冷たい空気が開け放した窓から入る。客も引け、静かな食堂で一人洗い物。 「それじゃ梗ちゃん、毎日ここに通ってくるんだね」 昼頃になってようやく復活した叔父が立ち上がる。 「ああ、叔父さんと一緒にいると何されるか分からないからな」 冷蔵庫の中を漁っていた叔父が凍り付く。 「千秋、お前の娘、最近どんどん冷たくなるよ」 千秋とは私の父の名前である。どうでもいいことだが、冷蔵庫に向かって父 の名前をつぶやくのは少々勘弁して欲しい。非常に危ない人に見える。 「いいから立ち直れ。気持ちだけ受け取らせてもらうから。私がいると酒の消 費だけで経営が傾くだろ、だからだ」 言い訳がましいので止めておく。 「そ、そうだよね、梗ちゃんが嫌うわけないよね。あ、前世紀の干物発見」 微妙に嫌ってやりたい気分になった。 「それでは今日は帰らせてもらう。世話になった」 簡単な挨拶を終えて外に出る。 外は夜。曇り空の所々から星が漏れ出で、月明かりが海の香に染まる。夕暮 れも終わり、夜のかけらが島を覆う時間。夏の匂いすらない最果ての島の冷た い風が吹き始める。 どんなに遅くなろうとも母のいるあの家に帰る。たとえ母が私を私だと認識 しなくても、最後の夏くらいは一緒にいてやる。それが私なりのけじめだ。天 の川がうす雲にさえぎられ、風が潮のにおいを運ぶ、北の果ての島。堤防の上 を鼻歌交じりに歩き、飛び降りてバス停に駆け寄る。 警音器を鳴らされた。 振り返ると窓から顔が一つ。 「千島さん、夜にお出かけは珍しいですね」 車幅灯の弱い光に影が伸びる。車のドアが開き、中から現れた顔を見る。記 憶の片隅にその顔が引っかかる。性別は男。味方。身長百六十八、頭のデータ と合致する。 「もしかして、先生か」 「あ、ああ。千島……桔梗、って桔梗か。随分久しぶりだな」 中学のときお世話になった先生だった。一瞬言いよどんだ言葉に違和感を覚 えるが、懐かしさのほうが先行する。 「久しぶり、だが。よくわかったな。私のこと」 私にとって先生が五年ぶりなら、先生にとっても私は五年ぶりだ。しかも中 学生の頃と今では随分と身体つきも変わった。 「だってお前すごい有名だぜ。向こうでは随分な活躍だったじゃないか。教え 子でテレビ出演した奴なんてお前くらいだし」 笑いあう。先生にはいろいろと迷惑をかけた。日々の生活も、両親に内緒で 受けた高校のいろんな手配も、そして。 「遭難事件か」 きっかけは些細なことだった。社会科の時間、流れ着いた敵国兵士を治療し て送還したという話が取り上げられたのだ。それは感動すべき話だそうだ。だ が、私一人が言った。 敵ならば殺せばいい。味方なら助ければいい。 今でも私の答は正しいと思う。だが、その理屈は誰にも通らなかった。人と いうものは通常、人間を味方と敵に分けることはできない。たとえ敵であろう とも、その背後に背負うものが見え、憐れみを感じるものだ。だが、私にはそ んなものは見えない。苦しませてやりたいとは思わないが、助けてやりたいと も思わない。人間は軍に身を投じた瞬間、憐れみを受けるべき対象ではなくな るのだ。私は自分が生きた印として敵を殺す。敵が生きていた証拠に、殺した 相手の顔を覚えておく。それでいいと思う。 私は殺す。大丈夫、その人のことは私が覚えている。大丈夫、それだけで生 きていける。 中学の小さな教室で私はそう言った。 むしろ軽蔑されれば良かったのかもしれない。それなのに あのね、千島さん。人のつながりってのは温かいんだよ。傷ついたら、助け てあげようよ。 その言葉が私の孤独を際立たせた。 誰もが私に優しく接してくれた。私に温かさを伝えようとしてくれた。だが、 私にはクラスの生徒も、先生も、何もかもが味方以上の存在とは思えなかった。 必死になって人間の情を教えようとする彼らがただ、理解できなかった。それ は埋めがたい孤独だった。その孤独に自分の身体の異常な力が重なり、たとえ ようもない破壊衝動に襲われた。教室の金属製の扉を素手で壊し、出ていった。 常に力を抑制しなければ何もかもを引き裂いてしまいそうなほどの力を出して しまいそうな自分がいた。 私は人間ではない。人間としての欠陥品で規格外だ。そんな不良品なら壊し てしまえばいい。そう思った。だから沢を登った。そうすれば勝手に死ねると 思った。沢を登りきり、誰も見たことのないお花畑にたどり着き、空を仰いで 身を横たえた。遭難場所は当時の基地拡張計画予定地の中だ。警察すら入れな い小さな島の北半分を夜通しヘリコプターが飛び、軍隊と父親と先生が必死に なって私を捜索したらしい。 「遭難か。そんなことあったなあ。あれ、大変だったぞ。お前の親父、格好よ かったぜ。ききょー返事しろーってな」 父の姿を私も覚えている。明け方のまぶしい朝日の中に伸びた影が近づいて きて、私に触れたものが父だった。そしてその父の腕が苦しいぐらいに強くて。 他人の温かさは理解できなかったけれど、父の温かさだけはかろうじてわかっ た。 「久しぶりに帰ってきた生徒に何か一言、言ってみないか。色っぽくなったと か」 風にシラネニンジンが揺れる。そんな風に任せ、少し空気を変えてみたかった。 「いや、色っぽくなったもなにも俺、さっきお前さんとお前の母親を見間違っ たわけだしな。随分女性らしくなったな、お前も」 違和感が解けた。先生の言い淀みは五年ぶりだから、ではない。私と母を間 違えたからだ。 「そんな似ているのか、母と私は」 いつだって笑うことしか出来なかった母。父に依存しなければ生きていけな かった母。柔和で、戦うことですら放棄してしまった母。笑うのに必死で、ど うしようもなく孤独で、強張っていて、戦うことしか知らない私とは似ても似 つかぬ存在だ。 「そりゃ身長こそ違え、顔立ちも似ていれば、髪の毛も伸ばしているだろ、そ りゃ普通見間違う」 少しだけ心が落ち着く。なるほど。所詮母と娘だ。遠目に見れば何らかの雰 囲気くらいは近いのかもしれない。 突風の夜を駆け抜ける音の中に遠くからバスのエンジンが聞こえた。 「バスか。じゃ千島、また学校来い。お前の好きだった紅茶を用意しておくぜ」 軽く警音器が鳴り、尾灯がカーブに消える。バスが中途半端な会釈を断ち切 る。ステップを登るとバスの中を流れる夜の大気に冷え込んだ水滴が混じる。 ゲート前で降り、車に乗せてもらって自宅前。ドアを開く。接し方すら分から ない母と顔を合わせるのだ。嫌でも気が重くなる。 「おかえりなさい、今日は遅かったです。遊びに夢中でしたか」 子供のように笑いかける母が顔を覗かせ、玄関に立って娘を出迎える。五年 ぶりに帰ってきた娘を何の不審にも思わず、叱りもせず昨日まで続いてきた幻 想と一緒になってしまう。 「ああ、遊んでいた。不良なんだ」 適当な言葉を返し、食卓に就き、向き合う。かみ合わない会話が始まる。五 年前の来週の予定が流れ、民宿の仕事の話が出、今はいない近所の人の話が顔 をのぞかせ 「そういえば昨日の夜、千秋さんが帰ってきたんです」 突如母が父のことを言い出す。どうやら母の頭の中では私だけではなく、父 も幻想の道連れにされるらしい。 父と母の中は私が中学生の頃に急速に冷えた。原因は基地拡張計画だ。母は この島でたった一人、計画に反対して自分を守りに入り、父は母との会話を放 棄して拡張計画を強く支持していた。 「それで、お父さんはどうだった。元気だったか」 母に話を合わせてみる。中学生の頃の私が幻想に見えているというのなら、 私が中学三年生の頃の、口をきこうとしなかった頃の父が現れているのだろ うか。 「はい。千秋さんは梗ちゃんに会いたがっていました。千秋さん、私と梗ちゃ んのためにお花畑を作ってくれたと言っていました。とてもいいところだそう です」 幻想にしては具体的な話だった。そして母は幻想の父と普通に会話して仲も よさそうだ。私の幻想と父の幻想は時間軸が合致していない。母は過去の一片 を思い出しているわけではないようだ。となると 「父さんは、どんな格好をしていた」 少しだけ思い当たることがあった。 「え、それはちょうどあんな感じの」 母が部屋の隅を指差す。 私の士官用制服だった。 父が軍服を着ているとするならば全てが繋がる。 父が突然軍隊に入隊したのは私がこの島を出て三年目だ。そのわずか六ヵ月 後に行方不明になっている。軍服を着た父が幻想に現れるとなると話は簡単だ。 父がこの家を出て入隊する直前、その父が出てきているらしい。 母の幻想は「その人」の最後の日を延々と繰り返しているのだろう。その後 の別れを脳が拒否し、別れる直前の約束だけを繰り返すのだ。 一切の別れを拒否して、ただ逃げるだけ。 千島小桜。私の母。性別、女。たった一人の家族。 ため息を漏らしてそんな母の顔を観察する。 相も変わらず柔和に微笑み、意識しなくとも湧いてくる気品を漂わせ、一方 で強い意志をどこかに感じさせずにはいられない顔立ちを崩さない。耳にはずっ と昔から雪の結晶をかたどった耳飾りが光り、ショートカットだった髪は肩に まで伸び、 何かがそこに固まっていた。 黒くて、ほんの小さなものだった。見落とすわけがなかった。形、色、遠目 に分析するまでもなく血液の固まりだ。 手でも怪我したのだろうか。そんな当前過ぎる可能性は当然過ぎて出てこな かった。髪に血液がつくなど通常では考えられない。もしあるとすれば、それ は近接戦闘でもしたのか、または吐血か。 その結論に箸を落としていた。 「どうかしましたか、梗ちゃん」 母をにらみつけ、トイレに走る。痕跡を探す。洗面所も調べる。血の一滴で すら見当たらない。洗面所に手をついて、白い壁と床を眺める。どれほど隠し ても絶対にあるはずだ、髪に血のつくような状況、普通では考えられ 「走ってはだめですよ、梗ちゃん」 背後から突然聞こえた母の声に驚いて肘を壁にぶつける。 「家の中で走るのは少しお行儀が悪いです。お食事、しましょう」 一瞬困ったような顔をして、それから笑いかけ、落とした箸を私へと向ける。 その母が私に何かを隠しているようには見えなかった。 「ああ、私は不良だからな」 だから頭の中を必死になって修正する。 あれは血液などではない。外に出て何かの種が髪に絡みついただけなのかも しれなければ、何かを修理していて髪に接着剤がついたのかもしれない。母は ああ見えて意外と機械の修理と操作が得意だ。昔は民宿経営の傍らで島中の家 電製品の修理を引き受けていた。上っ面だけを必死に取り繕い、食卓へと戻る。 「お母さん、もう休んでいてくれ。片付けは私がする」 率先して台所に立とうとする母に声をかける。 「そうですか、ありがとうございます。それでは食卓でのんびりさせていただ きますね」 調子の狂いそうな母の言葉を背中に聞き、二人分の食器を洗う。 昔。民宿の客と私を連れてこの島をガイドしていた頃の母の顔を思い出す。 今の笑顔となんら変わることのないその笑顔が私に何を隠しているのだろう。 |
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