聞いていて寒気がする。母のにじみ出るよ
うなかわいらしさに私が勝てるわけもない。娘の私が言うのもなんだが、母の
かわいらしさは常軌を逸している。それに敵と味方にしか人間を判別できない
私が母のように柔和に人を包み込むことなんてできない。母に勝つことのでき
る場所といえば
「叔父さんは強い女が好きなのか」
 強さだけは負けていない気がする。
「どうだろ。強さなら小桜さんも負けてないよ」
 洗剤の匂いが鼻を突いて、奥が痛くなる。叔父の言葉の意味が理解できなかっ
た。あの母が私より強いなんてありえなかった。花と戯れ、父に全てを依存し、
そして今現実から目を反らす母だ。
「梗ちゃんはたくましいけどね。小桜さんは強い人だった。力じゃなくて、芯
の強い人だった」
 余計なお世話だ。洗いものに力を込めようと頑張ってみる。
「お母さんのどこが強いっていうんだ」
 精一杯の強がりだった。
「梗ちゃんの知らないところで、だよ。小桜さん、ひとりで随分頑張ったしね。
強い人だよ」
 容赦のない言葉が突き刺さり、皿を洗う手が止まる。冷たい水だけが掌を冷
やす。母を否定し、島を逃げ出した私が否定されていた。私だって一人で頑張っ
た。中学校の三年生で島を出て、全て一人で生きてきた。あんな育ちのいいお
嬢様な母に負けるわけがない。
「あ、そういや梗ちゃんに用事を頼みたいんだけど」
 その言葉に救われた。
「言ってくれ。できることなら受けよう」
「洗い終わったら今日はご家族で来ている方のガイド、やってちょうだい」
 叔父なりの心遣いだろう。そんな残酷な優しさに少しだけ感謝する。

 二十年選手のお下がり四駆で廃道寸前のダートを運転しつつ、ところどころ
で遊歩道を歩く。強い風に笹だけが屈強に対抗し、所々に見えるオオカサモチ
がこの島の異世界っぷりを強調する。切れ落ちた遊歩道左手の崖から吹き上げ
る風に小さなユリ科の群生が立ち向かう様は絵になり、実際昔は絵葉書に使わ
れたこともあるらしい。
「ガイドさん、あれは」
 指差す方向を見る。
「はい、あちらはこの島の立ち入り禁止区域を示す柵と監視塔です」
 説明を続ける。島の北半分が基地用地になってハイキングコースの大部分が
立ち入り禁止。ガイドの仕事は減り、沿岸を除くこの島の近くが漁業禁止になっ
たおかげで一気に進んだ過疎。潮浜は島に残ったただ一つの民宿で、それも半
分国有。三十秒で記憶した解説で時間を稼ぎつつ、笹の合間に広がる数少ない
お花畑を案内する。今日は東京から来たという夫婦とその子供の案内。この島
に赴任の決まった軍人以外の観光客は珍しい。島固有のウスユキソウ自生地で
民宿の弁当を広げ昼食にする、定番コースだ。ちなみに料金は昼食・移動費込
みで一組一万円。数も種類も激減したとはいえ、苦労せずに高山植物を眺める
のだからこんな時世なのに人気は高い。外からの宿泊客は必ずといっていいほ
ど参加する。
「これもウスユキソウなの」
 利発そうな顔をした子供が私の手を引っ張る。そんな子供の顔を見ると自然
と笑顔が出てしまう。
「確かに白いが、ちょっと背が高い。違いが分かるか」
 子供が植物に見惚れる。その目に幼い自分を重ねる。きっと母は私と同じ年
齢の頃、私を背負い、こうやってガイドをしていたのだ。私には出来そうにも
ないことだった。
「その花はネムロシオガマという。花だけじゃなくて葉っぱもきれいだろ。で、
この草、花だけではなく葉まできれいだから」
 そこでメモ帳を取り出して書き付けてやる。
 葉まできれい→はまできれい→浜できれい。
 夏の匂いが希薄なこの大気の下で母から受けついだ説明だ。
「浜できれいなものは塩を作る釜。だからこの草、シオガマって名前になった
らしい」
「ふーん、そうなの」
 話の八割くらいは理解されていないだろう。だいたい私も塩釜ってものがき
れいなものなのかどうか以前に見たこともない。そんな私達を両親が見て笑う。
「お詳しいですね、さすがガイドさん」
 この人のほうが私より詳しいだろう。それくらいはわかっている。
「ありがとうございます。まだまだ学生の身分ですが」
 儀礼的な受け答えだけを済ます。家族の団欒というものが見えるのはどうも
苦手だ。おにぎりをほおばった子供の栗鼠のような頬に笑いを隠せない私がい
るのに、そこに私はいない。家族に対する執着が日増しに薄れ、このままでは
母にすら何の感情ももてなくなってしまう私がいた。珍しく少し汗ばむくらい
の陽気の中、白い薄衣を着た控えめ姿の花が同じ方向にゆれる。
「今は北には歩けないんですね」
 妻のほうからの質問だった。その通りだと答える前に夫が話を続ける。
「いや、私達が出会ったのがちょうどこの島でね、ちょっと懐かしく思い出し
たんだが」
 そういう人は多い。学生時代に訪れたこの島で出会った人と結婚し、再び訪
れる人。大抵は失望を抱き、島に郷愁を残すようだ。あの頃と今はこの島の位
置づけが違いすぎる。この国で唯一、地上戦を体験した島は長期化する戦争の
中で士気を高める役割を背負わされる。少しずつ進む基地の拡張計画で多くの
植物群落が消滅し、現在公式にはこの場所、ガイドの連れてくるここ以外には
植物の群落などないとされている。ただ、もし残っているとするのなら私があ
の時偶然に遭難した場所は考えられるが、立ち入り禁止では存在しないも同然
だ。私の手持ちの非公式な資料を見る限り、私の遭難した場所はぎりぎり基地
の滑走路から外れていることだけが唯一の救いだろうか。残っている可能性は
五分五分、といったところだ。
「拡張計画は五年前に終わりました。これ以上基地は広がらないので、この場
所の植物は残るといわれています」
 五十年前からずっと言われていたことだ。基地拡張計画はこれで終わり、と。
それでも五年毎の見直しで徐々に拡張される基地に多くの植物群落が失われた。
「そうそう、この近くでチシマコザクラの咲くところ、あるんじゃない」
 頬の筋肉が硬直した。チシマコザクラ。母と同じ名前の植物だが、通常はそ
んな名前を使わない。チシマコザクラとはサクラソウ科に属するトチナイソウ
の別名だ。花の大きさが小指の先にも満たない小さくて可憐な花である。この
国一探すのが難しいとされているトチナイソウの咲く場所は私と母の秘密の場
所だった。盗掘にあう確率が高く、母も客を案内することはまずなかった。よ
ほど通じるものを感じたときだけ、こっそりと案内していたように思う。
 この人たちにもう一度案内してもいいのだろうか。
「ガイドさん、どうしました」
 母に聞きたかった。
「すいません、以前、どういう経緯でその花の場所をお知りになったのですか」
 だから私が聞く。母はなぜ、この人たちを案内したのか。それは私にも納得
できるものなのだろうか。
「恥ずかしい話ですが、私にはこの島の植物の大切さがわかっていなかったん
です」
 夫のほうが語り始める。
「ですから、勝手に植物を摘み取ってしまいまして、それで当時のガイドさん
に言われました」
 母は怒るのが苦手な人だった。代わりに納得させるまで必死で説明する。完
全に無防備な自分をさらけ出すことで、相手を無力化してしまうのだ。それは
計算づくでもなんでもなく人の心を握り、引っ張っていく。ある意味で才能だっ
た。
「とても珍しい花があるんです。私の大好きな花です。その花を見て、もし摘
み取りたくなったら教えてください、ってね」
 母の口調そのものだった。
「それで、どうされました」
 つい急いてしまう。
「行きました。とても小さな花なんですが、確かに心あらわれるような花で。
それがチシマコザクラでした。それでガイドさんがその花を前に笑って言うん
です」
「この花が私で、その隣が娘なんです。この子達はこの場所に居たいって言っ
てます、って」
 妻が続けていた。
 なんて子供っぽい説得だろう。それでも、母はこの人たちに自分の必死が通
じると直感したのだろう。花の大切さを家族の絆にたとえてしまうのは母の癖
だった。
 そこまで聞いて安心する。母がこの人たちをあの場所に連れて行ったことが
理解できる。母の深い観察力と愚直すぎるほどの言葉がこの人たちを導いたの
だ。
「わかりました。では、そちらへと案内いたします」
 記憶をたどる。
 母から受け継いだ秘密の場所。多分、その場所がこの島の最後のお花畑だ。
一般登山道から外れ、西側の斜面に向かって笹をかき分ける。そうすると地図
には載っていない踏み跡が現れる。踏み跡を正確にたどると十分で視界が開け
る。沢沿いの海風が吹き付ける霧のたまり場で、母はよく私をそこに連れてき
てくれた。
 岩の露出が多くなり、そんな中に小さな場所が現れる。
「ああ、ここは」
「ここ、でしたね、あのときも」
 二人が子供を介して手をつなぐ。それだけで十分だった。
 母は人を幸せの場所に導き、私は人を彼岸の幻想へと導く。そう思っていた
。母のガイドは人を幸福へと導く誕生詩で、私のガイドはこの島から飛び立ち、
二度と戻らない人への鎮魂詩だと思っていた。私はこうやって戻ってくること
も、二人で連れ立ってくることもない人ばかりを案内しると思っていた。でも、
彼らは母に誘われ、私に導かれここにやってきた。
 トチナイソウのすぐ隣にはチシマギキョウが咲く。母の口癖だった。
 ほら、私の花の隣に梗ちゃんのお花があります。家族みたいです。
 父が大人気なく拗ねる。俺の花がない、と。でも、そんな言葉だって母にか
かれば一発だ。
 大丈夫です。千秋さんは苗字で入っていますので二人分です。
 それが繰り返される両親の幸せの瞬間だった。私にはばれていないと思って
背後でキスを繰り返す、ほんとうにどうしようもないくらい幸せな両親の姿だっ
た。
 もう見ることも出来ないのに、五年前の場所だけはそこにある。
 記憶にある母の笑顔と、目の前で流れる家族の姿が言葉を奪う。入り込む余
地は確かに存在しない。かつてはそこにいたはずの私が少し離れた場所に立っ
ていた。圧倒的な力を持った私は、ただ人の温もりというものだけは理解でき
なかった。父と母の愛に馴染めず、友達に気を許せず、いつだって愛されるべ
き場所はあったのに入り込めなかった私がいた。大勢の愛の中、手を差し伸べ
られていたのに孤独だった。それでも
「もしかして、ガイドさん。あのときのガイドさんの娘さんではないですか」
 幸せは今でも私に繋がっているのだろうか。まだ、私は家族に祝福されてい
るのだろうか。
「はい、そうです。千島小桜は私の母です」
 私には千島小桜という母がいる。
「だろうと思いました。とても雰囲気が似ていて、素敵です」
 母の案内する後ろをついて回ったあの頃。子供ながらに高山植物をこのうえ
なく愛する母の言葉、仕種、その笑顔が大好きだった。笑うのが誰よりも得意
で、怒るのが苦手な人だった。気が弱いくせに花のことになれば必死になって
全てを説明しようとする。不器用なほどに一生懸命で、でもどこかに育ちのよ
さから来る余裕があって、たくましくないのに一人でこの島の強すぎる風の中
に立つのが好きな人だった。父がこの島を愛していたとするのなら、母はこの
島に愛されていた。
 母は今でもこの場所を覚えているのだろうか。娘を忘れても。
 母と過ごしてもいい、そう思った。家族の中に入りたい。
 汗をかいた背中にこの島の風が涼しい。幾多の夏を、誰が見ずとも越えてき
たこの場所に祈る。
 どうか永遠であれ。
 吹き付ける風に混じるジェットエンジンの音に目を細め、夏の薄い大気を感
じた。
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