夏、花の島

第1話

―――制服のまま沢の中を登る。青空に続く笹の中の冷たい水。やがて川から
水が消え、目の前にはどこかの山頂。青空の高みへと体を運ぶ。
 見たことのない景色が広がっていた。紫色の螺旋のような花。白い、柔らか
な衣をまとった花。稀少な高山植物が惜しげもなく咲く場所。誇ることもなく、
ただ美しく。強い風に揺れるお花畑が幻想的だった。夕暮れが近づいて肌寒く
なる。隣島の山肌が赤く染まり、私の暮らす集落に電灯がともる。はるか遠く
の都会の光が星を写した海に輝き始めた月明かりの下。そんな夕暮れの終わり。
 私は、この世で一番孤独だ。
 乾ききらない制服が夜風に冷たくて丸まった。ふと、目線に着飾った美しい
高山植物の中、岩陰で頭を垂れる黄色い花を見つけた。たとえるならばタンポ
ポのような形。小さく、地味で私のようだ、と思った。だからそっと、その花
を風から守ってあげた―――

 海を駆ける突風が頬を撫で、汽笛の音が懐かしい夢から現実に戻す。入港の
合図だ。北緯四十五度。最果ての島唯一の港である。年中無休の強風が雲一つ
ない空から吹き下ろす場所にして最前線の基地の島。船で買い込んだ缶ビール
を片手に夕暮れの甲板でたそがれてみる。
「お父さんと同じか」
 つぶやいた声が風に流され、海からせりあがる笹薮の山肌に消える。海を隔
てたはるか向こうには崩れた山肌。隣島の赤く輝く独立峰が夕焼けに染まって
いるのだ。向こうの島はこの島の真っ平らとは対照的で、天を突く岩稜の独立
峰を抱いている。一方こちらは吹きつける風のあまりの強さに樹一本生えぬ島。
どちらの島も過酷すぎる自然に阻まれ、生きていくのには適さない。
 そこが私の生まれ故郷だ。
 係留の衝撃がほんの少し身体を包む酔いに気持ちよく響く。
 四本目の缶ビールを空けて甲板を降り、毎年のように増設され綺麗になって
いく連絡線待合所に足を下ろす。迎えは断っておいた。せめても休暇くらい気
を抜きたいからだ。降って湧いた気楽さが待合所の床こだまする足音のように
軽快だ。と言うと格好よく聞こえるのだが、有体に言ってしまえば人の姿が見
当たらないということでもある。約五十年前、戦争が起こるまではこの待合室
に人があふれていたという。五年前、私がこの島に住んでいた頃はそれでも観
光客の姿がまばらに見えていた。そして第六期基地拡張計画から五年が経ち今
に至る。観光の目玉であったはずの高山植物の大半は消え去り、島の北半分が
立ち入り禁止になり、過疎と観光客離れに加速がかかった。
 五年という時間は短いようで長い。身体はこちらに来たけれど、心のほうは
ついてきてくれていない。それでも待合室を出て、大きな荷物を背中にバス停
へ向かう。
 時折思い出したかのような突風が海から吹きつけ、イネ科の雑草が法面で揺
れる。目を移すと民家がちらほら、三年前に天寿を全うしたと思われる自動販
売機。通る車もないくせに二車線のやたらと広い道路。その脇には大正ロマン
ですら恥ずかしくなるような原色看板、描かれた子供が不気味なまでに白い歯
をむき出して笑いかける。何も変わらない故郷の風景だった。耐爆構造ですら
施されているバスの待合室に背中の荷物を放り出し、耐えがたき放置プレイに
さらされてきたと思われるバスの呼び鈴を押す。最悪でも二十分すれば来るだ
ろう。
 待つこと十五分。目の前を走り去った車が六台だけだったことにうんざりも
すれば、なんばプレートが全て六桁であったことにもうんざりする。要するに
一般車両は一台として通行しなかったわけだ。五本目の缶ビールを備え付けの
ゴミ箱に捨て、遠くに見える隣島の赤い夕暮れの光景を見渡す。
 この島の夕暮れはどこから見ても上質だけれど、世界一美しい夕暮れはこの
島の一番北の果てにしかない。待合室の外では凪が始まり、海鳥が陸地へ戻り、
一瞬の穏やかさが島に満ちる。そんな風景は新車同様のバスがやけに高いエン
ジン音を響かせて断ち切る。ちなみにバスに乗り込むのは私一人なら当然バス
の中にも乗客なんていない。観光客の激減した今、このバス自体、私の実家の
ためだけに走っているようなものだ。港を過ぎて北に行ったところで民家もな
ければ観光地もない。港より北にある人家は私の実家一軒のみ。それでも乗せ
る客もいないくせに一日に何往復も島の南北を結び、更には呼び出せばいつだっ
て走ってきてくれる。そんな破格の行政サービスが出来るのもこの島の潤沢す
ぎる予算のおかげだろう。
 というわけでバスはひたすら北へ向かう。機械が運転しているのではないか
と思えるほどの等速直線運動だが、種を明かすと信号機もなければ乗ってくる
客もいないだけだ。完璧に整備された道で制限速度を守っていれば初心者でも
加速度を感じさせない運転が出来てしまう。バスに乗って約二十分、緩やかな
減速が掛かり、延び切ったテープから機械的な女性の声が次は終点ゲート前で
すと繰り返す。連絡船乗り場からゲート前。途中に店もなければ民家もない超
赤字路線だ。ちなみにバスの運賃はゼロ。この島では食料品、ガソリン、ライ
フラインその他ほとんどの価格が異常に低く設定されている。そうでもしない
とこの島に住む人がいなくなるのだろう。
 道はまだまだ続いているのだが、バスの走行は終点、ゲート前にて打ち止め
。大型バスが五台くらいは駐車できそうな待避所に車輪が滑り込む。見える景
色はコンクリート打ちされた山と、堤防の向こうの金色の海だけ。家なんて生
易しいものは一切存在しなければ人の気配ですらない。それでもこの場所が無
人島でない証拠のように北には高さ三メートルのフェンスが見える。確認した
ことはないが、そのフェンスは島の東の端から西の端にまで続いてこの島を南
北に分断しているはずだ。私の実家はここから更に車で二十分走った島の果て
にある。
 大きな荷物を引きずり、礼だけ言ってバスから降りる。運行を終えたバスが
静かに転回し、車幅灯だけをつけて走り去る。さて、ここから先は乗換えるこ
とになる。ゲートへと向かう。
 私の影に気づいたのか、門衛舎から現れた新兵が形式的に自動小銃を向ける。
八年前に制式採用されたものだ。安全装置は指一本で解除。装填さえ練習すれ
ば誰だって何の反動も感じずに一分間で六十発の鉛を誤射なしで撃ちだすこと
が出来る。容赦なんてないもので、私がこのまま近づけば威嚇射撃なしに撃ち
出されるだろう。絶対に命中はしないだろうが。
 避けられる衝突は避ける。原則である。胸ポケットを探った。
「千島だ。進入目的は実家への帰宅。車を用意しろ」
 身分証明書と許可証を提示する。瞬間、自動小銃を取り落とした音が響き、
門衛の敬礼が決まる。見事なまでに固さの残る敬礼だった。入隊して三ヶ月そ
こそこだろう。
「失礼しました、お疲れ様です」
 立場も立場であるので一応答礼を返しておく。身分の差はこんな小さな島で
も絶対だ。
 北方大学二回生兼空軍北方方面隊所属将校準備生、千島桔梗。階級は准尉。
多分、この国で一番若い女性士官である。それが現在の私の身分だ。
 ゲートをくぐるとやたら愛想のよい五分刈り頭が二十年選手のワゴン車の警
音器をならす。気の抜けるような音が夕暮れ過ぎの島にはちょうどいい。
「久しぶりだな。五年ぶりに戻ってきて早速だが家まで運んでくれ。基地には
いずれ顔を出す」
 この五分刈り頭は私が五歳の頃から、つまりこの島で十五年ほど施設警務官
をやっている骨董品のような昔なじみである。昔は最前線で戦っていたらしい
が怪我をして以降、この島で施設警務を担当するようになり、来年には定年を
迎える。人間万事塞翁が馬、とはよく言ったもので、怪我の功名で悠々自適の
軍人ライフを送っているのだ。そんな五分刈り頭の口癖は「平和が一番」とい
う試合放棄タイプなのであるが侮ってはいけない。実は相当の歴戦の人間であ
り、通常の士官よりはるかに強い指導力を発揮する。
 ワゴン車のサイドドアが開く。ドアからのぞいた顔が目線を合わせて正確に
七秒。口を開きっぱなしにして愛想笑いを崩さない。その愛想笑いの口が徐々
に開かれ、完全に丸くなるまで正確に五秒経過。年をとると直感の驚きのほう
が理性の驚きよりも後であらわれるらしい。
「き、梗ちゃん、だね。大きくなって、噂には聞いていたけど髪も長くなって」
 助手席のドアを勝手に開けて乗る。そこに乗るのも五年ぶりなら、口を利く
のも五年ぶりなら、梗ちゃんなどと呼ばれるのも五年ぶりだ。
「つもり話はまた今度にしてくれ。とりあえず家に向かってくれるか」
 わざと冷たく言い、荷物を膝の上において外を見る。二十歳にもなって梗ちゃ
ん、だ。さすがに小学生の頃の愛称で呼ばれると恥ずかしさが勝ってしまう。
「戻ってくるとは聞いていたけど、肩を見る限り准尉だよね。そういうことは」
 旅行届けは所属に提出したが、個人情報なので三級機密扱いのはずだ。下士
官上がりの准尉に情報照会権限などないはずなのだが、この人くらいの古株に
なると縦だけではなく横の情報網が強いのだろう。
「階級は一緒だが、単なる大学生で将校準備生だ。実戦経験もない」
 この世界は実戦の数が全てである。階級の差なんて儀礼以外には役に立たな
い。
「そうかい、でも準備生ってエリートだよね。あの梗ちゃんが将校準備生だっ
たら頷けるよ。ここは鼻を高くして宣伝するところかい、それとも」
 五部刈り頭の言葉が濁る。きっと私の母のことを思っているのだ。母は一貫
して戦争というものを避けている。積極的な反対をすることはないが、決して
耳を貸そうともしない。
「施設警務のお仲間は元気か」
 話題を思いっきり転換することにした。
「心配ないよ。あいつら元気だけは余っているね。しかしあの梗ちゃんが」
 年をとると話がループする。
「制服を着ている間はお互いに軍属だ。一応千島とでも呼んでくれ。明日にで
も楽しく飲もう。そのときにはそう呼んでくれて構わない」
 梗ちゃん。私は多分、その五年前の空気を渇望している。
「到着したよ、千島准尉。また明日連絡してくれたら迎えに来るからさ」
 この上ない上機嫌だった。
「感謝する、明日からは叔父の民宿に行くので七時くらいに」
「了解、迎えは午前七時、こちらで」
 七時に来い、ということは六時過ぎには勤務についていなければならないだ
ろう。さすがに負担が大きすぎる。
「なんなら車を一台貸して」
「気にしないで、千島准尉。服務規程三十二条の第三項、所属の異なる者への
装備品貸与には所属長の許可を必要とする、なんてね。それでは明日、ここで」
 きれいな敬礼が言葉を遮る。
 あわてて答礼を返した。年季の差というものはほんとうに惚れ惚れとさせら
れてしまう。
 鮮やかな尾灯の赤と気の抜けた警音器の音だけを残した車が南へと戻り、踝
までの草の中に私一人。両際に広がる海に夕焼けの最後の紫色が消えていく。
世界一美しい日没には少しだけ間に合わなかったらしい。海岸から続く高山植
物のお花畑が続き、自動車の入れない遊歩道のような踏み跡を辿っていくと白
い壁に赤い屋根の家が現れる。私が中学三年生までを過ごした実家で、世界一
孤独な場所で、世界一夕暮れの美しい場所だ。五年分を五秒で回想する。
 中学の卒業後、家出同然にこの家を飛び出し、都会の高校で三年を過ごした。
卒業後は空軍に入隊しながらこの国に三つしかない国立の大学で二年目の夏を
過ごしている。最後に見た日から何も変わらない実家の扉を開ける。
「今戻った」
 五年ぶりの言葉。母を捜し、わずかな期待をこめる。
「おかえりなさい、梗ちゃん。学校はどうでしたか」
 五年前と同じ言葉だった。
 五年ぶりに見る母の姿を記憶の中のそれと照らし合わせる。年をとったはず
なのに、むしろ幼くなった感じすら受ける。目に映るのは無邪気に私に笑いか
けるあの日のままの母の姿。顔立ちだけはあの頃と同じくらいにきれいで若く、
何を思ったのかショートだった髪の毛は肩の辺りまで伸びている。きっと性格
だって変わっていない。今でも笑うのが得意で怒るのが苦手なのだろう。この
島の多分に漏れず、母も五年前から何も変わっていない。
「ああ、今は夏休みだが」
 母の顔が笑ったまま、少し思案に入る。
「梗ちゃん変です。夏休みなのに学校へ行ったんですね。お友達ですか、それ
とも勉強ですか」
 嫌な予感がしたが、精一杯事実を伝えることにする。
「友達でも勉強でもない。ただ、久しぶりにここに戻ってきた、それだけだ」
 戻ることはない、と思っていたこの場所に。
「それはよかったです。それでは晩ご飯にしますね」
 笑顔の母を追いかけるように足を踏み入れる。完璧なまでに片付けられた家
の中と、いつまでたっても少女趣味の抜けきらない母らしい小物がアンティー
クショップよろしく置かれている。右端には絵本から抜け出してきたかのよう
な置時計。これは父からのプレゼントだった。次は糸に通された二枚貝の首飾
り。少しだけ思い出に浸る。その隣は一抱えもあるぬいぐるみ。これは母が自
分で作ったものだ。少し笑えてしまう。いくら若く見えると言っても母だって
四十歳手前だ。少女の抱いていそうなぬいぐるみをそこかしこに飾り付けるの
はさすがに考え物である。ぬいぐるみを過ぎると棚は切れ、そこから先は壁に
写真がいくつか。ずっと昔、私がまだ小学校の頃のものまで壁に刺さっている。
それが三人揃って笑顔を素直に出すことのできた最後の写真だろう。
「梗ちゃん、少しお手伝いをお願いしていいですか」
 台所に向かいかけた母が私に思案の声で言う。
「言ってくれ。できることならする」
 それだけの言葉で母が満面の笑みになる。これほどにまで無防備な人はこの
世にはいない。そして母の無防備は私をすらも無防備にする。
「ではお洗濯物を取り入れてきてください。高いところはお母さんが取ります
から、無理はしなくていいです」
 笑えた。私の方が身長もはるかに高いのだ。私に届かなければ母には絶対届
かない。そんな突っ込みを心の中でだけ入れて、外に出る。そして、物干し竿
には
 中学生の頃の私の制服が干してあった。
 五年前と同じだった。
 心の奥底から冷えていた。
「あの制服、まだあったのか」
 かろうじて踏みとどまり、台所に言葉を投げる。
「はい、梗ちゃんのです。最近全然汚さないからとても助かっています。梗ちゃ
んはおとなしいですね。もっと汚してくれてもいいです。元気なほうがお母さ
んはうれしいです」
 返すべき言葉は何もなかった。
 聞いていた話は全てほんとうなのだ。
 わずかな期待が一気に崩れ去っていった。
 母は着る人もいない私の制服を毎日洗濯しているのだ。どんな言葉よりもそ
の事実が全てを告げていた。
 父が死んで二年が過ぎた。母が「病気」になったのはだいたい一年前、らし
い。精神的ショックによる現実の拒否と幸福の再現、などと医者は言うが、一
言で言うと母はこの一年、精神を病んでいる。父の死、そして私の五年間の家
出という現実を拒否した母は頭の中に「いるはずもない中学三年生の私」を作
り上げたようだ。だから「娘」が帰ってこなくても食事を作るし、着ることも
ない中学校の制服を洗濯する。さっきの会話だって成立しているようには見え
るが、実際は違う。母は「中学三年生の私」に話しかけ、私は現実の母に話し
かける。母の頭の中では、私は五年前から一切の成長が止まってしまっている
のだ。それでも母は日々記憶を更新し続けるのか、延々と同じ日々を繰り返し、
誰もいない食卓に食事を並べ、柔和に娘の帰宅を待ち続け、帰りが遅いのを心
配して中学校や警察に電話をかける。現在は島民の好意により生活を支えられ
ている母であるが、これ以上島に迷惑をかけるわけにもいかない。それに私が
帰ってくれば母が幻想から醒めるかもしれない、という医者の薦めもあった。
この夏の休暇を使い、母を引き取って都会の病院へと連れて行く。それがこの
島に戻ってきた理由だ。
「そうです、梗ちゃん、明日の、ええとなんでしたっけ」
「明日は叔父さんのとこで泊まる。基地の人と一緒だ」
 母が一瞬何かを思案し、首を傾げる。
 もしかすると母の中の幻想が解けるのではないか。そう祈る。
「あれ、梗ちゃんがいないです」
 娘を探す母の目線が、目の前の私に合わさり、それはあまりにも残酷に
 希望を
「あの、すいません、うちの娘、どこに行ったのかご存知ですか」
 打ち砕いた。だから
「悪い。あなたの娘など知らない」
 唇を噛む。覚悟はしていた。それでもどこかで自信を抱いていた。私が戻れ
ば母も元に戻るだろう、と。五年間逃げ出しておいて自分勝手な思いこみだっ
た。娘を本気で心配し、あちこちに電話をかけようとする母の姿を視界から逸
らし、そっと自分の部屋だったところへ行く。
「はい、そうです。千島桔梗、中学三年生の女の子なんです。はい、お願いし
ます」
 警察にでも電話しているのだろう。近いうちに駐在にも顔を出して謝ってお
こう。
 鞄から出した焼酎を枕にして寝ころぶ。何もかもが五年前のままで、私だけ
が五年分年を取ったような、そんな気がした。
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