夏、花の島

第3話

 掃除、洗濯、後片付け。以上が民宿での私の仕事だ。家事は嫌いではないし
、決して下手でもないので楽勝ではあるが刺激はない。ちなみに料理と帳簿記
入は叔父の仕事。ガイドを頼まれればこの島を案内することになっている。本
当は母の仕事だったのだけど、今の母にはそんな能力はない。通常の生活に支
障があるわけではないらしいが、精神を病んで以降外に出たがらなくなったの
だ。宿泊客の大半は観光客というよりは基地勤務の家族であったりするので仕
事は昼過ぎに一段落。連絡船到着まで二時間程度の時間がある。次に忙しくな
るのはそれからだ。少しだけ休憩をもらい、外へ出た。
 歩道もあるのだけれど、堤防の上を歩く。普段の目線とは異なる高みからの
風景というものは気持ちがいい。風だって身体に受けることが出来れば波の音
だって近くに感じるし、視界には言葉にできない青色が広がる。高い場所は五
感のすべてに訴えかけてくれる。だから昔からちょっと高いところが好きだっ
た。歩道の縁石の上、他人様の家の区切りのコンクリート、ほったらかしにさ
れている花壇のブロックの上。三メートルは高い堤防の上なんて当然のごとく
昔からのお気に入りだし、身長だって高くなりたかった。念願叶ってか、現在
ではありえないほど大きくなってしまったが。
 高みからの景色は気持ちいい。
 強い風を足元から受け、遠くの隣島の強い島影にこの島の白い花が映え、今
日は隣島の山がかすむ。明日はきっと寒くなるだろう。昨日降り立った港を過
ぎ、堤防から飛び降りる。足を進めてこの島唯一の高校のある高台へ向かう。
舗装道の隙間から生えるイブキトラノオの無意味な逞しさに感激し、なだらか
に坂道を登る。少し白みがかった空が視界一面に広がり、風が一段と強くなる
場所。私が通うはずだった島唯一の高校の前だ。
 大きく息を吸う。透き通った空気が身体に行き渡る。身体の中から冷やされ
る、セミのいない夏の一区切り。この島の希薄な夏の空気の下でしか生きてい
けない植物たちそれはあの果ての岬に住む、哀れな母と同じだった。帰ってく
るはずのない過去の私を待つ母もまた、あの場所でしか生きていけない。
 母は今日もいるはずのない中学生頃の娘を送り出し、笑顔で庭の手入れをし
、家を掃除し、袖も通されていない制服を洗濯するのだろう。あの、夕暮れだ
けは世界一美しい北の果ての岬で世界一の孤独に囲まれて。
 私の五年間が自ら望んだ孤独ならば、母は抗いようのない孤独の中にいた。
 空と海と花の島。私のふるさと。そして最前線の島。約五十年前、島民のほ
ぼ全てが奇襲で殺され、島の大半を焼き尽くされ、そして最初の反攻を遂げた
島。果敢なる誇りの島であり、喪失の象徴の島でもある。こんな孤独な風景を
愛していたのに一人で生きていこうと出て行った五年前。どんなことでも一人
でできると思っていた五年前。五秒で回想できる五年を切り捨てる。
 坂を上りきると空が光る。大きく伸びをして空から海へと目を向けるその瞬
間、太陽光の不自然な反射と空気の微妙な乱れを確認する。
 人がいる。
 気づかぬ振りをして視線だけを動かし、姿を確認。分析する。
 敵味方判別不可。分析を進める。身構えて、その場所までの距離に見当をつ
ける。相対的な高さで五メートル上、直線距離で二十メートル。武器の携行は
認められないが、姿勢のよさからは何らかの訓練は受けているのかもしれない。
身構えは解くべきではない。むしろ警戒すべきだ。こんな近くまで人の気配に
気づかなかったのは初めてだ。身体に力を入れて歩み寄る。そして
「こんにちは、ききょうさん」
 中性的な声だった。透き通ったガラスの響くような声に聞きほれてしまう。
 頭の中の情報と照らし合わせ、過去の記憶と照合。該当なし。間違いなく初
対面だろう。年齢は同じくらい、性別は男だろうか。
「誰だ。名乗れ」
 私の名前を知っているのだ。油断は出来ない。
「えっと、中学の時一緒のクラスで、名字は二並っていうんだけど」
 きれいな人だった。一瞬身体の力が抜けて見とれてしまう。
 だめだ。そんなことではいけない。
 もう一度分析する。性別は男。苗字がふたなみ。やはり記憶には残っていな
い。距離三メートルを切っているのに未だ敵味方の判別はできない。だが、ど
こかしら懐かしいような気もする。
 さて、警戒を強めるべきか解くべきか。
「ん、私の名前も知っているらしいが記憶にはない、申し訳ない」
 探りを入れる。
「で、今ききょうさんは民宿潮浜でバイト中、だよね」
 指差された先には名札があった。単純に名前を読み取って言っていただけだ
ろうか。
「私への用事は何だ。それから必要以上に名札を注視するのはやめてもらおう」
 二並と名乗った男の指と目線がさっきの場所から離れない。
「ききょうさん、大きくなったからさ」
 緊張なんて一気に吹っ飛び、五年前が時空を越えて私に接続する。
「ったくどいつもこいつもそれが遺言か」
 島という隔離条件が虫レベルの反応をさせるのだ。
「で、ちなみにどれくらい」
 叔父と一緒の反応をする。男という血には逆らえないものがあるのだろうか。
「そうだな。メロンという野菜は知っているか」
 だからどうした、という話もあるが
「マスクメロンとか想像していいですか」
 無駄に高級だった。予想の斜め上を軽く越してくれる。
「自分のつま先が見えなくてな、最近。右手の動きが気持ち悪いぞ、二並」
 故郷に変態大発生、と新聞に情報提供してやろうか。
「あ、あの、ジャンプして」
 縦揺れがそこまでロマンと言うならこちらにだって覚悟はある。
「そうか、ここから1G加速を体験したいか。早く身を乗り出せ。背中くらいなら
押してやる」
 最近はスカイダイビングが流行しているのだろうか。それも
「勘弁してよ。絶対死ぬって」
 当然のごとく落下傘なんて甘いものは装着しないで。
「反省するか」
 叔父よりも優しくしておこう。
「でもききょうさん、あのころはほんと小さくて静かだった」
 声と同時に冷たい風が吹き下ろす。自分の中の何かを押さえつける術を知ら
なくて苦しんだ昔が甦る。一人でたどり着いたお花畑の風景とこの島を離れた
日の朝を思い出す。そんなものが全て目の前の二並に収束する。
 この人には何も警戒も心配しなくていい。私の中から記憶が抜け落ちること
だってある。頭の中を書き換えることにした。中学生の同級生、二並。
「よろしく二並。思い出せないけどさ」
 手を差し出す。その手に二並の手が重なる。
「うん、ききょうさん。よろしく」
 温かくて繊細で、それでも強さを感じさせる手だった。その手に「ききょう
さん」という独特の響きがどきどきさせる。
 必死でそんなものを隠しにかかる。
「では再会記念にうちの民宿に来い。浴びるほど飲ませてやる」
 施設警務官五人に叔父に私に二並。今晩の飲み会は随分とにぎやかになりそ
うだ。
「うん、それじゃ、また」
 久しぶりだった。敵でも味方でもない、胸の高鳴る人との出会いだった。そ
れだけのことで帰ってくるつもりすらなかった故郷に戻ってきてよかった、そ
んな気がする。せめてこの島に滞在する二週間程度だけでもありきたりな女の
子であれそうな気がする。二並の背中を見て、思わずこみ上げる笑いを残し、
坂を下りる。肩で風を切る気持ち良さと、歩く足の強さだけで母のことなんて
吹っ飛んでいた。
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